本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,817 件)





野口小蕙

没年月日:1945/04/02

 日本美術協会委員野口小蕙は4月2日脳溢血の為死去した。享年68。名は郁、明治11年東京に生れ、母小蘋に師事し南画をよくした。14歳のときはじめて日本美術協会に出品、その後種々の展覧会に作品を発表して名を知られた。かつて小室翠雲の夫人であつたが故あつて離別したものである。

小室翠雲

没年月日:1945/03/30

 帝室技芸員、帝国芸術院会員小室翠雲は3月30日帝大病院で逝去した。享年72。名貞次郎、明治7年群馬県に生れ、南画を田崎早雲に学んで、日本美術協会でしばしば受賞、同協会委員、日本画会及び南画会の幹事として次第に名声をあげた。明治40年には高島北海、望月金鳳、荒木十畝、佐久間鉄園、山岡米華、田中頼嶂、益頭峻南などとともに正派同志会を組織して文展新派に対抗、文展第9回以来審査員として、「青山白雲」「雪中山水」「春景秋景山水」「四時佳興」はいずれも3等賞をうけ、第7回の「寒林幽居」はことに好評で2等賞におされた。帝展にも1回以来しばしば審査員をつとめ、大正11年には渡支して画嚢を肥した。13年帝国美術院会員となり、以後南画壇の重鎮として大いに活躍、昭和6年にはベルリン日本画展に際して渡欧、その滞欧作を日本南画院10回展に陳列した。帝展時代の主要作としては「広寒宮」「南船北馬」「周濂渓」「田家新味」「承徳佳望」などがあり、いずれも現代南画の高峰をを示す生々とした作である。官展以外には日本南画院を指導し、昭和17年には大東南宗院を設立して、日華南画壇の交歓をはかつた。絵のほか漢詩、書もすぐれ、昭和19年には帝室技芸員の一人に加つたところであつた。略年譜明治7年 8月31日群馬県に生る、小室牧三郎長男明治22年 画家たらんとして故郷を出ず、日本美術協会に出品して褒状を受く、足利の田崎早雲に師事、南宗画を学ぶ明治31年 師早雲没明治32年 上京、苦学す、その後日本画会に属し同会及び日本美術協会で活躍す明治40年 正派同志会を組織して文展に反対し、その副委員長となる明治41年 文展2回「青山白雲」(3等賞)明治42年 文展3回「雪中山水」(3等賞)明治43年 文展4回「山海の図」(2等賞)明治44年 文展5回「春景山水」「秋景山水」(3等賞)大正元年 文展6回「四時佳興」(3等賞)大正2年 文展7回「寒林幽居」(2等賞)大正3年 文展8回「逍遥」(審査員)大正4年 文展9回「駒ケ嶽秋粧」(審査員)大正5年 文展10回「天空海濶」(審査員)大正6年 文展11回「層巒群松」(審査員)大正7年 文展12回「碧澗有響」「江山欲暮」(審査員)大正8年 帝展1回「春庭」「秋圃」(審査員)大正9年 帝展2回「春雨蕭々」(審査員)大正10年 田近竹邨、山田介堂、池田桂仙、山田竹圃、矢野橋村等と日本南画院を創立す、帝展3回「南船北馬」(審査員)大正11年 帝展4回「海寧観潮」(審査員)大正12年 京橋の宅で震災にあう、粉杢切を焼く、後焼け残つた蔵幅を売り立てて崇文院叢書刊行会をかく大正13年 帝国美術院会員となる、帝展5回「春暖」大正14年 帝展6回「広寒宮」大正15年 帝展7回「灼春」、叙正5位昭和2年 帝展8回「周濂渓」昭和3年 帝展9回「春風駘蕩」、大礼記念章授与せらる昭和4年 帝展10回「濯足万里流」昭和5年 ドイツ日本画展に代表として渡欧、帝展11回「田家新味」昭和6年 帝展12回「石人無語」昭和7年 帝展13回「天台」昭和8年 帝展14回「紫罨」昭和9年 高島屋に個展ひらく、帝展15回「承徳佳麗」昭和10年 三越に個展をひらく、日本南画院解散、環堵画塾解散す昭和12年 文展1回「白乾坤」昭和13年 文展2回「軍犬」昭和14年 文展3回「明鏡止水」昭和15年 紀元二千六百年記念奉祝美術展「林鳥仁浴」、毎日日本画展「芦雁」昭和16年 8月大東南宗院をひらく、文展4回「九方皐」昭和17年 満洲国献納画「蘭」、大東南宗院展「薫風」、文展5回「鳶飛魚躍」、満洲国献納展「春風図」、三越に個展ひらく昭和18年 文展6回「瑞昌」昭和20年 3月30日没

金森遵

没年月日:1945/03/20

 美術史家金森遵は、昭和20年太平洋戦争中比島戦線において戦死した。享年40歳。明治39年12月3日名古屋市に生まれ、第八高等学校を経て昭和3年4月東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学し、同6年3月卒業、つづいて大学院に入学した。同7年2月幹部侯補生として近衛歩兵第一聯隊に入隊、11月満期退営した。同8年5月東京帝室博物館嘱託となり、同10年6月奈良帝室博物館嘱託となつて奈良に移り、在任中よく古寺を歴訪し、彫刻史の研究につとめた。同12年12月帝室博物館鑑査官補に任ぜられ、再び東京帝室博物館へ転じ、同15年前後研究に専念し多くの論文を発表した。同19年戦況急迫するにつれて感ずるところがあり、4月末帝室博物館を辞して航空工業会機体総部会に入社、6月応召してフィリッピン戦線に参加し、秋からレイテ島に於いて悪戦苦闘した。同20年引きつづきレイテ島に於いて苦闘ののち最後の脱出の船に取り残され、3月20日以後消息を絶つた。同22年第14方面軍残務整理部長から戦死の旨認定された。彼は日本彫刻史を専攻する少壮学者として将来を嘱目され、その鋭い論文は識者の注目するところであつたが、その戦死は惜しまれた。遺著に「日本彫刻史の研究」(河原書房、昭和24年)、「日本彫刻史要」(高桐書院、昭和23年)があり、その主要論文はこれらに収められている。尚その全論文の目録は前者に掲載されている。

大野隆徳

没年月日:1945/03/10

 旧帝展、文展無鑑査、光風会々員大野隆徳は、昭和20年3月空襲のため東京都豊島区において戦災死した。明治19年12月7日千葉県山武郡に生れ、千葉中学校を経て東京美術学校西洋画科に入学、和田英作、長原孝太郎の指導を受け、同44年卒業した。同42年在学中第3回文展に「日本橋」が初入選、第6回文展の「落葉を拾ふ児等」は褒状を受け、その後毎回出品、第9回展の「麦ばたき」は3等賞、第10回展の「高原に働く人」は持選となり、その名を認められた。さらに帝展に出品をつづけ、第1回展の「凪ぎたる海」は再び持選となつた。大正11年から13年までヨーロッパに遊学、仏、伊、独、西、英、瑞典、諾威、瑞西等を巡歴し、1921年パリ滞在中サロン・ナショナル・デ・ボザールの展覧会に「聖境礼讃」が入選した。のち帝展・新文展無鑑査となり、また光風会々員に推された。昭和6年大野洋画研究所を創立し、後進を指導した。「大野隆徳画集」(春鳥会発行)のほか「オットマンと環境」(日本美術学院発行)、「新しい油絵の描き方」(資文堂発行)などの著作がある。

橋本関雪

没年月日:1945/02/26

 帝室技芸員、帝国芸術院会員橋本関雪は2月26日京都の自邸で狭心症のため逝去した。享年63。名関一、明治16年旧明石藩の漢学者橋本海関の息として生れ、家学を父にうけたが、まもなく片岡公曠に南画を学び、34年には竹内栖鳳門に入つて画技をすすめた。38年には日露役に従軍、41年には上京して谷中に寓居し、第2回文展以後連続出品して屡々受賞、大正8年帝展第1回から審査員として活躍した。文展では「失意」「琵琶行」「片岡山のほとり」「松下煎茗」等に褒状、「遅日」「南国」「猟」は2等賞、「寒山拾得」「倪雲林」はいずれも特選、推薦となつた第12回では「木蘭」を出していよいよ名声をあげた。大正2年初めて中国に渡り、その後中国旅行は60数回に及んでいる。大正10年渡欧してフランス、ドイツ、イタリヤを歴遊、昭和2年にも再度渡欧した。昭和9年帝室技芸員におされ、10年の改組では帝国芸術院会員となつた。帝展時代に入つて「木蘭詩」「聖地の旅」「長恨歌」「訪隠図」「玄猿」などの優作があり、暢達自在の筆技と覇気あふれた豪快な風格をもつてうたわれた。晩年の力作としては建仁寺の襖絵が著名であつた。支那風物地誌についての造詣も深く、文章、詩、短歌にも、独自の格調を盛つている。著作も数多く、「関雪随筆」「南画への道程」「石涛」「浦上玉堂」「支那山水随緑」「南を翔ける」等があり、その他非売品として出したものに「走井」「不離心帖」「玉堂事考」「国民百人一首」などがある。略年譜明治16年 11月10日神戸市に生る、父は旧明石藩儒者橋本海関明治23年 湊川尋常高等小学校に入学し、かたはら家業を父にうく明治24年 片岡公曠の門に入る明治34年 竹内栖鳳に師事す明治38年 満州軍司令部嘱託として従軍明治41年 上京、谷中に寓居、第2回文展「鉄嶺城外の宿雪」入選明治42年 文展第3回「失意」(褒状)明治43年 文展第4回「琵琶行」(褒状)明治44年 文展第5回「片岡山のほとり」(褒状)「異見王達磨を送る」大正元年 文展6回「松下煎茗」「後醍醐帝」(共褒状)大正2年 京都に移住す、この年初めて中国にゆく(その後60数回ゆく)、文展第7回「遅日」(2等賞)大正3年 文展第8回「南国」(2等賞)「後苑」(無鑑査)大正4年 文展第9回「猟」(2等賞)「狭江の六月」(無鑑査)大正5年 文展10回「寒山拾得」(特選)「煉丹」(無鑑査)大正6年 文展11回「倪雲林」(特選)大正7年 文展12回「木蘭」(無鑑査)文展推薦となる大正8年 第1回帝展審査員となる、帝展1回「郭巨」「遊踪四題」大正9年 帝展2回「木蘭詩」「林和靖」大正10年 渡欧、フランス、ドイツ イタリヤ等を歴遊大正11年 帝展審査員となる、帝展4回「聖地の旅」大正14年 帝展6回「相牛」「摘瓜図」大正15年 聖徳太子奉賛展「仙女図」、第2回渡欧昭和4年 帝展10回「長恨歌」昭和5年 仏国政府より勲1等を受ける昭和8年 帝展14回「玄猿」昭和9年 帝室技芸員となる昭和10年 帝国美術院会員となる、個展をひらく昭和11年 文展招待「唐犬図」昭和12年 文展「赴征」昭和13年 東京三越に個展をひらく昭和14年 戦争記念画「軍馬二題」(朝日賞)「恵日東帰」「残照」「春かえる」「戦塵」「河霧」「流民」、紐育万国博「霧猿」、戦争美術展「江上雨来る」昭和15年 建仁寺襖絵を完成す、「生生流転」「伯楽」「深秋」「蕭条」「寒山子」、毎日日本画展「柳蔭馬を洗ふ」昭和16年 文展4回「夏夕」、戦争記念画展「両面愛染明王」昭和17年 飛行機にて南方を歴遊す、文展5回「防空壕」、満州国慶祝展「髪」、軍用機献納展「春潮」昭和18年 文展6回「霜」昭和19年 戦争美術展「黄浦江の朝」、文展7回「香妃戎装」昭和20年 2月26日没

林倭衛

没年月日:1945/01/26

 洋画家林倭衛は急性肺炎の為1月26日逝去した。享年51。明治28年長野県上田に生れ、13歳の時上京、画家になろうと苦学し、大正5年23歳の時油絵の初作「サンヂカリスト」「多摩川附近」を第3回二科展に出し入選、翌6年二科展に出品した小笠原写生3点は樗牛賞を得、翌7年「冬の海」外4点を出し二科賞を受けた。大正9年個展を兜屋画廊に開き、翌10年より5年間フランスに留学した。帰朝の年春陽会々員となり、翌年春陽会展に滞仏作品38点を出陳した。昭和4年再び渡仏、翌年帰朝し春陽会に滞仏作品を出陳した。昭和6年満鮮写生旅行に赴き、9年春陽会を脱会、昭和12年第1回改組文展には審査員となり、17年にも委員をつとめた。その作品は自然を簡明化した清明なもので、画面にあふれた詩情は独特なものがあつた。略年譜明治28年 6月1日上田市に生る明治40年 上京、学歴なく苦学す大正5年 「サンヂカリスト」「多摩川附近」第3回二科展入選大正6年 第4回二科展に小笠原島写生旅行の収穫3点を出す、樗牛賞をうく大正7年 第5回二科展「冬の海」外4点大いに認めらる、二科賞をうく大正8年 第6回二科展会友となる、出品画「大杉栄肖像」が問題となる大正9年 春、兜屋画廊に個展をひらく、二科展「室生犀星肖像」外4点を出す大正10年 七月画会を起し資を募つて外遊す大正11年 在仏中春陽会客員に推されたるも辞退、巴里、伯林、アルルの各地に滞在、6年に亘る大正15年 帰朝、春陽会々員となる昭和2年 春陽会に滞欧作品28点を特陳す、秋、大阪「春海」に滞欧作個展をひらく昭和3年 1月再渡欧、巴里に滞在し、この間英国にもゆく昭和4年 帰朝、春陽会に滞欧作7点を出す昭和6年 春陽会に「静浦風景」外4点を出す、その後満鮮旅行にゆく昭和9年 春陽会を退く昭和12年 第1回文展審査員となる昭和13年 朝鮮写生旅行にゆく昭和14年 日動画廊に個展をひらく昭和17年 北京にゆき病を得て帰る昭和20年 1月26日急性肺炎にて死去

中谷宏運

没年月日:1945/01/21

 文展無鑑査中谷宏運は1月21日動脈硬化症の為逝去した。享年56。氏は明治23年富山県に生れ、大正2年東京美術学校彫塑科を卒業、東京府立実科工業学校教諭となつたが、大正12年同校を退職、同14年第4回帝展に初入選し、第5回には「影」、8回には「ほとり」、9回には「姿」、11回には「竚立」、13回には「髪」、14回には「櫛けづる」等を出品した。その他成城学園の沢柳政太郎像、杵屋勝之助像、国分勘兵衛像、楽翁公像などがある。

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