本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,817 件)





中条精一郎

没年月日:1936/01/30

 建築家中条精一郎は腎臓結石の為1月11日以来慶応病院に入院加療中であつたが、同30日遂に逝去した。享年69。明治元年4月18日米沢に生る。同31年東京帝国大学工科大学建築学科を卒業、同36年渡欧、英国剣橋大学に学び同40年帰朝。翌年工学博士曾禰達蔵と共に曾禰中条建築事務所を創立し、爾来専ら建築設計監督の事に従ひ、今日に及ぶ。大正7年会計検査院技術顧問員を嘱託され、同8年工芸審査委員会委員仰付らる。建築学会並に日本建築士会に関係し、前者に於ては副会長に、後者に於てはその創立者の一人として?々会長に就任し、建築界に寄与せる所多大であつた。又国民美術協会の会頭に前後2回就任し、海外美術の紹介其の他美術界の為に尽力して貢献する所が多かつた。彼の建築作品は「建築雑誌」(第50輯第612号)掲載の目録によると庁舎学校20、銀行会社ビル33、会館14、病院7、工場倉庫12、博覧会建築6等の多数に上るが、極く主なる作品を挙げれば左の通りである。 慶応大学図書館、同大講堂等、鹿児島県庁舎、海上ビル旧館、同新館、大日本雄弁会講談社、三越新宿支店、日本郵船株式会社、三井銀行大阪支店、同名古屋支店、明治屋ビル、如水会館、華族会館、慶応病院。

坪井九馬三

没年月日:1936/01/21

 考古学の権威、元東大文学部教授文学博士坪井九馬三は豫て病気療養中であつたが1月21日午後逝去した。享年78。岐阜県の出身。彼の専門は西洋史学にあつたが、凡そ朝鮮史にあれ蒙古史にあれ、史学各分野に於てその啓発せるところ少くなく、又補助学として古文書学、金石学、歴史地理学、言語学、考古学に対しても多大の関心を寄せ、或は本邦銅鐸及支那鏡鑑の研究に、或は東西文化の交渉に関する研究に新機運を促す等、考古学界に対して史学者の立場から多大の示唆と鞭撻を与へた。昭和5年三宅博士の後を承けて考古学会の会長に就任し逝去の日に及んだ。

原田和周

没年月日:1936/01/16

 春陽会々友原田和周は豫て肝臓癌のため加療中であつたが1月16日逝去した。享年42。明治28年静岡県磐田郡に生る。大正3年日本美術院洋画部の研究員となり数回院展に出品して同6年同院々友に推薦された。この頃原田恭平と称す。大正11年以降春陽会展第1回より毎回出品し、聚文と号したが、昭和8年和周に改めた。その遺作は11年度春陽会展に油絵10点が陳列され、更に同年7月銀座日動画廊に遺作展が開催された。故人の作風に就ては山本鼎が同遺作展案内状に認めた紹介文の一節を掲げる。 「胸の病をもつた此の人は、田園生活を続けましたから、絵のモテイフは概ね田園の景物です。着実な印象派系統の仕事を以て始終し、前期のものは質朴な筆致と寂のある調色が特色ですし、後年のものは、敢て筆致をころした重厚なマチエールと、鮮麗な陽色が目を惹きます」

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