本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数2,850 件)





田中岑

没年月日:2014/04/12

 画家の田中岑は、4月12日、癌のため神奈川県川崎市内の病院で死去した。享年93。 1921(大正10)年香川県観音寺市に生まれる。現、香川県立観音寺第一高等学校在籍中に美術部を創設する等、制作に興味をもち、山脇信徳に絵を見てもらう体験をする。1939(昭和14)年独立美術協会展に初入選。同年4月東京美術学校油画科予科に入学するも、かねてより私淑していた海老原喜之助の勧めで日本大学芸術学科に編入する。41年グループ「昴」を結成、銀座紀伊國屋でグループ展を開催。42年8月、初個展を油彩とフレスコ画で神戸の済美工芸会館で開催。同年9月に召集され、翌年に中国戦線に派遣、敗戦は大陸で迎え、46年高松に帰郷、同年4月独立展に2点を出品。47年第11回自由美術家協会展に「青年」など3点を出品(以後1949年まで出品)。この頃、木村忠太、土方巽と知り合い、木村や長谷川路可の縁で女性雑誌の編集やカットなどの仕事をする。49年第1回日本アンデパンダン展(読売アンパン)に「室内」を出品。50年第27回春陽会展に「光」、「厨房」を出品、第1回研究賞受賞。以後、同展には2004(平成16)年まで出品を続けた。53年東京のタケミヤ画廊で個展。57年現、千代田区立日比谷図書文化館に壁画「平和の壁」を共同制作する。同年第1回安井賞を「海辺」で受賞。一時のアンフォルメル旋風の後であり、同作をめぐり具象抽象の論議も起きた。田中は最後の安井賞展(第40回、1997年)の審査委員を務めている。また57年には神奈川県立近代美術館喫茶室に壁画「女の一生」を制作。同作は16年3月同美術館鎌倉館が閉館になったおり、葉山館講堂前ホワイエに移設された。 50年代半ばからは、丸善画廊、梅田画廊、兜屋画廊、日動画廊、日本橋三越など洋画を扱う主要な画廊で発表する。60年に渡欧し、滞欧中の木村忠太、岡鹿之助らと交流するなかで、画風を研究する。66年映画「ビーチレッド戦記」のタイトル画制作(採用はされなかった)のためフィリピンのルソン島へ赴く。同年より69年まで女子美術大学で後進の指導にあたる。71年胃潰瘍のため胃を切除し、療養生活をおくるなかで新たに「室内」のモチーフをみつけていく。76年東京のギャラリー・ジェイコで個展(以後、同画廊で個展を10回開催)。78年神奈川県立県民ホールギャラリーで堀内正和と2人展。86年第15回川崎市文化賞受賞。89年香川県文化会館で個展。90年神奈川県立近代美術館で河口龍夫と2人展。02年東京・ギャラリー美術世界で個展(以後、同画廊で個展を2回開催)。12年川崎市市民ミュージアムで個展。文献として、『画家の記録田中岑』(ふるさとを詩う田中岑展目録、1973年、佐々木清一編)、『田中岑作品集いろいろ、そうそう』(求龍堂、2014年、喜安嶺編)が充実している。

内山武夫

没年月日:2014/04/05

 元京都国立近代美術館長で美術史研究者の内山武夫は、4月5日胃がんのため京都市の自宅にて死去した。享年74。生前から同人は、西行法師の「ねがわくは 花のしたにて 春しなん そのきさらぎの もちつきのころ」という歌のように逝けたらと話しており、その最後は静かで穏やかであったそうである。また、内山は草花を好み、植物について高い見識を持っており、絵の中や工芸品に描かれている花について美術館のスタッフに詳細に説明することも度々であった。 1940(昭和15)年4月4日に兵庫県伊丹市に生まれる。56年4月私立灘高等学校に入学し、59年卒業後、同年、京都大学文学部哲学科に入学する。63年3月京都大学文学部哲学科を卒業し、同年4月、京都大学大学院文学研究科修士課程に入学、65年3月京都大学大学院文学研究科修士課程を修了し、同年4月1日に国立近代美術館京都分館に研究員として採用された。67年6月に京都分館が独立して京都国立近代美術館となったことにともない、同館に転任となり、75年7月1日に主任研究官に昇任、81年8月1日には学芸課長に昇任した。1994(平成6)年10月16日には、東京国立近代美術館次長に昇任した。また、98年4月1日には、京都国立近代美術館長に昇任し、2001年4月には、美術館の法人化にともない独立行政法人国立美術館の理事に就任、併せて京都国立近代美術館長を兼務し、05年3月31日に任期満了により退職した。 この間、内山は、文化功労者選考審査会委員、文化財保護審議会専門委員、文化審議会(文化財分科会)専門委員、京都美術文化賞選考委員などの委員として幅広く活躍する一方、京都国立博物館、東京国立近代美術館、京都国立近代美術館、国立西洋美術館、国立国際美術館の評議員を兼務するほか、公私立美術館の各種委員として美術館の設立、運営等について適切な指導と助言を行い、40年の永きにわたって、高邁な人格と熱意をもってその重責を全うし、我が国の文化行政・教育研究の推進に貢献した。 内山は、65年国立近代美術館京都分館に研究員として採用されてから約40年、我が国近現代美術と工芸の紹介と発展に尽力し、開館以来継続して開催してきた、「現代美術の動向」展や近代日本画展、近代工芸展に力を注いだ。さらに71年に開催した「染織の新世代展」をはじめ染織や陶芸の新しい動向を紹介する展覧会を数多く開催し盟友の森口邦彦(重要無形文化財保持者)とは工芸の発展に力を注いだ。また、74年9月29日から11月28日の間、文部省在外研究員として「博物館学の研究および欧米における近代美術収集状況の調査」のためアメリカ合衆国、カナダ、連合王国、スペイン、フランス、オランダ、ドイツ連邦共和国、イタリア、ギリシャへ行った。この在外研修は、京都国立近代美術館の後の展覧会に繋がった。81年学芸課長に昇任後は、学芸課の総括として、様々な事業を指揮し運営に力を注いだ。特に、86年10月には新館開館記念特別展「京都の日本画1919―1930」では、展覧会開催の中心的役割を果たし、無事新館を開館させた。物産陳列館として建てられ、京都市から移管された建物の施設・設備の不適正と老朽化から、同館が抱えていた課題である館建物の新営計画には同館学芸課長として積極的に取り組んだ。 86年10月には新館開館を控えて、京セラ株式会社から米国シカゴ在住のアーノルド・ギルバート夫妻の蒐集した近代の写真作品1000余点の寄贈を受けるために館長とともに尽力し、翌年にはその主要作品を紹介する「館コレクションから選んだ写真―近代の視覚・100年の展開―」展を開催して、我が国の美術館における写真蒐集の先鞭を付けた。91年には、京都国立近代美術館の事業を支援する「財団法人堂本印象記念近代美術振興財団」の設立にともない評議員、さらに理事となり、国立美術館に対する支援財団の設立に尽力するとともに、新しい時代に対応する柔軟な美術館運営の道を提示した。また、87年には開館時間を30分繰り上げ、翌年には春から秋までの毎週金曜日を夜間開館として午後8時まで開館時間を延長するなど、観覧者の便宜を考慮して時代のニーズに対応し、館長を補佐し、学芸課長として美術の普及活動に積極的に取り組み、現代の美術館活動の基盤を作り上げた。 94年、東京国立近代美術館次長に昇任した内山は、東京国立近代美術館の総括として館長を補佐し、我が国の美術行政に携わり、日本の美術振興に寄与した。97年に開催した「土田麦僊」展は、内山の長年の研究の集大成として美術の普及活動のみならず、研究活動にも大きな貢献をした。さらに、同展覧会は、京都国立近代美術館にも巡回し、展覧会の質の高さと意義が高く評価された。また、「ウィリアム・モリス 近代デザインの父」展では、英国ロンドンにあるビクトリア・アンド・アルバート美術館と連携してモリスの生誕100年を記念して、日本で始めての大規模な回顧展を京都国立近代美術館とともに開催した。 98年4月に京都国立近代美術館長に就任してからは、同館責任者として館の発展ならびに美術の普及活動、研究活動を積極的に推進し、意欲的な展覧会を開催した。とくに「生誕110年・没後20年記念展 小野竹喬」展は、内山の生涯に渡る研究として展覧会を導き、美術の普及、研究活動に大きく貢献した。 01年京都国立近代美術館が、独立行政法人国立美術館に統合されるに当たって、独立行政法人国立美術館の理事に就任するとともに、京都国立近代美術館長に就任し、05年任期満了のため退職した。この間、国公立の文化行政に関する委員を務め、我が国の文化行政に大きく貢献した。 なお主な文献目録は、以下の通りである。一、単行本Ⅰ単著 『日本の名画18 上村松園』(講談社、1973年) 『日本の名画4 竹内栖鳳』(中央公論社、1977年) 『原色現代日本の美術3 京都画壇』(小学館、1978年) 『現代日本絵巻全集5 山元春挙、橋本関雪』(小学館、1984年) 『現代の水墨画1 富岡鉄斎・竹内栖鳳』(講談社、1984年) 『現代の水墨画5 村上華岳・入江波光』(講談社、1984年) 『日本画素描大観6 土田麦僊』(講談社、1985年) 『土田麦僊画集』(毎日新聞社、1990年) 『名画と出会う美術館8 近代の日本画』(小学館、1992年) 『新潮日本美術文庫25 富岡鉄斎』(新潮社、1997年)Ⅱ共著(監修含む) 『現代日本美術全集4 村上華岳/土田麦僊』(集英社、1972年) 『日本の名画9 鏑木清方、上村松園、竹久夢二』(講談社、1977年) 『巨匠の名画15 土田麦僊』(学習研究社、1977年) 『カンヴァス日本の名画4 竹内栖鳳』(中央公論社、1979年) 『現代日本画全集6 山口華楊』(集英社、1981年) 『足立美術館』(保育社、1986年) 『20世紀日本の美術7 村上華岳・入江波光』(集英社、1987年) 『上村松園画集』(京都新聞社、1989年) 『高木敏子1924-1987』(八木明、1989年) 『富本憲吉全集』(小学館、1995年) 『小野竹喬大成』(小学館、1999年) 『京都国立近代美術館所蔵名品集[日本画]』(光村推古書院、2002年) 『美人画の系譜 福富太郎コレクション』(青幻社、2009年)Ⅲ責任編集『美しい日本 風景画全集6』(ぎょうせい、1988年)『美しい日本 風景画全集7』(ぎょうせい、1988年)二、図録 「陶芸家 八木一夫」『八木一夫展』(日本経済新聞社、1981年) 「甲の契月、乙の契月」『菊池契月展』(京都新聞社、1982年) 「榊原紫峰の人と芸術」『榊原紫峰展』(京都新聞社、1983年) 「京都の日本画1910-1930」『京都の日本画1910-1930』(京都国立近代美術館、1986年) 「山口華楊の芸術」『山口華楊 六代清水六兵衛 遺作展』(朝日新聞社、1987年) 「土田麦僊―清雅なる理想美の世界」『土田麦僊展』(日本経済新聞社、1997年) 「小野竹喬の画業」『生誕110年・没後20年記念 小野竹喬』(毎日新聞社、1999年) 「明治期京都画壇の伝統と西洋」『近代京都画壇と〈西洋〉 日本画革新の旗手たち』(京都新聞社、1999年) 「韓国国立中央博物館の近代日本画」『韓国国立中央博物館所蔵 日本近代美術展』(朝日新聞社、2003年) 「現代陶芸の異才―八木一夫」『没後25年 八木一夫展』(日本経済新聞社、2004年) 「画壇の壮士 横山大観」『近代日本画壇の巨匠 横山大観』(朝日新聞社事業本部・大阪企画事業部、2004年)三、逐次刊行物 「上原卓論」『三彩』266号(1970年) 「解説 土田麦僊(特集)」『三彩』307号(1973年) 「新日本画創造の哀しく寂しい影-土田麦僊-その人と芸術」『みづゑ』822号(1973年) 森口邦彦/内山武夫「対談 日本工芸展のこれから(特集 日本伝統工芸展50年)」『月刊文化財』481号(1993年) 「奥田元宋画伯の障壁画」『美術の窓』170号(1997年) 「麦僊と西洋絵画」『美術の窓』170号(1997年) 「富岡鉄斎筆餐水喫霞図」『国華』1250号(1999年) 梅原猛/内山武夫「対談 思い出に残る作家たち」『美術京都』40号(2008年)

門坂流

没年月日:2014/04/03

 画家・版画家の門坂流は4月3日、胃がんのため東京都内の病院で死去した。享年65。 1948(昭和23)年5月25日、京都市に生まれる。本名は門坂敏幸。父親は熊本県、母親は滋賀県の人。6歳まで京都で育ち、滋賀県に移住。日野川の清流やかまどの炎、風にたなびく稲穂を眺めたり、日光写真や写し絵をして遊び、また製図用パンタグラフを用いてスターのブロマイドを描き写すことをよくしたという。このような幼少期の経験や、高校時代にフェルメールの画集に感銘を受けたことが絵を志す原点となり、68年東京藝術大学油絵科に入学するが、肌に合わず退学。その後、知人の紹介により、雑誌『ワンダーランド』(のちの『宝島』)に連載された片岡義男「ロンサムカウボーイ」の挿画でデビュー。鉛筆・ペン画で創作活動を始め、数多くの雑誌挿絵や書籍装画などで作品を発表する。85年ころからビュランで銅版を刻む感覚と線の鋭さに惹かれ、エングレービングの技法研究をはじめる。88年自身最初の作品集『風力の学派』(ぎょうせい、文・荒俣宏、池澤夏樹、伊藤俊治)を上梓したのちは、エングレービングが創作活動の中心となる。87年には京橋のINAXギャラリーで個展を開催、以後、ガレリア・グラフィカ、不忍画廊、青木画廊などで多くの個展を開催。1998(平成10)年から翌年まで朝日新聞朝刊小説、高樹のぶ子「百年の預言」の挿絵を担当、ルーマニア、オーストリアを取材し、リトグラフ、ペン画、水彩、あるいは銅版画で発表。「エングレービングの第一人者」とも呼ばれ、シャープな線の積み重ねによる流紋を基本要素として描かれた作品は「自然の内包する生命力の顕在化」ともいわれ、高く評価された。 作品集はほかに『水の光景 ビュランによる色彩銅版画集』(ぎょうせい、1990年)、『門坂流作品集 百年の預言』(朝日新聞社、2000年)、『Ryu KADOSAKA DrawingWorks』(不忍画廊、2006年)、『Engraving』(不忍画廊、2013年)があり、「線の迷宮―細密版画の魅力」(目黒区美術館、2002年)、「森羅万象を刻む―デューラーから柄澤斉まで」(町田市立国際版画美術館、2016年)などの展覧会で版画表現を追究した作家のひとりとして作品が展観された。

朝倉摂

没年月日:2014/03/27

 画家・舞台美術家の朝倉摂(本名、富沢摂)は3月27日、都内の病院でくも膜下出血のため死去した。享年91。 1922(大正11)年7月16日、彫刻家・朝倉文夫の長女として東京に生まれる。妹は後に彫刻家となった朝倉響子。当時東京美術学校(現、東京藝術大学)で教鞭をとっていた父・文夫の、「他人の子を育てている自分が、自分の子供を育てられないことはあるまい」という考えから、学校へは一切通わず家庭教師より教育を受けた。小学校の課程は東京美術学校師範科卒業生が担当し、女学校の課程は一課目にひとりずつの先生がつけられ、二年間ほどで全課程を終了。この頃には文学や哲学関係の本を乱読し、十歳の頃にはマルクスの『資本論』をわからないながらも読んだという。また、伊東深水に日本画を学び、1940(昭和15)年には深水を中心に結成された青衿会の第1回展へ椅子に腰掛けた女性を描いた「麗日」を出品、以後も出品を続け、第3回展(1942年)では「街頭に観る」で後援会賞となる。一方、41年5月には第4回新美術人協会展へ「九官鳥」を出品。同会は34年に新日本画樹立を目指して福田豊四郎、吉岡堅二、小松均、岩橋英遠等によって結成された新日本画研究会が発展したもので、朝倉は翌年の第5回展へも「更紗の室」を出品している。さらに41年10月には第4回文部省美術展覧会へトマトの鉢植えが並ぶ温室内の看護師ふたりを描いた「小憩」を出品、42年の第5回展、43年の第6回展へは、ともに3人の女性像からなる「晴晨」と「歓び」をそれぞれ出品した。戦後の日展へは、第2回展(1946年)へ砂浜にいる水着姿の男女の群像を描いた「沙上」を出品、以後第4回展(1948年)まで出品を続けた。その間、47年には劇作家・木下順二らの結成した劇団・ぶどうの会が、演出家・岡倉士郎の演出によって行った木下作「暗い火花」の試演会において舞台美術を手がけた。このときの経験から舞台美術、とりわけ新劇の装置に興味を持つようになったという。翌48年には、当時進駐軍に接収されていたアーニー・パイル劇場(現、東京宝塚劇場)で上演されたドナルド・リチー作「パーティー」の舞台美術を手がけている。 同年、福田豊四郎、山本丘人、上村松篁、吉岡堅二、秋野不矩等は、「我等は世界性に立脚する日本絵画の創造を期す」とし、創造美術を結成。朝倉は翌49年に開催された第2回創造美術展へ「ノアール」と「反映」の二点を出品、50年の第3回展では「群像」が奨励賞を受賞し、51年5月の第3回春季創造展へは準会員として「男」を出品する。同年創造美術は新制作派協会と合流、新制作協会日本画部となり、9月に第15回新制作展が開催された。朝倉は「裸婦A」「裸婦B」「裸婦C」の三点を出品、会員に推挙される。翌52年の第16回展へは「働らく人」を出品、同作は日本画のレアリズムを異なった面から追究しているとして、53年に第3回上村松園賞を受賞した。アトリエの下の道路工事をする人々を描いたという同作のように、朝倉は社会の中に生きる人間像に関心を寄せ、労働者などをテーマにした作品を多く手がけている。また、49年には生家から独立、以後はバーのアルバイトや看板絵などを描いて生計を立てていたという。50年4月には北荘画廊で初の個展を開き、同年のサロン・ド・プランタン第2回展では「自画像」で日本画一等となる。52年10月には、日本橋の丸善画廊にて村尾絢子との二人展を行っている。 53年の第2回日本国際美術展へは「働く人」を出品、以後67年の第9回展まで毎回出品、54年には第1回現代日本美術展へ「母」を出品し、64年の第6回展まで毎回出品した。一方、53年9月には第17回新制作展へ「夫婦」と「寮」を出品、以後67年の第31回展まで出品を続けているものの、徐々に絵画というものに対する本質的な疑問を抱くようになり、61年の第25回展へは不出品、65年頃には一年間に描く絵の数よりも舞台装置を手がける数のほうが多くなっていたといい、70年には新制作協会を退会した。また、50年代のはじめ頃より、朝倉の描く人物像には抽象化の傾向が見られるようになるが、60年代に入ると画題じたいの変化とともに、その画面もより抽象化されていった。この間、54年にファッションデザイナーの桑沢洋子によって創立された桑沢デザイン研究所にて教鞭を執り、同所を母体に66年に設立された東京造形大学においても教壇に立った。55年5月にはサエグサ画廊にて佐藤忠良、中谷泰との三人展を開催。翌56年からは会場を村松画廊に変更し、同じメンバーによる三人展を58年までに4回行っている。57年1月にはサエグサ画廊にて朝倉摂デッサン展を、3月には三原橋画廊にて堀文子、秋野不矩、広田多津とともに四人展を開催、58年10月にはみつぎ画廊にて小畠鼎子、横山操との三人で素描展を行っている。また、57年には岩波映画勤務の富沢幸男と結婚、翌年12月には長女・亜古が誕生した。59年にはウィーンで開かれた第7回世界青年学生平和友好美術展に日本代表団のひとりとして参加、このときに見た中国の京劇を通じて、伝統芸術の問題と現代絵画の問題をさらに深く感じたという。60年には安保反対デモに参加。63年6月には海老原徳造、小野具定、菊地養之助、渡辺学の4名とともに、スルガ台画廊にて五人展を開催、65年まで同画廊にて毎年開催した。67年には渡辺学とともに、銀座・松屋にて作品展を行っている。また、松本清張『砂の器』(1960〜61年、読売新聞)や山本周五郎『季節のない街』(朝日新聞、1962年)などの挿絵を描き、水上勉『弥陀の舞』(1969年)や澤野久雄『失踪』(1970年)などの装丁を手がけた。68年には講談社さしえ賞を受賞、翌69年には挿絵画家、デザイナー、漫画家の集団である日本イラストレーター会議(NIC)の発足に参加する。70年には講談社絵本賞を受賞。そのほか、松本俊夫の映画『薔薇の葬列』(1969年)において美術を担当するなど、幅広い創作活動を行った。 70年の1月から4月まで、ロックフェラー財団からの招待で渡米、ニューヨークに拠点を置いて前衛劇を中心に70本近くの芝居を見て回る。滞米中にはミンチョー・リーなどの舞台美術家を訪ね、ジャック・スミスの芝居小屋を訪れた際には舞台に飛び入りで出演したという。72年9月には池袋パルコのトック・ギャラリーにて朝倉摂のさしえ展が開催。このときの展示では、朝日新聞にて連載された堀田善衛の新聞小説『19階日本横丁』の挿絵全162点が絵巻状に並べられた。73年7月に上演された井上ひさし作「藪原検校」では、縄を使って四次元の世界を表現した美術を制作する。76年4月にはギャルリーワタリにて朝倉摂作品展が開催、同年9月に渋谷のジャンジャンで上演された富岡多恵子作の「人形姉妹」では美術とともに演出も手がけた。80年には第7回テアトロ演劇賞を、さらに映画「夜叉ヶ池」の美術で日本映画アカデミー賞を受賞。翌81年7月、和光ホールにて朝倉摂絵本原画展が開催。82年には映画「悪霊島」の美術で第5回日本アカデミー賞優秀美術賞を、86年には蜷川幸雄が演出を行った「にごり江」の美術で第40回芸術祭賞を受賞。87年には紫綬褒章を授与される。1989(平成元)年1月、昭和63年度の朝日賞に選ばれ、同年「つる―鶴―」の美術で第12回日本アカデミー賞優秀美術賞を受賞。90年7月、和光ホールにて朝倉摂展―ねこと居る―開催。95年には「泣かないで」、「オレアナ」、「エンジェルス・イン・アメリカ」の美術で第2回読売演劇大賞最優秀スタッフ賞を受賞、2006年には文化功労者に選ばれた。10年9月には横浜のBankART Studio NYKにて個展「朝倉摂展 アバンギャルド少女」が開催、会場には実際に舞台が組まれ、舞台そのものが展示された。 若い頃から一貫して、「芸術家の行為はレジスタンスです」、「すべてに闘わないとだめ」といった姿勢を貫いた朝倉は、常に若々しいエネルギーに満ちた前衛の人であった。

大和智

没年月日:2014/03/21

 日本建築史(特に近世住宅史)の研究者であると同時に、文化財保護行政の専門家。定年退職を控えた3月21日、深夜発生した交通事故で急逝した。享年60。 1953(昭和28)年11月18日静岡県沼津市に生まれる。77年東京工業大学工学部建築学科卒業、84年同大学理工学研究科建築学専攻博士課程中退。86年東京工業大学工学部建築学科助手(平井研究室)を経て、87年より文化庁文化財保護部建造物課勤務。1990(平成2)年文化財調査官(修理指導部門)、95年文化財調査官(修理企画部門)、98年主任文化財調査官(修理企画部門)、2000年主任文化財調査官(調査部門)を経て、06年筑波大学大学院人間総合科学研究科教授。08年文化庁に文化財部参事官(建造物担当)として復帰、11年同部文化財鑑査官の要職を務める。 大学院在学中、桂離宮御殿(京都)の昭和大修理事業に工事調査員として関わったのを皮切りに、文化財建造物の保存に関する調査研究の道を歩む。文化庁時代には、修理企画・指導部門の調査官として正法寺本堂(岩手)、勝興寺本堂(富山)、唐招提寺金堂(国宝、奈良)などをはじめ多数の全国各地に所在する国宝・重要文化財建造物の保存修理事業の指導に当たる。特に、95年阪神淡路大震災で倒壊した旧神戸居留地十五番館(兵庫)は居留地復興のシンボルと位置づけ、その復旧に奔走した。また98年の台風による倒木被害を受けた室生寺五重塔(国宝、奈良)の災害復旧に関して迅速な行政対応を行った。 調査部門の主任文化財調査官としては、文化庁が近年特に力を入れている近代の建造物の保護にも尽力し、東京駅丸ノ内本屋、旧東京帝室博物館(東京国立博物館)等の記念的大建築、天城山隋道(静岡県)、梅小路機関車庫(京都)等の交通関係遺構のほか、田平教会堂・旧出津救助院(長崎)等のキリスト教関連遺構、さらには旧日光田母澤御用邸(栃木)、諸戸家住宅(三重)等の近代和風建築等の指定に関わった。このほか、文化庁が77年から約12年かけて全国の都道府県で行った近世社寺建築緊急調査が終了し、その成果を受けて重文指定された社寺建築について、文化史等の観点から総合的に評価し特に優秀な遺構を国宝に指定する行政課題に対して中心的存在となって知恩院本堂、同三門(京都)、長谷寺本堂(奈良)、東大寺二月堂(奈良)などの秀品を国宝指定に導いた。 また、国際経験も豊かで、文化庁が90年から始めたアジア・太平洋地域等文化財建造物保存技術協力事業にも早くからかかわり、98年からはインドネシアを担当、同国の木造文化財建造物の保存修復事業を指導してその技術移転を推進した。さらに、日本がユネスコの世界遺産条約を批准した92年から、世界遺産登録を始めたが、推薦第1号である姫路城や法隆寺等の推薦書の作成作業に積極的に加わったほか、日本の木造文化財保存修理に対する理解を深めるため94年に奈良で開催された世界遺産奈良コンフェレンスにおいても「奈良宣言」の起草に深く関わった。このほか、ICCROM共催事業としてノルウェーで開催された木造文化財の保存技術に関する国際研修の講師として数度にわたり日本の木造文化財の保存に関する講義を受け持ったほか、03年からICCROMの理事を4期8年にわたって務めるなど国際的にも活躍した。 11年3月の東日本大震災では、被災した多くの文化財の救援事業を指揮し、特に被災建造物に関して日本建築学会や日本建築家協会など関係団体の協力を得て保全ならびに復旧に関する技術支援を行う「文化財ドクター事業」を立ち上げたのをはじめ、海外の財団からの復興資金提供の相談窓口となるなど復興事業に奔走した。 文化庁在職中の昭和末年以降からは文化財建造物の業務の範囲が、近代化遺産、近代和風建築の保存から文化財建造物の防災対策など飛躍的に拡大した時期にあり、特に阪神淡路大震災を機に重点施策となった耐震対策を重視しつつ、一方で文化財の活用による地域再興といった近年の行政課題に対して、その中心的役割を担う要職にあったが、その突然の逝去は今なお内外の多くの人々に惜しまれている。 著書に『日本建築の精髄桂離宮-日本名建築写真選集19巻』(新潮社、1993年)、『歴史ある建物の活かし方』(共著、学芸出版社、1999年)、『城と御殿-日本の美術405号』(至文堂、2000年)、『文化財の保存と修復5-世界に活かす日本の技術―』(共著、クバプロ 2003年)、『東アジアの歴史的都市・住宅の保存と開発』(共著、日本建築学会、2003年)、『鉄道の保存と修復Ⅱ―未来につなぐ人類の技4』(共著、東京文化財研究所、2005年)など多数。

多田美波

没年月日:2014/03/20

 アクリルやアルミニウムなどの新しい素材を用い、環境や建築と調和する光あふれる造形を試み続けた多田美波は、3月20日、肺炎のため死去した。享年89。 1924(大正13)年7月11日、鉱山関係の役人であった父の職の関係で台湾の高雄市に生まれる。4歳の時、父の転任地である韓国に移り、京城師範付属小学校、京城第一高等女学校に学ぶ。同校での担任で女子美術専門学校出身者であった教師から個人的に油彩画の指導を受ける。1940(昭和15)年、第19回朝鮮美術展覧会西洋画の部に「朝鮮の古物」を、43年第22回同展西洋画部に「風景」「習作」を出品。41年女子美術専門学校西洋画科に入学、44年9月に同科を繰り上げ卒業する。同校在学中に、伊原宇三郎の個人指導を受ける。56年、第41回二科展に「変電所」(油彩)を初出品。57年、第9回読売アンデパンダン展に油彩画「変電所R」「変電所L」を出品。同年、東京炭労会館にレリーフ「炭鉱」を制作し、立体作品に移行し始める。58年第43回二科展彫刻部に「OPUS―0」を、第10回読売アンデパンダン展に油彩画「変電所」を出品。59年、第44回二科展彫刻部に「OPUS―1」を、60年、第45回同展に蝋型ブロンズによる「発祥」「虚」を、同年の第12回読売アンデパンダン展に油彩画「ある一つの邂逅」「作品X」を出品。61年、第46回二科展彫刻部に「作品1」「作品2」を、第13回読売アンデパンダン展彫刻部に「非」を出品。62年、多田美波研究所を設立。この頃から、建築装飾や照明器具などの製作も行うようになる。63年、第15回読売アンデパンダン展にアルミニウムを素材とする「周波数37303011MC」を「かけら」と題して出品し、以後、「周波数」シリーズが続く。64年頃からアクリル樹脂による立体造形を試みる。65年、第8回日本国際美術展に「周波数37306505MC」を出品して優秀賞を受賞。同年、第1回現代日本彫刻展(宇部市)に「周波数37306560MC」を、66年、第7回現代日本美術展に「周波数37306633MC」を、67年、第9回日本国際美術展に「周波数37306776MC」を出品。68年EXPO’70(大阪万博会場)に「Laptan No.1」を制作し、同年第8回現代日本美術展に「Laptan No.2」を出品して優秀賞を受賞する。また同年の第1回神戸須磨離宮公園現代彫刻展に「空」を出品。また、同年、皇居新宮殿「春秋の間」ほかに光造形、ペンダント、照明器具等を制作する。69年、第3回現代日本彫刻展に「Aufheben」を出品。同年の第9回現代日本美術展に「Phase Space 6943」を出品して神奈川県立近代美術館賞を受賞。70年の大阪万博に際しての万国博覧会美術展には「Epicycle No.2」を出品。同年の第2回神戸須磨離宮公園現代彫刻展に「Aufheben」「ルミナス・ボックス」「Epicycle」と神戸市美術愛好家協会賞を受賞した「地球の光、北緯34°39’東経135°7’15’’<水面><空中><地表>」を出品。71年、第4回現代日本彫刻展にアクリルと鉄を素材とし、正方形の表面を対角線上に湾曲させた「超空間」を出品して大賞受賞。72年、新潮社主催の第4回日本芸術大賞を受賞。同年第3回神戸須磨離宮公園現代彫刻展に「Space Eye」「Laptan No.2」「Epicycle No.2」を出品して「Space Eye」で朝日新聞社賞受賞。73年、第1回シドニー・ビエンナーレ展に「Pole」を出品。74年に湾曲した金属鏡面による銀座Leeビルのファサードデザインを、新宿住友ビルに三角形をモチーフとした天井と床の造形を制作する。75年、第6回「現代日本彫刻展―彫刻のモニュマン性」に透明なアクリル壁の上部を半円状にたわませた「天象」を出品して宇部興産賞受賞。76年、第5回「神戸須磨離宮公園現代彫刻展―都市公園への提案」に透明なアクリル板による円錐形で構成した「透明」を出品して大賞・神戸市長賞受賞。同年照明学会創立60周年記念功労者賞受賞。77年、第3回彫刻の森美術館大賞展に「透明」を出品して特別賞を受賞。同年第7回現代彫刻展に「双極子」を出品して宇部興産賞受賞。また、同年ワシントンに一ヶ月滞在し、在米日本国大使館公邸に光造形を制作した。78年、第6回「神戸須磨離宮公園現代彫刻展―都市彫刻への提案」に湾曲させた透明な強化ガラス板を複数林立させて構成した「旋光」を出品し、国立国際美術館賞受賞。同年6月ブラジル・ブラジリアの日本国大使公邸で光造形の制作を行い、その後、ペルーのナスカなどを旅する。79年、第1回ヘンリー・ムーア大賞展に「極」を出品して大賞受賞。同年の第8回現代日本彫刻展に「Chiaroscuro」を出品し、東京国立近代美術館賞受賞。80年、第21回毎日芸術賞受賞。同年の第7回「神戸須磨離宮公園現代彫刻展―都市景観の中の彫刻」に「時空」を出品し、神奈川県立近代美術館賞受賞。81年、第9回現代日本彫刻展に「時空No.2」を出品し特別賞・宇部市制施行60周年記念賞受賞。同年第6回吉田五十八賞受賞。82年4月、オーストラリア・ニューカッスル市美術館前庭に「時空No.2」を設置するために同地に滞在。同年、三重県立美術館に陶板によるレリーフ「曙」を制作する。83年、芸術選奨文部大臣賞受賞。同年、帝国ホテル光の間他に光造形を制作する。1989(平成元)年5月、東京・有楽町アートフォーラムで「多田美波展―超空間へ」、90年、愛知県碧南市文化会館で「多田美波展」、91年には三重県立美術館、東京都渋谷区立松濤美術館で「多田美波展」が開催された。年譜や文献目録は同展図録に詳しい。同年、新東京都庁舎都議会議事堂に「澪」を、93年、東京都江戸東京博物館に天井造形「翔彩」を制作。97年、長野オリンピック冬季大会競技会場エムウェーブ外庭に彫刻「Velocity」を設置。2001年から翌年には台湾の高雄市立美術館、台北市立美術館にて個展を開催し、02年に台湾総督府官邸に彫刻「時空’89」を、翌年には交流協会台北事務所に「周波数373004MC」を、雲林県古坑サービスエリアに彫刻「伸」を設置した。09年10月、彫刻の森美術館40周年記念「多田美波展―光を集める人」、10年2月には中国・上海月湖彫塑公園で個展を開催した。 戦後、工業技術の発達によって登場した新たな素材と技術を用い、表面を鏡のようにしたり、透明な素材を用いることにより、作品にその周囲、あるいは鑑賞者の動きを取り込み、量塊性を重視した古典的彫刻概念に変革を迫った。また、建築空間と調和し、デザイン性と造形性を併せ持つ作品を数多く制作した点も特筆される。90年に画集『多田美波』(平凡社)が刊行されている。逝去の年の5月30日に、多田が内部装飾を手がけた東京都千代田区の帝国ホテルにおいて多田美波研究所主催による「しのぶ会」が開かれた。

安西水丸

没年月日:2014/03/19

 都会的で温かみのある画風で知られたイラストレーターの安西水丸は3月17日午後2時頃、神奈川県鎌倉市内の自宅兼アトリエで執筆中に倒れ、病院で治療を受けていたが同月19日午後9時7分、脳出血のため死去した。享年71。 1942(昭和17)年7月22日、東京都港区赤坂で生まれる。本名渡辺昇。生家は祖父の代から建築設計事務所を営んでいた。3歳の頃に重い喘息を患い、母の郷里である千葉県南房総の千倉町へと移住、中学校を卒業するまでの多感な時期を過ごす。61年日本大学芸術学部美術学科に入学、グラフィックデザインを専攻し65年に卒業。在学中にベン・シャーンの作品から強い影響を受ける。卒業後は電通へ入社し、国際広告制作室で「日本ビクター」等の輸出広告を担当。電通では写真家の荒木経惟と同僚だった。69年に同社を退社して渡米、ニューヨークのADアソシエイツ(デザインスタジオ)で働く。71年に帰国して平凡社に入り、子供向け百科事典や自然史雑誌のアートディレクターとして活躍。同社で編集者の嵐山光三郎と知り合い、勤めの傍ら、74年頃から嵐山の勧めにより漫画雑誌『ガロ』に漫画を描き始める。南房総での幼少期を題材にした連載「青の時代」は高く評価され、それらをまとめた漫画集(青林堂、1980年)は安西の代表作となる。なおペンネームの「安西」は嵐山から「あ」がつく名前がいいと言われて祖母の苗字から取り、「水丸」は子供の頃から「水」という漢字が好きだったことから名付けた。80年に平凡社を退社し、翌年安西水丸事務所を設立、本格的にフリーのイラストレーターとなる。またこの時期、小説家の村上春樹と出会い、『中国行きのスロウ・ボート』(中央公論社、1983年)の装丁以後、「村上朝日堂」シリーズ等でイラストレーションを担当するなど、装丁、挿絵、共著と息の合った仕事を重ねることになる。85年には東京ガスの新聞広告により準朝日広告賞、毎日広告賞を受賞。広告、装丁等多方面で活躍する一方で『がたん ごとん がたん ごとん』(福音館書店、1987年)等の絵本を手がけ、また小説『アマリリス』(新潮社、1989年)やエッセイ集『ぼくのいつか見た部屋』(ケイエスエス、1998年)等の文筆活動も盛んに行なった。2001(平成13)年には高校時代から憧れの存在だったイラストレーター和田誠と二人展を開催、二人で一枚の作品を仕上げる取り組みを行ない、安西の亡くなる年まで続けられる。後進のイラストレーターの育成にも力を注ぎ、91年より母校である日本大学芸術学部デザイン学科にて講師を務め、また青山で05年にコム・イラストレーターズ・スタジオ、13年に山陽堂イラストレーターズ・スタジオを開講。05年にはイラストレーターの組織である東京イラストレーターズ・ソサエティの理事長に就任。作品集に『イラストレーター 安西水丸』(クレヴィス、2016年)がある。

加藤貞雄

没年月日:2014/03/17

 評論家で目黒区美術館館長、茨城県近代美術館長を務めた加藤貞雄は、3月17日肺がんのため死去した。享年81。 1932(昭和7)年5月14日生まれ(本籍は千葉県船橋市)。55年早稲田大学第一法学部卒業。同年9月毎日新聞社大阪本社に入社する。65年から毎日新聞社東京本社学芸部に異動。主に70年代、80年代の公募・団体系の展覧会評を担当した。78年から学芸部編集委員、80年から学芸部長、82年から学芸部編集委員兼論説委員を務め、87年同社を退職する。87年10月より、日本人作家が海外で制作した作品を収集することを方針の柱とする目黒区美術館長に就任。1995(平成7)年から2007年まで茨城県近代美術館長を務め、同館の展覧会図録で、福王寺法林、下保昭、川崎春彦、加山又造らについて論述している。また『荻太郎』(日動出版部、2004年)収載の作家論「人間愛の“精神造型”」では、画家の70年にわたる画業を精密に記述している。94年、96年、98年には文化功労者選考審査委員、93年、94年、97年、98年には芸術選奨選考審査委員、91年、93年には安井賞選考委員を務めた。ほかに現代日本彫刻展、昭和会展、中村彝賞などの選考委員を務めた。

近藤幸夫

没年月日:2014/02/14

 美術評論家で、慶應義塾大学理工学部准教授の近藤幸夫は、2月14日死去した。享年63。 1951(昭和26)年2月9日、愛知県岡崎市に生まれる。71年3月、慶應義塾高等学校を卒業後、慶應義塾大学商学部に進学。75年4月に同大学文学部哲学科美学美術史専攻に学士入学。77年4月、株式会社小田急百貨店に入社。80年1月に同社を退職し、同年4月、慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程に入学、83年3月に修了。80年10月、東京国立近代美術館の研究員に採用。1991(平成3)年に同美術館主任研究員となる。同美術館在職中は、「現代美術における写真」展(1983年)、「モディリアーニ展」(1985年)、「近代の見なおし:ポストモダンの建築1960-1986」展(1986年)、「手塚治虫展」(1990年)等を担当した。なかでも、「モディリアーニ展」は、国内で紹介されることが少なかった彫刻作品を含めて作品の質、出品点数において比類のない大規模な展覧会であった。また調査研究においては、大学、大学院時代からのテーマであったコンスタンティン・ブランクーシの研究をすすめ、その成果を論文等にまとめるとともに、現代美術における立体表現、写真へと研究領域を広げていった。こうした研究を基盤にした評論活動においては、『美術手帖』の展覧会評「ART84」の連載(1984年2月-12月)や「かわさきIBM市民ギャラリー」での企画展をはじめ、各種の雑誌への寄稿やギャラリーでの企画、作家展に積極的に参加協力した。 96年4月、慶應義塾大学理工学部助教授となり、日吉校舎の美術研究室に勤務、総合教育等を担当した。在職中は、教育指導の傍ら、とりわけ2004年6月に同大学日吉キャンパス内の施設「来往舎」のギャラリーにて「来往舎現代藝術展」を学生有志と共に企画運営した。同展は、その後も様々なアーティストを招き、また時宜にかなうテーマに基づき開催、近藤は13年10月の第10回展まで中心となって携わった。美術評論家としては、その評論をふりかえると、単に完成した作品を前にして批評するというよりも、作家、作品から創作の過程、創作をめぐる思考までを丹念にたどりながら、親しく寄り添うように批評する態度が一貫していたことが理解される。そうした批評の基点には、現代美術のめまぐるしい変転を視野に入れつつ、アーティストへの敬意と深い共感があったからであろう。没後の14年3月24日、原美術館(東京都品川区)のザ・ホールにて「近藤幸夫さんにお別れをする会」が開かれ、多数の関係者が参集した。なお同会のために作成された冊子「KONDO YUKIO 09.02.1951-14.02.2014」には、詳細な研究業績及び活動履歴が掲載され、30年以上にわたる活動が記録されている。 主要な翻訳、編著書『ブランクーシ作品集』(ラドゥ・ヴァリア著、小倉正史との共訳、リブロポート、1994年)『カラー版20世紀の美術』(分担執筆、美術出版社、2000年)『Fuji Xerox Print Collection』(監修、全解説執筆、富士ゼロックス株式会社、2002年)

田口榮一

没年月日:2014/02/12

 美術史家の田口榮一は、2月12日大腸がんのため死去した。享年69。 1944(昭和19)年8月16日、新潟県に生まれる。小学6年で川崎市に移り、63年神奈川県立湘南高等学校を卒業。一時は建築家を志したというが、東京大学文学部に入り、68年同大学文学部美術史学科卒業。同大学大学院人文科学研究科美術史専攻修士課程を経て、71年6月同大学大学院博士課程中退。続いて同年7月東京大学文学部助手(美術史研究室)となる。78年東京藝術大学美術学部芸術学科講師(日本美術史)。85年同学科助教授、2005(平成17)年同学科教授。10年東京芸術大学附属図書館長を併任。12年同大学美術学部芸術学科教授を定年退官。 修士論文のテーマは平等院鳳凰御堂扉絵であり、仏教絵画、特に来迎図の研究に力を注いだ。単著として『平等院と中尊寺』新編名宝日本の美術9(1992年、小学館)があり、鳳凰堂扉絵の詳細な図版を紹介しつつ、「阿弥陀九品来迎図の系譜―平等院鳳凰堂扉絵を中心として」として一編をたて、その描写の詳細な紹介をしつつ、「九品来迎図の起源」の章では敦煌壁画を視野にその変遷を考察している。「鳳凰堂のことを詳しく調べ、その中から来迎表現がどういうふうに生まれてきたのか、その鍵を探そうとするのが私の前からのテーマ」(同月報インタビュー)と述べている。「鳳凰堂九品来迎図調査報告―両側壁画の現状と来迎聖衆の図様及びその表現」上・下『仏教藝術』141・143も同様の題材を追及した長編であるが、単なる図様、図像の研究に留まらず、その表現性やマチエールの問題にまで詳細に踏み込んだものである。 この絵画の表現性に関わるマチエールの研究はもう一方の重要な業績のひとつで、「分光学的方法による顔料、特に有機色料およびその調合色の判定について―近世初期狩野派粉本「源氏物語五十四帖絵巻」を例として―」(田口マミ子と共著 『古文化財之科学』20・21、1977年)のように早くから関心を示し、『X線コンピュータ断層撮影装置を用いた木造彫刻の構造および造像技法の調査』(長沢市郎・籔内佐斗司・田口マミ子と共著、『古文化財之科学』29、1987年)などX線分析をはじめ科学的技法を用いた作品研究に力を入れた。また自らも写真技術を使いこなし、多くの画像資料を蓄積した。 研究対象は来迎図や仏画に限らず、やまと絵、近世絵画、また敦煌絵画にまで広くおよび、中でも源氏物語絵の造詣が深く、編著書および単行図書所載文献中の論文・解説も数多い。鳳凰堂扉絵に関して「よいことをすれば阿弥陀さんが迎えに来ますよという意図以前の、絵も彫刻も建築もそれ自体の存在だけを第一義にした世界に惹かれますね」(前述月報)という言葉に科学的手法さえ単なる科学分析にとどまらなかった美術作品への愛着、作品観があらわれていよう。 白百合女子大学、共立女子大学、学習院大学等多くの大学の非常勤講師をも勤めた。 仏教美術の研究に対し、第2回北川桃雄基金賞受賞(1976年)。 その略歴、著作をまとめたものに、退官時に製作された『田口榮一先生略歴・著作目録』(東京藝術大学美術学部芸術学科日本東洋美術史研究室編、2012年)がある。

岡村崔

没年月日:2014/02/04

 写真家の岡村崔は2月4日、肺がんのため死去した。享年86。 1927(昭和2)年12月13日、東京府下吉祥寺に生まれる。5歳の頃、両親の故郷静岡県に転居。幼少期は相良、その後静岡市内に移り、45年静岡県立静岡中学(現、静岡高校)卒業。48年に芝浦工業専門学校(現、芝浦工業大学)を卒業し、日本大学工学部(現、理工学部)建築学科に入学(のち中退)。中学在学中より登山を始め、山岳風景の写真にも取り組むようになる。58年、登山の国際大会に参加するため初めて渡欧。この頃より専攻した建築から関心を広げ、ロマネスクの彫刻などヨーロッパの文化、美術に興味を持ち、渡航を重ねる。65年にはローマに移住、ヨーロッパ各地の美術作品や教会建築などの撮影を中心に美術写真の専門家として活動するようになった。高所作業が必要な建築装飾や壁画の撮影を、登山の経験を生かして数多く手掛け、とくにヴァティカン市国システィナ礼拝堂のミケランジェロによるフレスコ画「天地創造」をはじめとした壁画の撮影は、80年から約20年に渡って行われた修復作業の前後およびその過程において、細部にわたって壁画全体を精密に記録したもので、美術史家ケネス・クラークが「ミケランジェロのベールを剥がした」と記すなど国際的に高く評価された。1995(平成7)年に帰国後は静岡に暮らした。 国内外の多くの美術書のための撮影に携わり、その主なものに『大系世界の美術』(全20巻、学習研究社、1971-1975年)、『世界彫刻美術全集』(全13巻、小学館、1974-1977年)、鹿島卯女編『ローマの噴水』(鹿島出版会、1975年)、高階秀爾編『受胎告知』(鹿島出版会、1977年)、『ミケランジェロ・ヴァティカン壁画』(アンドレ・シャステル解説、講談社、1980年)、『ミケランジェロ ヴァティカン宮殿壁画』(嘉門安雄解説、講談社、1981年)、M.パロッティーノ他『エトルリアの壁画』(青柳正規他訳、岩波書店、 1985年)、フレデリック・ハート他『ミケランジェロ・システィーナ礼拝堂』(若桑みどり監訳、日本テレビ放送網、1990年)、『NHKフィレンツェ・ルネサンス』(全6巻、日本放送協会出版、1991年)、ピエールルイージ・デ・ヴェッキ他『最後の審判』(若桑みどり監訳、日本テレビ放送網、1996年)、ピエールルイージ・デ・ヴェッキ他『システィーナ礼拝堂 甦るミケランジェロ』(若桑みどり監訳、日本テレビ放送網、1998年)などがある。 また「ミケランジェロのヴァティカン壁画」(西武美術館他、1980年)、「ヴァティカン宮ラファエロの壁画」(大丸ミュージアム、大阪他、1987年)、「ボッティチェリ ヴィーナスの誕生・春」(大丸ミュージアム、大阪他、1989年)などの展覧会でもその仕事が紹介された。 システィナ礼拝堂の撮影などに対し81年日本写真協会賞年度賞、『NHK フィレンツェ・ルネサンス』に対し92年第15回マルコ・ポーロ賞(監修者他との共同受賞)など、多数の賞を受けた。

鈴木博之

没年月日:2014/02/03

 国内の近代建築の保存に尽力した東京大学名誉教授の建築史学者鈴木博之は、2月3日午前8時59分、肺炎のため東京都内の病院で死去した。享年68。 1945(昭和20)年5月14日、一時滞在先の埼玉県で出生するが、生家は江戸期に幕臣をとつめた家系で東京在住であり、東京にて育つ。68年東京大学工学部建築学科を卒業し大学院に進学。稲垣栄三、村松貞次郎に師事し、卒業論文は「アール・ヌーヴォーの研究」であった。在学中の67年、『音楽芸術』公募論文に「スクリャービン試論」で応募して入賞。71年から74年まで法政大学非常勤講師となり、倉田康男が68年から始めていた高山建築学校に参加するようになる。一方、高度成長期に従来の建築物を取り壊して高層建築がさかんに作られる中で、藤森照信らと近代建築の保存運動に関わり、その論理的支柱を模索していく。72年、ジョン・サマーソン著『天井の館』の翻訳を刊行。同年、毎日新聞百周年懸賞論文に、近代都市における歴史性の重要さを説いた「都市の未来と都市のなかの過去」で応募し一等を受賞。74年に『都市住宅』7402、7403号誌で「建築保存新工夫」特集を組み、欧米の建築保存の例を紹介した。同年に東京大学工学部専任講師となり、以後2009年3月の退官まで同学で教鞭を執る。また、同年から75年にロンドン・コートールド美術研究所に留学して19世紀の英国建築史および日本に近代建築をもたらしたジョサイア・コンドルとその師ウィリアム・バージェスについて調査研究する中で、西欧近代建築における装飾性の問題と、日本における近代の表現についての考察を深めた。76年にサマーソン著『古典主義建築の系譜』(中央公論美術出版)の翻訳を、77年、『建築の世紀末』(晶文社)を刊行。80年にニコラウス・ペヴスナー著『美術・建築・デザインの研究』(鹿島出版会)の翻訳を刊行し、他分野の造形と建築との比較についての思索を深め、84年に『建築の七つの力』(鹿島出版会)を刊行。人の営みによって同一の地に建つ建築物が消長する中にも一貫した土地の性格がうかがえることを指摘した『東京の地霊』(文藝春秋、1990年)などにより1990(平成2)年にサントリー学芸賞受賞。同年、東京大学工学部建築学科教授となった。93年、米国に滞在しハーヴァード大学で美術史を講ずる。96年、「英国を中心としてヨーロッパ建築についての一連の歴史的意匠研究」で日本建築学会賞(論文)を受賞。2008年、難波和彦の企画により鈴木の業績をふりかえる「鈴木博之教授退官記念連続講義「近代建築論」」を8回にわたって開催。同講義は09年2月3日に行われた「建築 未来への遺産」と題する自らの足跡をたどる鈴木の最終講義を含めて『近代建築論講義』(鈴木博之・東京大学建築学科編、東京大学出版会、2009年)として刊行された。同書の「現代の視線」「場所の意義」「近代の多面性」の3章からなる構成および各論考は、鈴木の建築論のエッセンスを映し出している。09年3月に定年退官。後任に、84年から08年まで大阪大学非常勤講師を務める中で交遊を深めた建築家・安藤忠雄を迎え、建築学におけるアカデミズムにも一石を投じた。09年4月からは青山学院大学教授となった。 アジア太平洋戦争敗戦の年に生まれ、東大闘争が始まった年に同学を卒業したことを、鈴木は自らの社会的位置として生涯、重くとらえていた。また、西欧近代の機能主義が推進されていく中で、一時代の価値観上の勝者のみが評価されることに疑問を呈し、敗者の側からの視点を持ち続けた。約半世紀におよぶ活動の中で、建築設計や町づくりにおける建築史学の視点の必要性を認識させるとともに、都市の歴史を目に見える形で残すことの重要性を主張し、自ら保存活用運動に加わって、中央郵便局や東京駅ほかの保存と復元に尽力した。また、そうした事業に必要な建築関係資料の収集・保存・活用を訴えて、13年に開館した国立近現代建築資料館の設立にも寄与した。一方で、晩年は数年間、肺がんと闘病しつつ、近代庭園史に大きな足跡を残した庭師、小川治兵衛の研究を進め、最晩年に『庭師小川治兵衛とその時代』(東京大学出版会、2013年)を刊行。同著作によって14年度日本建築学会著作賞を受賞した。日本建築学会、建築史学会でも活躍し、97年日本建築学会副会長、03年から05年まで建築史学会会長、同年から07年まで同監事を務めた。10年からは博物館明治村館長を務めていた。詳細な著作目録が『建築史学』63号(2014年9月)に掲載されている。 主要著書:『建築の世紀末』(晶文社、1977年)『建築の七つの力』(鹿島出版会、1984年)『建築は兵士ではない』(鹿島出版会、1980年)山口廣と共著『新建築学大系5 近代・現代建築史』(彰国社、1993年)『見える都市/見えない都市―まちづくり・建築・モニュメント』(岩波書店、1996年)『ヴィクトリアン・ゴシックの崩壊』(中央公論美術出版、1996年)『都市へ』(中央公論新社、1999年)『現代建築の見かた』(王国社、1999年)『現代の建築保存論』(王国社、2001年)『都市のかなしみ―建築百年のかたち』(中央公論新社、2003年)『伊東忠太を知っていますか』(王国社、2003年)『場所に聞く、世界の中の記憶』(王国社、2005年)『皇室建築 内匠寮の人と作品』(建築画報社、2005年)磯崎新・石山修武・子安宣邦と共編著『批評と理論―日本―建築―歴史を問い直す、7つのセッション』(INAX、2005年)石山修武・伊藤毅・山岸常人と共編『シリーズ都市・建築・歴史 7 近代とは何か』、『シリーズ都市・建築・歴史 8 近代化の波及』、『シリーズ都市・建築・歴史 9 材料・生産の近代』、『シリーズ都市・建築・歴史 10 都市・建築の近代』(東京大学出版会、2005-2006年)監修『復元思想の社会史』(建築資料研究社、2006年)『建築の遺伝子』(王国社、2007年)鈴木博之・東京大学建築学科『近代建築論講義』(東京大学出版会、2009年)磯崎新と共著『二〇世紀の現代建築を検証する』(ADAエディタートーキョー、2013年)『保存原論―日本の伝統建築を守る』(市ケ谷出版社、2013年)『庭師小川治兵衛とその時代』(東京大学出版会、2013年)

田島比呂子

没年月日:2014/01/19

 重要無形文化財「友禅」保持者の田島比呂子は1月19日、前立腺がんのため神奈川県藤沢市の介護施設で死去した。享年91。 1922(大正11)年2月4日東京に生まれる。本名博。幼いころから絵を書くのが好きであった田島は、1936(昭和11)年、兄が亡くなった代わりに東京小石川で友禅模様師をしていた高村樵耕に内弟子として入門。動植物の模写や師が描くのを隣で見て同じように描くなど、日本画の基礎を学ぶ。当時、友禅染の世界は意匠をデザインする模様師と染色を行う染師に仕事が二分されており、田島は前者の模様師として弟子入りをした。これが、後にデザインを考案する作家としての活動におおいに役立ったといえる。 43年、通信兵として満州へ出征。ツルやサギが何千羽も一斉に舞う姿に心うたれる。3年後の46年、復員。しかし、48年に肺結核を患い千葉九十九里の病院に入院し療養生活を送る。療養中に正岡子規の全集に影響を受け、俳句・短歌を詠みはじめ新聞に投稿する。限られた文字数で推敲を重ねて表現する手法は、丹念に試し染を行う友禅染への制作態度に引き継がれていく。54年、退院し、師事していた高村樵耕の息子である高村柳治の屋敷の隣に移住する。同年、友禅の制作を再開、模様師として独立する。柳治に勧められ、日本伝統工芸展に出品し、作家活動を開始する。同時に、社団法人日本工芸会に入会し、友禅の中村勝馬や山田貢との交流がはじまる。田島は作家活動の開始時、「友禅染の着物に携わるのは男子一生の仕事にあらず」という時代の風潮があり、比呂子という雅号を使い始めたという。59年、第6回日本伝統工芸展で「揺影(一)」が初入選。2年後、(社)日本工芸会の正会員となる。66年、44歳の時に第13回日本伝統工芸展で「青東風」が日本工芸会総裁賞を受賞。同年、第6回伝統工芸新作展では「竹あかり」が日本工芸会賞を受賞。その後、東京都北区十条仲原、鎌倉極楽寺と居を移し、70年、48歳の時に結婚し藤沢市鵠沼海岸に転居する。この頃より、妻に生地の縫い合わせや地染めを担当してもらいながらも、その他の工程は全て田島自身が担う制作スタイルとなる。72年、(社)日本工芸会理事に就任する。77年、(社)日本工芸会工芸技術保存事業「茶屋辻帷子の復原」に参加。下図、下絵、伏せ糊、藍彩色、藍線描という茶屋辻の中核である工程を担当する。86年、(社)日本工芸会常任理事に就任、87年、紫綬褒章を受章。1990(平成2)年第2回茶屋辻帷子の復原」に参加。本事業では、指導的立場を担う。93年、勲四等旭日小綬章を受章。98年、第45回日本伝統工芸展に「入江」を出品。日本工芸会保持者賞を受賞。翌年、77歳の時に、「友禅」の分野では8人目の重要無形文化財保持者に認定される。藤沢市の名誉市民となる。2000年藤沢市制60周年記念特別展「田島比呂子・友禅展」を藤沢市民ギャラリーで開催。04年、シルク博物館にて「人間国宝 自然をいつくしむ手描友禅 田島比呂子展」を開催。出品作品54点すべてに田島の短歌が添えられる。09年、87歳の時に記録映画「創作に生きる 友禅作家・田島比呂子」が制作される。 仕事場には何十冊もの写真集がおかれ、スケッチだけでなく趣味のカメラで撮りためた写真が積み上げられていたという。また、田島はデザイン面だけでなく、技法の面でも高く評価されている。特に、糊の使い方に研究を重ねており、伏せた糊をたんぽで叩き斑を表現する「叩き糊」や、友禅染の特徴ともいえる糸目糊の輪郭線を作らないこともできる「堰出し糊」は、何れも田島比呂子の特徴的な技法に位置付けることができる。 作品はシルク博物館、東京国立博物館等に所蔵されている。

石黒鏘二

没年月日:2013/12/19

 彫刻家で元名古屋造形芸術大学(現、名古屋造形大学)学長の石黒鏘二は12月19日午前7時16分、食道がんのため死去した。享年78。 1935(昭和10)年6月4日、愛知県名古屋市に生まれる。51年に愛知県立旭丘高校美術科へ入学、高校3年の時に行動美術展に彫塑の「裸婦」を出品し入選。54年東京藝術大学美術学部彫刻科へ入学し石井鶴三の教室に学ぶ。58年に卒業した後は名古屋に戻り、61年より豊橋のマネキン制作会社に勤務しながら制作を続けるが、そこでの業務を通じて様々な技術・技法を習得し、また多くの人々と交流した経験は、後に「マネキン会社大学卒業」を自称するほどに大きな糧となる。69年より身近な題材をモティーフとした鉄溶接による彫刻作品を発表、1970年代後半からはステンレススチールによる抽象的な野外彫刻を数多く手がけるようになる。79年第1回ヘンリー・ムーア大賞展佳作賞、83年同優秀賞、85年同彫刻の森美術館賞、第11回現代日本彫刻展宇部市野外彫刻美術館賞を受賞。また1989(平成元)年に愛知県芸術文化選奨文化賞を、2004年には文部科学省地域文化功労者賞を受賞。一方、名古屋造形芸術大学において67年の開学以来教鞭をとり、98年から2006年まで名古屋造形芸術大学学長を務めた。90年代には「記憶のマテリアル」、2000年代に入ると「記憶のモニュメント」と題するインスタレーションを発表。11年からは千種川歩のペンネームで小説の執筆にも取り組んだ。13年には碧南市藤井達吉現代美術館にて「記憶のモニュメント その軌跡の展開 石黒鏘二展」が開催されている。

ジョン・マックス・ローゼンフィールド

没年月日:2013/12/16

 ハーバード大学名誉教授で、日本美術史研究者のジョン・マックス・ローゼンフィールドは、12月16日、脳卒中による合併症のため死去した。享年89。 1924(大正13)年10月、テキサス州のダラスに生まれる。父のJohn Max Rosenfield Ⅱはコロンビア大学でジャーナリズムを学び、キャリアを積み始めた。母となるClaire Burgerと出会ったのもニューヨークでのことだった。25年にはダラスへもどり、ダラス・モーニング・ニュース文化部の記者を勤め上げた。ローゼンフィールドは、2012(平成24)年に獲得したフリーア・メダルの授賞式におけるスピーチで、両親が博学であり、また活動的であったことは幸運だったと述懐している。 高校時代は画家となることを志して、アメリカ中西部の風景を描いていたという。テキサス大学に入学すると絵画を学んだが、41年にアメリカが第2次世界大戦に参戦すると、画家への志は妨げられることになった。アメリカ陸軍に召集され、歩兵としての基礎的な訓練を受けた後、カリフォルニア州のバークレーにある陸軍語学学校でタイ語を学んだ(1945年に最初の学士号を取得)。43年、陸軍の諜報部員としてインドのムンバイに渡航。第2次大戦が終わるまでの間に、北インド、スリランカ、ミャンマー、タイなどのアジアの国々に出征した。 戦後、テキサスに戻ると、南メソジスト大学で芸術学を修めて47年に2つめの学士号を獲得。48年にはElla Ruth Hopperと結婚、アイオワ大学美術史学の修士課程に入学。アイオワ大学在学中の50年に再び応召、朝鮮戦争のために日本と韓国に赴いた。その頃にはプロの画家になるよりも、従軍中にふれたアジア美術に魅了されるようになっていた。 54年、ハーバード大学博士課程に進学し、東アジア美術を専門とするBenjamin Rowlandに師事した。2年後にはヨーロッパを経由して陸路でインドに渡航、インドの仏教美術を学び始める。博士論文は北インドで発掘されたクシャーン朝の王侯肖像彫刻をテーマとしたもので、59年に完成。67年には、カリフォルニア大学出版よりThe Dynastic Arts of the Kushans [クシャーン王朝の美術]として出版された。 62年、生きた信仰としての仏教を経験したいと願っていたローゼンフィールドは、American Council of Leaned Societiesの助成金を得て、家族とともに京都に移り住み、約2年半の間滞在した。 65年、ハーバード大学に赴任。日本美術に関しての根幹となる学術プログラム作成の責務を負った。71年にはアビー・オルドリッチ・ロックフェラー教授に任命。在任中はアジア美術のキュレーター、学部長を歴任した。82年から85年の3年間は、フォッグ美術館(現、ハーバード大学美術館)のアートディレクターを務めた。 ローゼンフィールドは、学生に実作品を学ばせなければならないとしてフォッグ美術館に収蔵するコレクションを求めた。大学院生だけではなく学部生にも収蔵庫におさめられた作品に触れるようにうながし、展覧会準備のアシスタントもつとめさせた。また日本美術に関する情報を増やすことが自らの使命だと認識しており、月刊誌『日本の美術』(至文堂、後にぎょうせいより出版)の英訳を監修、翻訳はハーバード大学博士課程在籍の学生に担当させた。彼は、学生が作品に直に触れ、また日本における日本美術史研究の一端を直に触れさせようと実践的な教育をほどこすとともに、情熱をもって指導にあたったのだった。60年代以降のアメリカにおける日本美術史学の学問的な基礎を形づくった一人と位置づけられる。 長年にわたる日本美術史研究への貢献によって数々の賞を受賞。主要なものに、85年アジアン・カルチュラル・カウンシルのJohn D. Rockfeller 3rd賞、88年旭日章、2001年山片蟠桃賞、12年フリーアメダル賞受賞が挙げられる。 91年6月退職、ハーバード大学東洋美術史名誉教授となる。亡くなるまでハーバード大学の学術的コミュニティで精力的に活動を続けた。最晩年の12年、フリーアメダル授賞式では近世の仏師湛海に関する研究の一端を披露した。この湛海研究が彼の最後の研究となった。彼の死から3年後の2016年、Preserving the Dharma: Hozan Tankai and Japanese Buddhist Art of the Early Modern Era として刊行。その他、主な著作等に以下のようなものがある。 Japanese Arts of the Heian Period, 794-1185, Asia Society, 1967 John M. Rosenfield, Shujiro Shimada, Traditions of Japanese Art, Fogg Art Museum, Harvard University, 1970 Yoshiaki Shimizu, John Rosenfield, Master of Japanese Calligraphy 8th-19th Century, Frederic C Beil, 1985 Mynah Birds and Flying Rocks: Word and Image in the Art of Yosa Buson(Franklin D. Murphy Lectures, X VIII), Spencer Museum of Art, 2004 Portraits of Chogen: The Transformaiton of Buddhist Art in Early Medieval Japan (Japanese Visual Culture), Brill Academic Pub, …

長塚安司

没年月日:2013/12/11

 東海大学名誉教授で、西洋中世美術史研究者であった長塚安司は、12月11日、がんのため東京都新宿区の自宅で死去した。享年77。 1936(昭和11)年、現在の東京都新宿区で生まれる。60年3月、東京藝術大学美術学部芸術学科を卒業、専攻科に進学し、62年3月に修了。在学中は、吉川逸治、柳宗玄の指導を受け、その影響もあって西洋中世美術に関心を寄せ、特にロマネスク美術を研究のテーマとした。後年、自ら生活に根差した芸術表現に関心をもち、そこから中世ヨーロッパ美術、とりわけ土着性と地域性の濃厚なロマネスク美術の研究をはじめたと語っていた。64年にパリ第一大学に留学、歴史博士号を取得する。帰国後、東京藝術大学の助手を務めながら、68、70年の同大学の中世オリエント遺跡学術調査隊の一員としてトルコ等に調査に赴いた。74年には、同大学のイタリア初期ルネッサンス学術調査隊に加わり、イタリアのアッシジ等に滞在した。77年4月より、東海大学教養学部芸術学科の助教授として赴任。翌年、同大学のビザンツ史跡調査隊に加わり、ギリシャのラコニアに滞在した。80年に同大学教授となり、2001(平成13)年3月に退職。同大学名誉教授となった。ゴシック美術、ビザンティン美術、初期ルネサンス研究を視野に入れながら、ヨーロッパから西アジアにかけて実地調査を重ね、絵画、彫刻を中心にロマネスク美術研究を進めた。主要な業績は、下記の通りである。「十字架降下について Ⅰ」(『美術史』76号、1969年3月)「十字架降下について Ⅱ」(『美術史』87号、1972年12月)摩寿意善郎監修、辻茂、茂木計一郎、長塚安司著『アッシージのサン・フランチェスコ聖堂』(岩波書店、1978年)Yasushi Nagatsuka, DESCENTE DE CROIX son developpement iconographique des origins jusqu’a la fin du XIVe siecle, 東海大学出版会、1979年下村寅太郎、長塚安司著『世界の聖域 14 アッシジ修道院』(講談社、1981年)(長塚は本文を執筆)責任編集『世界美術大全集 第8巻 ロマネスク』(小学館、1996年)「『ウィーン写本』における絵画様式試論―挿絵における衣文の表現を通して―」(『古代末期の写生画 古典古代からの伝統と中世への遺産』(研究代表者越宏一、平成11年度~平成13年度科学研究費補助金研究成果報告書)、2002年) 他に、98年に開館した大塚国際美術館(徳島県鳴門市)の絵画学術委員として中世美術の部門の監修を務めた。

吉村芳生

没年月日:2013/12/06

 美術家の吉村芳生は12月6日、間質性肺炎のため死去した。享年63。 1950(昭和25)年7月24日、山口県防府市で生まれる。創設されたばかりの山口芸術短期大学に進みデザインを学ぶ。71年に同大学を卒業後、山口県周南市の広告代理店にデザイナーとして勤務するが体調を崩し、5年ほどで退職。76年上京して創形美術学校に入学、版画を学ぶ。この頃より克明な鉛筆画を発表、その手法は高圧のプレス機で新聞のインキを紙に転写した後、それに基づいて鉛筆で描き起こした「ドローイング 新聞 毎日新聞 1976年11月6日」(1976-78年)や、17mに及ぶ金網を一旦描く紙に押し付けて、そこに残ったわずかな痕跡を鉛筆でなぞった「ドローイング 金網」(1977年)のように極めて機械的であり、アメリカの現代美術を紹介する展覧会で衝撃を受けたアンディ・ウォーホルの作品に通ずるものであった。80年より郷里の公募展である山口県美術展覧会を主な発表の場とし、同県を中心とする地域で活動、85年に山口市徳地に移住する。2007(平成19)年山口県美術展覧会で「コスモス 徳地に住んで見えてくるもの(色鉛筆で描く…)」により大賞を受賞。同年、東京の森美術館で開催された「六本木クロッシング2007 未来への脈動」展で、「ドローイング 新聞 毎日新聞 1976年11月6日」や「ドローイング 金網」といった吉村の出発点ともいえる作品が紹介され、多くの美術関係者に知られるところとなる。10年山口県立美術館にて「とがった鉛筆で日々をうつしつづける私 吉村芳生展」が開催されている。

堤清二

没年月日:2013/11/25

 文化功労者、日本芸術院会員で公益財団法人セゾン文化財団理事長の堤清二は11月25日午前2時5分、肝不全のため東京都内の病院で死去した。享年86。 1927(昭和2)年3月30日、東京に生まれる。48年東京大学経済学部在学中に学生運動に参加し共産党に入党するが、翌年除名。51年に同大学を卒業後、西武コンツェルンの創始者で衆議院議長だった父・康次郎の秘書を経て、54年に西武百貨店へ入社。64年の康次郎没後、西武コンツェルン本体を異母弟の堤義明が継ぎ、東京・池袋の西武百貨店を中心とする流通部門を受け継いだ清二は西友、パルコ等を含む西武流通グループ(後にセゾングループと改称)を創設、生活総合産業を掲げ広く事業を手がけた。しかし拡大路線がバブル崩壊で破綻、1991(平成3)年に同グループ代表を辞任し、一線から退いた。一方で55年より筆名・辻井喬として詩や小説を発表。61年には詩集『異邦人』で室生犀星詩人賞を受賞。84年小説「いつもと同じ春」で平林たい子文学賞受賞。グループ代表退任後は旺盛に創作に取り組み、93年詩集「群青、わが黙示」で高見順賞、94年小説「虹の岬」で谷崎潤一郎賞、2000年長編詩「わたつみ 三部作」で藤村記念歴程賞、01年小説「風の生涯」で芸術選奨文部科学大臣賞、04年小説「父の肖像」で野間文芸賞、06年日本芸術院賞恩賜賞、07年詩集「鷲がいて」で読売文学賞を受賞。07年日本芸術院会員、12年文化功労者となる。 特異な“詩人経営者”としての才能は、美術展をはじめとする文化事業において発揮された。60年に西武百貨店池袋店8階催事場を美術展に用いることを提案し、翌年「パウル・クレー展」を開催。その後も「ジャン・コクトー芸術展」(1962年)、「アーシル・ゴーキー素描展」(1963年)等、百貨店の美術展としては珍しい現代美術を度々取り上げ、75年、池袋店内に常設美術館である西武美術館を開館させる。同館の開館記念展「日本現代美術の展望」の図録に館長として「時代精神の根遽地として」を寄稿、生活意識の感性的表現としての多様な美術および美術館のあり方を示した。さらに78年より美術評論家の東野芳明らの協力のもと、軽井沢に現代芸術の拠点となる新たな美術館創設に向けて準備を始め、81年に軽井沢高輪美術館(現、セゾン現代美術館)が開館、開館記念展として「マルセル・デュシャン展」が開催される。西武美術館は89年にセゾン美術館としてリニューアルオープンし活動を続けるも、バブル崩壊による事業整理により99年に閉館、しかし現代美術を積極的に紹介し、さらに「時代精神の根遽地として」美術の枠を越え文化全般を対象とした展観に取り組んだ姿勢は今なお評価される。一方で87年には私財によりセゾン文化財団を設立し、演劇・美術分野に対して(1991年以降は舞台芸術のみ)助成事業を行なうなど日本の現代芸術の進展を支援。生活意識の中の感性的表現を重視する姿勢は、経営面においてもグラフィックデザイナーの田中一光や石岡瑛子らを積極的に起用した広告戦略に見出せる。時代の先端を行く美術、音楽、演劇、映画等を発信する場を店舗内に併設し、老舗百貨店の客層とは違う若い感性を持つ顧客を開拓することで、“セゾン文化”と呼ばれる個性的なライフスタイルを築き上げた。

逵日出典

没年月日:2013/11/21

 文化史学者の逵日出典は11月21日、死去した。享年79。 1934(昭和9)年8月11日奈良県五條市に生まれる。同志社大学文学部文化学科文化史学専攻に在学中の55年には「室町時代の象徴的芸術精神について」(『美術史年報』1)、「法成寺―藤原寺院芸術の思想史的考察」(『文化史研究』2)、翌年には「一木彫成立の文化史的意義―日本彫刻史への一反省」(『同』3)、「法成寺の伽藍配置と諸堂宇の構造―文化史的研究の前段階として」(『同』4)を立て続けに発表する。57年3月の卒業時には「京都と庭園」、「室町時代―日本的庭園の源泉」(ともに『同』5)を発表。卒業後は郷里の奈良県下で教職に就くが、その後も「室生伝説成立私考」(『同』6、1957年)、「法成寺伽藍とその性格―修補再論」(『同』8、1958年)、「室生寺の真言宗系々譜完成過程について―宀一山記・宀一秘記・宀一山秘密記を中心として」(『同』14、1958年)などを精力的に公表する。この頃から論文発表の場も『文化史研究』から次第に拡大の傾向を示す。65年には京都精華女子高等学校教諭となり、以後は『同学園紀要』が論文発表の場の中心となる。70年には同学園からそれまでの成果をまとめ『室生寺及び長谷寺の研究』として上梓をみた。以後も『同学園紀要』ほかで精力的に宗教文化史の観点から論文を発表する。ことに奈良時代から平安時代に及ぶ山岳寺院研究を精力的に行い、文化史研究にとどまらずわが国の宗教美術研究を行ってゆくうえでも成果は注目されることになった。70年以降の数々の研究論文発表を踏まえ、87年には「奈良朝山岳寺院の史的研究」をまとめ、同志社大学より文学博士の号を得た。1990(平成2)年に岐阜教育大学教育学部教授に就任。91年には『奈良朝山岳寺院の研究』(名著出版)を刊行。95年頃から構想が具体化した日本宗教文化史学会を、文化史に留まらず、宗教史、美術史、建築史の研究者に広く呼びかけて97年に立ち上げるとともに初代会長に就任した。これにあわせて論文発表の場も同会の学術研究誌『日本宗教文化史研究』に移行する。その頃から発生期における八幡信仰成立にかかわる研究を精力的に進め、2003年には『八幡宮寺成立史の研究』(続群書類従完成会)として結実をみた。この間、98年には岐阜聖徳学園大学(旧称、岐阜教育大学)教育学部教授、同大学院国際文化研究科教授に就任。06年10月1日付で同大学名誉教授に、09年には日本宗教文学史学会理事長となる。主要論文・著作の全貌については業績を顕彰して略歴・追悼文とともに『日本宗教文化史研究』35、36(2014年)に収載されているが、上掲の文中で触れ得なかった主要単著として、『長谷寺史の研究』・『室生寺史の研究』(ともに巌南堂書店、1979年)、『神仏習合』(六興出版、1986年。のち臨川書店から93年に復刊)、『八幡神と神仏習合(講談社現代新書1904)』(講談社、2007年)がある。また、上掲の単著に収録をみなかった主要論文には、「天武・持統両帝の龍田・広瀬両社への御崇敬」(『くすね』6、1960年)、「神泉苑における空海請雨祈祷の説について」(『芸林』68、1961年)、「平安初期における国家的雨乞の動向」(『神道史研究』54、1962年)、「寺院縁起絵巻の構成内容に関する考察」(『精華学園研究紀要』4、1966年)、「平安朝貴族の“ものもうで”―特に浄土信仰との関連において」(『京都精華学園研究紀要』6、1968年)、「平安朝貴族の信仰形態―藤原道長の場合」(『同』8、1970年)、「『世継』の歴史思想」(『同』9、1971年)、「大丹穂山と大仁保神」(『神道史研究』168、1983年)、「龍蓋寺(岡寺)草創考」(『京都精華学園研究紀要』27、1989年)、「讃岐志度寺縁起と長谷寺縁起」(『日本仏教史学』25、1991年)、「神道習合の素地形成と発生期の諸現象―既存発生論への再検討を踏まえて」(『芸林』208、1991年)、「住吉神宮寺の出現をめぐって」(『同』227、1996年)、「『南法華寺古老伝』に見る『日本感霊録』の逸文」(『日本宗教文化史研究』3、1998年)、「天平勝宝元年八幡大神上京時の輿について」(『同』14、2003年)、「『石山寺縁起』に見る比良明神―長谷寺観音造像伝承とも関連して」(『同』16号、2004年)、「多武峯妙楽寺の草創」(『同』18、2005年)、「本長谷寺の所在に就いて―永井義憲氏説の妥当性と補遺」(『同』24、2008年)、「長谷寺創建問題とその後」(『同』26、2009年)、「室生寺の歴史―龍穴信仰から抗争のはて女人高野へ」『室生寺(新版古寺巡礼 奈良6)』(淡交社、2010年)、「古代神祇祭祀の基本形態―神体山信仰の展開」(『神道史研究』266、2012年)などがある。

齋藤明

没年月日:2013/11/16

 鋳金で重要無形文化財保持者である齋藤明は11月16日、老衰のため死去した。享年93。 1920(大正9)年3月17日、東京都西巣鴨に鋳金家齋藤鏡明の長男として生まれる。鏡明は佐渡出身で、佐渡の本間琢斉に学び、1909(明治42)年頃に東京に移り巣鴨に工場を設立している。1935(昭和10)年、父に鑞型鋳造の技法を学んだが、38年、18歳の時父が急逝し、鋳物工場を引き継いだ。この工房には佐々木象堂、2代宮田藍堂ら蠟型を得意とした佐渡の鋳金家が冬の間制作場としたため、彼らから技術指導を受ける機会に恵まれた、50年、高村光太郎の弟で鋳金家の高村豊周に師事し、豊周が72年逝去するまでその工房の主任をつとめた。工房では高村光太郎の彫塑原型のブロンズ鋳造を多く手掛けた。豊周に師事した年、第6回日展に「鋳銅」蝶両耳花瓶」を出品し初入選した。68年、第13回日本茶器花器美術工芸展で青銅大壺「跡」で文部大臣賞を受賞した。73年、浅草寺五重塔の建立にあたって、塔納置の舎利容器を制作する。75年、日本伝統工芸展に「蠟型朧銀流水壷」を初出品、初入選し、以後日展から伝統工芸展に移った。87年、第17回伝統工芸日本金工展に「蠟型朧銀花器」を出品、東京都教育委員会賞を受賞する。1993(平成5)年、国の重要無形文化財保持者に認定され、95年勲四等瑞宝章を受章した。 作品は縄文や弥生土器にみられえるような装飾性を抑えた簡素な造形を好み、日展時代には四分一や青銅、緋色銅を用いた作が多いが、伝統工芸展で新たに吹分(ふきわけ)の技法を発表する。吹分は、青銅に真鍮、青銅に銅など異なる金属を鋳型に流し込んで、色彩的な変化を付けるとともに、その境界の金属の交じり合う微妙な融合の美を追求したものので、明治時代以前には全くなかった技法である。日本鋳金家協会顧問・東京芸術大学美術学部非常勤講師なども勤め、金工界にも尽力した。

to page top