本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数2,907 件)





柳原良平

没年月日:2015/08/17

 サントリーのウイスキー「トリス」のキャラクター“アンクルトリス”のデザインで知られるイラストレーターの柳原良平は8月17日午前8時52分、呼吸不全のため神奈川県横浜市の病院で死去した。享年84。 1931(昭和6)年8月17日、東京府豊多摩郡東田町(現、東京都杉並区)に生まれる。6歳の時に銀行員だった父の転勤で関西へ移り、少年時代を京都、西宮、豊中で過ごす。50年京都市立美術大学(現、京都市立芸術大学)工芸科(図案専攻)に入学。在学中にウィーン工房出身の上野リチによる色彩構成の講義を受け、後の切り絵を多用した作風に影響を及ぼす。54年同大学を卒業し、寿屋(現、サントリーホールディングス)大阪本社宣伝部意匠課に入社。翌年日本宣伝美術会に「トリス」のポスターを出品し、奨励賞を受賞。56年より、後に作家となる開高健や山口瞳が編集長を務めた寿屋のPR誌『洋酒天国』で表紙を担当。またテレビCMのキャラクター“アンクルトリス”を案出、動きを簡略化してデザイン的に処理したスタイルが注目された。56年に東京支社へ転勤、59年に寿屋を退社し嘱託となり、64年に開高、山口らと広告制作会社サン・アドを設立。この間、59年から翌年にかけて『朝日新聞』日曜版で漫画「ピカロじいさん」を連載。60年久里洋二、真鍋博と「アニメーション3人の会」を発足、実験アニメにも意欲をみせ、草月ホールで上映を行なう。また本の装丁も積極的に手がけるほか、絵本作家として、大胆なデフォルメの切り絵による『かお かお どんなかお』(こぐま社、1988年)等の絵本も制作。また少年時代より船舶に強い関心を寄せ、『柳原良平 船の本』(至誠堂、1968年、以後シリーズで1976年までに5冊出版)、『柳原良平 船の世界』(誠文堂新光社、1973年)等、船や港に関する著書を多数出版。商船三井や太平洋フェリーの名誉船長、日本船長協会の名誉会員を務めた。64年より横浜に住み、75年より横浜市中区のせんたあ画廊で、没年に至るまで継続的に個展を開催。77年横浜文化賞受賞。2001(平成13)年に横浜マリタイムミュージアム(現、横浜みなと博物館)で企画展「船の画家 柳原良平」が開催されている。

木田安彦

没年月日:2015/08/13

 京都の寺社や仏像を主なモティーフとして木版画をはじめ、ガラス絵や水墨画、書等多彩な活動を繰り広げた木田安彦は8月13日、悪性リンパ腫のため死去した。享年71。 1944(昭和19)年2月14日、京都府京都市に生まれる。67年京都教育大学特修美術科構成専攻卒業。在学中の66年に制作したポスターが京都産業デザイン展で市長賞銀賞を受賞。同大学の美術・工芸専攻科(現、大学院)構成学専攻へ進むも退学し、京都市立美術大学(現、京都市立芸術大学)美術専攻科(現、大学院)へ進学。在学中の69年に東京イラストレーターズ・クラブによる全国公募にイラストが入選、同クラブ編集の『年鑑イラストレーション』に掲載される。70年京都市立芸術大学美術専攻科デザイン専攻を修了。同年東京へ移り博報堂制作部に勤務、入社一年目で毎日商業デザイン賞を受賞するなどグラフィックデザイナーとして注目を集める。75年に京都へ戻り、木版画家として作家活動を開始。木版画の棟方志功を意識しつつも洗練された京都人のセンスを活かした画風を追求する。一方でグラフィックデザイナーの田中一光に見出され、77年には田中をリーダーとするセゾングループのクリエイティブスタッフとなるなど、グラフィックの世界でも存在感を示す。田中一光とは2002(平成14)年に田中が没するまで、その薫陶を受けた。また日本画家の下村良之介や彫刻家の辻晉堂、哲学者の梅原猛、ファッションデザイナーの三宅一生らともジャンルを越えて交流。自らの制作においても木版画の他、華麗な色彩によるガラス絵、板絵、水墨、油彩、陶、書と様々な材料と技法により領域を拡げていった。87年に初めての大規模な個展「京都から世界へ ひた走る木版画家 木田安彦展」を東京・池袋の西武アート・フォーラムで開催。2000年に第79回ニューヨークADC賞で銀賞、優秀賞、04年に第17回京都美術文化賞、06年に第24回京都府文化賞功労賞等、国内外の数々の賞を受賞。この間、03年にはNHK大河ドラマ「新撰組!」タイトル版画を制作。04年には、松下電工のカレンダーを20年来手がけてきた縁で、松下電工汐留ミュージアム(現、パナソニック汐留ミュージアム)で「煌めきのガラス絵 木田安彦の世界」展を開催。04年から09年にかけて眼疾と闘いながら最後の木版画連作「西国三十三所」を制作し、09年に京都文化博物館とパナソニック電工汐留ミュージアムで公開、その後も肉筆による作画を続けた。11年に京都市文化功労者に選ばれる。12年にはミネルヴァ書房より『一刀の無限 木田安彦木版画集成』が刊行、また池田20世紀美術館で「木田安彦 祈りの道」展が開催。13年には京都三十三間堂本坊妙法院門跡より法眼位の称号を叙位された。

丹野章

没年月日:2015/08/05

 写真家の丹野章は8月5日急性肺炎のため八王子市内の病院で死去した。享年89。 1925(大正14)年8月8日、東京に生まれる。1947(昭和22)年、大内写真工房に入社、大内英吾のもとで広告写真にとりくむ。日本大学専門部芸術科で写真を専攻、49年卒業。51年に独立、フリーランスとなる。57年、戦後に出発した若手写真家による展覧会、第一回「10人の眼」展に〈サーカス〉連作を出品。同展の主要メンバー東松照明、奈良原一高らと59年自主エージェンシーVIVOを結成(1961年に解散)。初めての写真集として『ボリショイ劇場』(音楽之友社、1958年)を刊行するなど、舞台写真から身体表現へと関心を広げ、その他の写真集に70年代から長くとりくんだ主題による『壬生狂言』(イメージハウス、1990年)、『壬生狂言』(光陽出版社、1992年)、『日本で演じた世界のバレエ1952-1972』(イメージハウス、1995年)などがある。また炭鉱や基地問題など社会的主題の取材にもとりくみ、日本写真リアリズム集団にも参加、1989(平成元)年から2001年まで理事長を務めた。98年、第48回日本写真協会賞功労賞を受賞。死去の翌月、初期作品による写真集『昭和曲馬団』(禅フォトギャラリー、2015年)が刊行され、刊行記念の個展(東京・禅フォトギャラリー)が開催されるなど、晩年その仕事への再評価が始まっていた。 また日本写真家協会の著作権委員として著作権法の改正について70年、国会で意見陳述し、71年の日本写真著作権協会の創設に尽力、写真の著作権保護期間延長に関する活動に長く携わった。その功績に対し、99年、著作権制度百年記念功労者として文部大臣表彰を受けた。また2000年代に入り、03年には新たに創設された日本写真家ユニオンの初代理事長に就任、また個人の肖像権保護意識が高まる中、『撮る自由―肖像権の霧を晴らす』(本の泉社、2009年)を著すなど、社会的存在としての写真家の権利と自由について発言を続けた。

久保田成子

没年月日:2015/07/23

 美術家・映像作家の久保田成子は7月23日午後8時50分、癌のためニューヨークで死去した。享年77。 1937(昭和12)年8月2日、高校教師の父・隆円と、東京音楽学校(現、東京藝術大学音楽学部)でピアノを専攻した母・文枝の次女として、新潟県西蒲原郡巻町(現、新潟市西蒲区)に生まれる。母方久保田家の曾祖父・十代右作は貴族院議員となり、地元小千谷の発展に尽力した。母方の祖父・久保田彌太郎は水墨画家(雅号は翁谷)。成子は祖父の影響で芸術的な雰囲気の家庭に育ち、幼少から美術に優れた頭角を現す。両親からの賛同を得て、高校から新潟大学教授について絵を習い、在学中「二紀展」に入選。当時の日本に女流彫刻家が少なかったことから、この分野で身を立てようと東京教育大学(現、筑波大学)の彫塑科に進学。しかし、教員養成用教育課程に辟易とし、在学中は「全日本学生自治会総連合」(全学連)の「安保闘争」などに加わり、社会変革運動に積極的に関与。卒業後は、品川区立荏原第二中学校で教鞭を執った。 この頃前衛芸術に心酔していた久保田は、既存の秩序に抵抗した作品を理想とし、64年の初め東京・内科画廊で開催した初個展「Make a Floor of Love Letters」では、くしゃくしゃにした新聞紙を山のように積み、その上を白の布で覆ってブロンズの彫像を設置し、観客が紙の山に這い上がって鑑賞する作品を発表。現代舞踊家の叔母・邦千谷を通して、ニューヨークから帰国したオノ・ヨーコと、彼女の最初の夫一柳慧に会い、国際的な前衛美術運動で、ダダの流れを組むフルクサスに関与する。64年5月29日、ドイツのフルクサス運動で活躍中であった芸術の反抗児、ナムジュン・パイク(白南準)の東京・草月会館ホールでの公演に強い衝撃を受ける。公演を見て、当時の日本の美術界では自分のような前衛的な作家は育たないと思っていた矢先に、オノを通して知り合ったフルクサスの旗手ジョージ・マチューナスからニューヨークで開催されるフルクサスのコンサートに招待され、結婚資金から500ドルを持って64年7月4日、友人のアーティスト塩見充枝子とともにニューヨークに渡る。目的地はマンハッタンのキャナル・ストリート359番地の、フルクサス本部として使われていたマチューナスの事務所。そこで、ニューヨーク滞在中のパイクと運命のような再会をし、やがて恋愛関係を持つようになる。到着後しばらく一人暮らしをするが、マチューナスの呼びかけで、フルクサス本部で「コモン・システム」という共同生活を始め、この運動の副議長となる。65年7月の「不朽のフルクサス・フェスティヴァル」では、パイクの提案で、股座に筆を挿して描いたように演出したパフォーマンス「ヴァギナ・ペインティング」を披露し、一躍大胆な芸術家として知られるようになる。 ビデオ・アートの先駆者であるパイクの影響で、映像作品と、大学時代に学んだ彫刻の技術とを組み合わせたビデオ・スカルプチャーに転向。74年-82年まで、ジョナス・メカスの主催するアンソロジー・フィルム・アーカイブでビデオ・キュレーターの仕事も務める。仕事を通して人脈を広げ、当初はパイクの作品のプロデュースに力を入れたが、自分の「パートナーの芸術世界を真似ただけの皮相な二番煎じの作家」とならないよう、自作も当時の若手アーティストの登竜門であったニューヨークのオルターナティブ・スペース、The Kitchen(1972年)や、Everson Museum of Art(1973、75年)で展示。それらが画商のRen〓 Blockの目に留まり、ニューヨークでの初個展「Shigeko Kubota Video Sculpture」(1976年)をRen〓 Block Art Galleryで開催。尊敬するデュシャンを主題とした展覧会を開いて大きな反響を呼ぶ。中でも「階段を降りるヌード」(1976年)は、同年ビデオ作品で初めてニューヨーク近代美術館(MoMA)に収蔵される。また、「ビデオ・チェス」(1968-75年)では、デュシャンがパサデナ カリフォルニア美術館個展のオープニングで行った全裸の女性と着衣のアーティストとの関係を反転させ、着衣の久保田と全裸のパイクがチェスを打つパフォーマンスの映像作品を収録して、当時一世風靡したフェミニズムの反骨精神を反映させた。 Ren〓 Block Art Galleryの個展の成功を受けて、久保田の作品は、世界の美術の今後5年間の方向性を示す「ドクメンタ 6」(1977年)や、MoMAの「Projects」(1978年)で紹介された。84年の雑誌『アート・イン・アメリカ』のビデオ・アーティスト特集では、作品「River」(1979-81年)が表紙を飾り、久保田は巻頭記事で特集される。その後もグループ展では「ホイットニー・ビエンナーレ」(1983年)や「ドクメンタ8」(1987年)で紹介され、1991(平成3)年にはニューヨークの映像芸術専門美術館American Museum of the Moving Imageで大回顧展が開催された。このほかアムステルダムのステデリック美術館(1992年)や、日本の原美術館(1992年)、 ホイットニー美術館(1996年)などで次々と個展が開催され、シカゴ美術学校、ブラウン大学、スクール・オブ・ビジュアルアーツなどで教鞭を執った。久保田の考案したビデオ・アートに彫刻的要素を合わせたビデオ・スカルプチャーは、パイクに影響を与えたとも言われている。 私生活では77年3月21日パイクと結婚。その後1977-87年は、パイクの仕事の関系でドイツ在住。96年にパイクが脳卒中で倒れてからは介護に追われた。パイクのリハビリする姿を映像で記録し、2000年にLance Fung画廊で「セクシャル・ヒーリング」として発表。パイクの死後07年にMaya Stendhal Galleryで開催された「パイクとともに歩んだ生涯」が、最後の個展となった。今後、新潟県立近代美術館をはじめ国内で回顧展が予定されている。

川添登

没年月日:2015/07/09

 建築評論から民俗学に至る分野で活躍した建築評論家の川添登は7月9日肺炎のため死去した。享年89。 1926(大正15)年2月23日東京駒込染井に生まれる。早稲田大学専門部工科(建築)、文学部哲学科を経て、1953(昭和28)年、理工学部建築学科卒業。同年より新建築社勤務。53年より『新建築』の編集長を務めていたが、1957年に独立して建築評論家となる。60年世界デザイン会議日本実行委員。69年大阪万博博覧会テーマ館サブプロデューサー。70年京都に加藤秀俊などとともにシンクタンクの株式会社CDI(コミュニケーションデザイン研究所)を設立し、所長を務めた。72年日本生活学会を設立し、理事長・会長を歴任した。81年つくば国際科学技術博覧会政府出展総括プロデューサー、87年から1999(平成11)年まで郡山女子大学教授、93年より96年まで早稲田大学客員教授、99年より2002年まで田原市立田原福祉専門学校校長。日本生活学会・日本展示学会・道具学会名誉会員。 川添が残した日本建築界への多大な功績のうち、特筆すべきは1950年代から60年代にかけて建築界の言説を牽引し、建築批評と建築評論の両面から建築ジャーナリズムを確立していったことが挙げられる。川添が編集長を務めていた『新建築』の中で建築家に論考を促し、建築の背景にある思想を記述させた。また、50年代半ばには紙面にて集中的に伝統論をテーマにするよう仕掛け、言説を煽った。これは「日本建築のルーツはなにか」、さらには「日本建築をどう表現すべきか」を問うものであった。さらには、編集のみに留まらず川添は「岩田知夫」のペンネームで、新建築および他の建築雑誌『国際建築』と『建築文化』にも寄稿して議論を盛り上げ、建築ジャーナリズムを通して、現代に通じる日本建築とは何かを日本の建築家に問い続けた。 また、特筆すべきは中心メンバーとしてメタボリズム運動を生み出し、牽引したことである。60年に開催された世界デザイン会議においては実行委員の中心メンバーとして参画し、他国から著名な建築家を招聘するだけではなく、それを迎え撃つように、菊竹清訓、大高正人、槇文彦、黒川紀章らとメタボリズムの概念を練りあげ、『METABOLISM 1960 都市への提案』(美術出版社、1960年)を出版し、日本発の世界的な建築理念を発表するに至った。50年代当時において、海外ではオリエンタリズムの観点から形態について述べられるに過ぎなかった日本の現代建築を、現代建築思想の観点を含めて世界的な建築批評の壇上に持ち上げることに成功した。 このように川添は建築の実作をつくらずして、日本の建築思想を牽引し、日本の建築家の作品や考え方に影響を与え続けた。 川添は生涯に渡り、数多くの著作を執筆した。受賞歴として、60年『民と神の住まい』により毎日出版文化賞、82年『生活学の提唱』により今和次郎賞、民間学である生活学を体系したことで97年南方熊楠賞を受賞している。主要著書:『現代建築を創るもの』(彰国社、1958年)、『伊勢 日本建築の原形』(丹下健三、渡辺義雄と共著、朝日新聞社、1962年)、『メタボリズム』(美術出版社、1960年)、『民と神の住まい大いなる古代日本』(光文社、1960年)、『建築の滅亡』(現代思潮社、1960年)、『日本文化と建築』(彰国社、1965年)、『建築と伝統』(彰国社、1971年)、『生活学の提唱』(ドメス出版、1982年)、『象徴としての建築』(筑摩書房、1982年)、『「木の文明」の成立』(上下 NHKブックス、1990年)、『木と水の建築 伊勢神宮』(筑摩書房、2010年)など多数

大竹省二

没年月日:2015/07/02

 写真家の大竹省二は7月2日、心原生脳塞栓症のため死去した。享年95。 1920(大正9)年5月15日、静岡県小笠郡横須賀町(現、掛川市)に生まれる。1933(昭和8)年東京に転居。中学時代から写真を撮り始め、写真雑誌のコンテストに入選を重ねるようになり、すぐれた少年アマチュア写真家として知られるようになる。40年上海の東亜同文書院に入学。42年陸軍に応召。対外宣伝誌のための写真撮影や、北京大使館報道部付として同大使館の外郭団体、華北弘報写真協会の結成に協力するなど、情報関連の軍務にあたり、終戦は東京で迎える。 46年連合軍総司令部(GHQ)報道部の嘱託となる。アーニー・パイル劇場に配属され舞台や出演者の撮影を担当。その後『ライフ』誌やINP通信社の専属を経て、50年フリーランスとなる。その間、同世代の秋山庄太郎、稲村隆正らと49年日本青年写真家協会を結成。50年には日本写真家協会の設立に参加、また同年三木淳らと集団フォトの結成にも参加した。53年には二科会写真部の創設会員となった。 51年から5年にわたり来日した音楽家のポートレイトを撮影、『アサヒカメラ』誌上に連載し、最初の写真集として、その仕事をまとめた『世界の音楽家』(朝日新聞社、1955年)を出版、また54年に来日したマリリン・モンローを撮影するなど、人物写真の名手として評価を確立する。とくにモダンで洗練された女性写真やヌード写真で知られ、56年には女性写真の分野で活躍する写真家たちのグループ、ギネ・グルッペの結成に参加。71年からは5年にわたり、日本テレビの番組「お昼のワイドショー」で一般から募集したモデルのヌードを撮影する「美しき裸像の思い出」という企画で撮影を担当、話題を呼んだ。この企画から写真集『ファミリー・ヌード』(柴田宏二との共著、朝日ソノラマ、1977年)が刊行された。 上記以外の主な写真集に、『照る日曇る日』(日本カメラ社、1976年)、『101人女の肖像』(講談社、1982年)、『昭和群像』(日本カメラ社、1997年)、『赤坂檜町テキサスハウス』(永六輔との共著、朝日新聞社、2006)など。文筆家としても優れ、終戦後の混乱期の経験をつづった回想記『遥かなる鏡 ある写真家の証言』(東京新聞出版局、1998年)がある。 83年には戦前に撮影した写真をまとめた写真集『遥かなる詩 大竹省二初期写真集』(桐原書店)を出版、翌年同題の個展(東京・ミノルタフォトスペース)を開催し、知られざる初期作品に注目が集まった。 1992(平成4)年、第42回日本写真協会賞功労賞を受賞した。

長岡秀星

没年月日:2015/06/23

 宇宙やSFをイメージした作品で国際的に活躍したイラストレーターの長岡秀星は6月23日午前1時59分、心筋梗塞のため神奈川県小田原市の病院で死去した。享年78。 1936(昭和11)年11月26日、長崎県長崎市に生まれる。本名秀三。45年に父の出身地である長崎県壱岐へ疎開し、以後高校卒業まで同地で過ごす。高校3年の時に原子力飛行機の分解図を描いて小学館発行『中学生の友』の口絵に投稿、採用される。55年武蔵野美術学校(現、武蔵野美術大学)デザイン科に入学。在学中から百科事典の解説図等に才能を発揮、多忙となり一年で中退・独立する。70年大阪万国博覧会で展示用イラストレーションを担当。同年渡米し、カリフォルニアを拠点に活動。73年カーペンターズの「ナウ・アンド・ゼン」LPレコードのジャケット画が評判を呼び、アース・ウインド&ファイアー等のミリオンセラーレコードを担当、東洋の神秘を漂わせた幻想的ファンタジーの画風で一躍有名になる。一方で面相筆とエアブラシを駆使して描き上げる作品の精巧さから、NASAをはじめ自動車、航空会社等よりメカニカル・イラストレーションの依頼も殺到した。76年『ローリングストーン』誌最優秀アルバムカバー賞、77年国際イラストレーション展優秀賞を受賞。日本でもその人気は高まり、81年に新宿伊勢丹で「長岡秀星展」が開催、10万人を動員。84年には絵物語『迷宮のアンドローラ』(集英社)を出版、そのイメージソングをアイドルの小泉今日子がリリースし、話題となる。85年に茨城県筑波で開催された科学万博で、日本政府出展のテーマ館の映像表現を担当。2004(平成16)年に帰国。90年代頃より宇宙をテーマとしたSF絵物語の大作「アナバシス」に着手し、晩年にはほぼ完成させていたという。作品集に『長岡秀星の世界』(日本放送出版協会、1981年)、『長岡秀星の世界・PART2』(日本放送出版協会、1985年)がある。

東孝光

没年月日:2015/06/18

 建築家で大阪大学名誉教授の東孝光は6月18日、肺炎のため死去した。享年81。 1933(昭和8)年9月20日、大阪市に生まれる。57年大阪大学工学部構築工学科を卒業後、郵政省大臣官房建築部に勤務。60年に坂倉順三建築事務所に入所し、「枚岡市庁舎」(1964年、西澤文隆とともに担当)、「新宿駅西口広場・地下駐車場」(1966年)などの実施設計・監理を坂倉のもとで担当した。 東京都渋谷区神宮前に自邸「塔の家」を設計(1966年竣工)、わずか6坪の変形の土地に建つRC造打ち放しの建物は、6層の内部に一切の仕切りを設けることなくプライバシーを確保して都市における狭小住宅のあり方を明快に提示し、一躍注目を集めた(2003年、「日本におけるDOCOMOMO 100選」に選定)。 67年に独立し、東孝光建築研究所を設立。「粟辻邸」(1971年)、「羽根木の家」(1982年)、「阿佐ヶ谷の家」(1993年)など、長女の東理恵との共同設計作品も含めて100件以上の住宅設計を手掛けた。1995(平成7)年に「塔の家から阿佐谷の家に至る一連の都市型住宅」で日本建築学会賞(作品)受賞。また、「大阪万国博覧会三井グループ館」(1970年)や、「さつき保育園」(1969-76年)、「姫路工業大学書写記念会館」(1995年)などの教育施設の設計も行なっている。 85年に大阪大学工学部環境工学科教授に就任。97年に退官後2003年まで千葉工業大学工業デザイン学科教授を務めた。 主な著書に、『日本人の建築空間』(彰国社、1981年)、『都市住居の空間構成』(鹿島出版会、1986年)、『「塔の家」白書』(住まいの図書館出版局、1988年)、『都市・住宅論』(鹿島出版会、1998年)などがある。

梶山俊夫

没年月日:2015/06/16

 画家の梶山俊夫は6月16日、肺炎のため死去した。享年79。 1935(昭和10)年7月24日、東京都江東区亀戸に生まれる。本名は梶山俊男。少年期に茨城県常陸太田町(現、常陸太田市)に4年間疎開する。56年、武蔵野美術大学西洋画科中退。1年のときに演劇部を作ろうとして押さえつけられ、退学届を提出したという。58年、第10回読売アンデパンダン展(以後、61年まで)、第11回日本アンデパンダン展、アジア青年美術家展に出品。同年、銀座・なびす画廊にて初個展を開催。61年、日本大学芸術学部卒業。在学中より博報堂制作部に嘱託勤務、このころ日本宣伝美術会会員として日宣美展に出品。62年、シェル美術賞(3等)受賞、木島始との共著で詩画集『グラフィック・マニフェスト―のどかなくわだて』(未来社)を上梓。63年に渡欧、フランスの画家と交友をもち、ヨーロッパ各地をめぐったのち、翌64年に帰国。創作活動を続けながら、全国の国分寺跡や奈良時代の廃寺跡を3年間訪ね歩く。67年、木島始の依頼で鳥獣戯画を素材として『かえるのごほうび』(福音館書店、こどものとも130号)のレイアウトを手掛ける。この仕事をきっかけに福音館書店の松居直に絵本制作を勧められ、博報堂での知己天野祐吉の文に挿絵を描いた『くじらのだいすけ』(福音館書店、こどものとも139号)を氏によるはじめての物語絵本として上梓、以後36年間にわたり、日本の自然、風土、民話をテーマに絵本を描く。73年、ブラチスラバ世界絵本原画ビエンナーレに『かぜのおまつり』(いぬいとみこ・文、福音館書店、1972年、こどものとも199号)を出品、「金のりんご賞」を受賞。このころより木版画の制作に着手。73年、『いちにちにへんとおるバス』(中山正文作、ひかりのくに、1972年)で講談社出版文化賞受賞。74年、『あほろくの川だいこ』(岸武雄・文、ポプラ社、1974年、ポプラ社の創作絵本)で小学館絵画賞受賞。77年、初の画集『風景帖』(沖積舎)を発表。このころより、同人誌『自在』創刊に参加(1991年、『虚空』と改題創刊)。82年、『こんこんさまにさしあげそうろう』(森はなさく、PHP研究所、1982年)で絵本にっぽん大賞受賞。1989(平成元)年梶山俊夫展「汽車の窓からバスの窓から―中国・ガンダーラスケッチ紀行」(西武舟橋店)開催。このころから絵本原画を絵巻に再生することを始める。96年、兵庫県和田山町文化会館の壁画及び『じろはったん』のブロンズ像制作、「毎日新聞」朝刊の連載、佐藤愛子「風の行方」の挿絵を担当。97年『みんなであそぶわらべうた』(福音館書店、1997年)で再びブラチスラバ世界絵本原画ビエンナーレ「金のりんご賞」受賞。99年ガラス絵や陶板絵の制作に傾注。98年、市川市民文化賞・奨励賞受賞。 そのほかの絵本に『いぐいぐいぐいぐ』(フレーベル館、1977年、「わが西山風土記」シリーズ)、『絵本空海お大師さま』(智山教化研究所企画、1984年)など多数、作品集に『梶山俊夫絵本帖』(上下、あすか書房、1981年)、『旅の窓から―梶山俊夫ガラス絵と陶女の風景』(毎日新聞社、1999年)、著書にエッセイ集『ぼくの空、蛙の空』(福音館書店、1995年)、『ききみみをたてて出かけよう』(毎日新聞社、1998年)がある。日本国際児童図書評議会会員、文芸誌『虚空』同人、市川市民文化賞を推進する会選考委員を歴任。

松谷敏雄

没年月日:2015/06/12

 文化人類学者で、東京大学東洋文化研究所所長、東京大学名誉教授、古代オリエント博物館評議員などを務めた松谷敏雄は、6月12日死去した。享年78。 1937(昭和12)年3月4日、福岡県に生まれる。東京都の私立武蔵中学、武蔵高校を卒業後、東京大学教養学部教養学科に進学し文化人類学を学んだ。大学院では、東京大学大学院生物系研究科人類学専門課程に進んだ。65年、東京大学東洋文化研究所の助手に奉職する。以後、1997(平成9)年3月に東京大学を退官するまで同研究所に勤務し、講師(1972年就任)、助教授(1974年就任)、教授(1984年就任)、所長(1992年就任)職を務めた。 東京大学の故江上波夫教授が、西アジアにおける文明の起源を解明するために56年に組織した東京大学イラク・イラン遺跡調査団の発掘調査に、64年以降、団員として参加する。85年以降は、故江上波夫教授、故深井晋二教授につぐ3代目の調査団の団長として、西アジアにおける発掘調査を指揮した。 西アジアにおける農耕の起源を終生の研究テーマに掲げ、イラクのテル・サラサート遺跡やイランのタル・イ・ムシュキ遺跡、シリアのテル・カシュカショク遺跡、テル・コサック・シャマリ遺跡など、数多くの原始農耕村落址の発掘調査に従事し、学界に多大な貢献をした。 著書に、『図説世界文化地理大百科 古代のメソポタミア』(監訳、朝倉書店、1994年)、『テル・サラサートII』(共編、東洋文化研究所、1970年)、『マルヴ・ダシュトIII』(共編、東洋文化研究所、1973年)、『テル・サラサートIII』(共編、東洋文化研究所、1975年)、『Halimehjan I』(共編、東洋文化研究所、1980年)、『Telul eth-Thalathat IV』(共編、東洋文化研究所、1981年)、『Halimehjan II』(共編、東洋文化研究所、1982年)、『Tell Kashkashok』(東洋文化研究所、1991年)、『Tell Kosak Shamali vol. 1』(共編、東京大学総合研究博物館、2001年)、『Tell Kosak Shamali vol. 2』(共編、東京大学総合研究博物館、2003年)など多数。

松井章

没年月日:2015/06/09

 奈良文化財研究所埋蔵文化財センター前センター長で、京都大学大学院人間・環境学研究科前併任教授の松井章は、6月9日、肝臓がんのため死去した。享年63。瑞宝双光章を授与され、従五位を叙された。 1952(昭和27)年5月5日、大阪府堺市に生まれる。76年に東北大学文学部卒業。77年からアメリカ・ネブラスカ大学に1年半の留学。80年に東北大学大学院修士課程を修了。82年に奈良国立文化財研究所に入所。 専門は環境考古学。幼少期を過ごした大阪では、有名な弥生遺跡や古墳で遺物を収集する「考古ボーイ」であったが、東北大学進学後は縄文時代の貝塚に興味を持ち、そこから出土する魚骨、動物骨や貝殻といった自然遺物に興味を持ち、動物遺存体の研究に取り組み始めた。しかし当時の国内では、動物遺存体を研究する動物考古学は未開拓の分野であったため、指導教授である芹沢長介の紹介を通じてアメリカに留学し、海外の動物考古学の基礎を習得した。 帰国後、奈良国立文化財研究所(当時)に職を得、埋蔵文化財センターにおいて動物考古学の研究の進展に取り組み、同研究所が動物考古学のナショナル・センターとなる基礎を築いた。彼が中心となって収集した膨大な原生動物の骨格標本は、出土した自然遺物の同定における基礎資料として、国内外の多くの研究者に活用された。また1994(平成6)年からは京都大学大学院人間・環境学研究科の併任教員となり、後進の指導にも尽力し、多くの動物考古学の専門家を輩出した。 奈良文化財研究所では古代や中・近世の遺跡にも関心を高め、歴史時代の獣肉食や皮革生産の実相に迫る画期的な成果を挙げた。また89年のイギリス・ロンドン自然史博物館での在外研究を経て、トイレ考古学や湿地考古学にも関心を広げ、動物考古学に止まらない、環境考古学の確立を志向するようになった。 2011年の東日本大地震に関わる文化財レスキュー活動では、奈良文化財研究所の先陣を切って被災地へ駆けつけ、自らの手で瓦礫を撤去し、貴重な文化財の救出に努めた。その後は被災した博物館・資料館から自然遺物関連の資料を預かり、その整理作業に携わった。 学会での活躍や研究交流は国内外を問わず、93年には国立歴史民俗博物館の西本豊弘らと共に動物考古学研究会(現、日本動物考古学会)の設立にも携わった。05年には国際湿地考古学研究会(WARP)にて学会賞大賞を受賞、11年には濱田青陵賞を受賞した。 09年に奈良文化財研究所埋蔵文化財センター長に就任。13年に奈良文化財研究所を定年退職したが、その後も特任研究員として研究活動を継続した。病を得てからも、最期の日を迎えるまで研究を続けた。 自身、「一人っ子やったし、子どもの頃から好きなことしかせえへんかったなぁ」と発言するように、幅広い分野に関心を持ち、自由闊達にフットワーク軽く活動するタイプの学者であった。ヨーロッパ出張の飛行機の中で、機内食用のワインの小瓶20本を空けたというエピソードは今でも語り草となっている。 主な著書は以下の通り。『考古学と動物学』考古学と自然科学②(西本豊弘との共編著、同成社、1997年)『古代湖の考古学』(牧野久美との共編著、クバプロ、2000年)『環境考古学』日本の美術423(士文堂、2001年)『環境考古学マニュアル』(編著、同成社、2003年)『環境考古学への招待』岩波新書930(岩波書店、2005年)『動物考古学―Fundamentals of Zooarchaeology in Japan―』(京都大学学術出版会、2008年)

古賀フミ

没年月日:2015/06/07

 重要無形文化財「佐賀錦」保持者の古賀フミ(本名:西山フミ)は6月7日に大腸がんのため死去した。享年88。 1927(昭和2)年2月3日佐賀市に生まれる。幼いころから曾祖母、母に佐賀錦の手ほどきを受ける。佐賀錦は和紙を裁って経紙とし、絹を緯糸にした肥前鹿島藩で創始された織物である。江戸時代後期、佐賀錦は御殿に務める女性の嗜みであり、廃藩置県後も制作が続けられた。大正時代に入ると、大隈重信によって広められ、旧華族のあいだで愛好会が結成された。古賀フミの曾祖母は肥前国の竜造家の家老村田家の家臣であり、御殿で佐賀錦の技術を習得したという。曾祖母から母へ、そして古賀フミへ伝授されたものには、平織だけでなく、綾組織も含まれ、古典模様だけでも200種以上に及んだ。古賀家の評判を聞きつけ、民芸運動の柳宗悦や、重要無形文化財保持者の森口華弘らとも交流が生まれる。  その後、森口の勧めもあり、66年に第13回日本伝統工芸展に出品し入選。同年、東京に移住する。67年には日本伝統工芸染織展、日本伝統工芸新作展にも出品を始める。同年、第4回日本伝統工芸染織展に出品した佐賀錦ハンドバックにて東京都教育委員会賞を受賞。本作品は上野公園に落ちていた道端の小さな花から着想を得たという。69年には、第6回日本伝統工芸染織展にて佐賀錦網代文笛袋「暁光」が日本工芸会賞、第16回日本伝統工芸展にて佐賀錦紗綾形文帯「七夕」が日本工芸会総裁賞を受賞。日本工芸会正会員となる。佐賀錦は経紙に用いる紙の大きさに制限を持つため袋などの小物が制作の中心であったが、古賀は森口華弘の励ましもあり帯にも着手する。日本工芸展での受賞はその成果の顕れといえる。 73年以降は、日本伝統工芸新作展や日本伝統工芸染織展の鑑審査委員を歴任。82年には、第19回日本伝統工芸染織展に出品した佐賀錦網代地籠目文笛袋「瑞光」にて日本工芸会賞、第29回日本伝統工芸展に出品した佐賀錦菱襷文帯「玻璃光」にて日本工芸会長賞を受賞。88年には紫綬褒章を受章。1993(平成5)年には福島県立美術館現代の染織展に出品。94年には重要無形文化財保持者「佐賀錦」に認定される。同年、日本橋三越特選画廊にて「佐賀錦古賀フミ自選展」を開催。98年には勲四等宝冠章を受章。 古賀の制作は、曾祖母が残した懐紙入れなどの作品、母が80歳を超えてから織ったという200種以上の織見本、母が織った作品の図案を父が筆で描き起こした模様図案に囲まれながら行われた。素材の和紙や染料などにも探求を深め、染めは植物染料で自ら手がけるようになったという。また、制作に用いる竹箆と網針は主君の西山松之助により作られたものである。 作品は東京国立近代美術館、東京国立博物館等に所蔵されている。

中西勝

没年月日:2015/05/22

 「芸術家である前にまず人間でありたい」と語り、生命の力強さを見つめ続けた洋画家、中西勝は5月22日、慢性呼吸不全増悪のため死去した。享年91。 1924(大正13)年4月11日、貿易業を営む中西信、一江夫妻の間に、四人兄弟の次男として大阪市城東区野江に生まれる。幼少から絵を好み、中西家所有の貸家に住んでいた日本画家に頼んで制作のようすを見せてもらったりしていたという。1937(昭和12)年3月大阪市城東区榎並小学校卒業。中学でははじめ剣道部に所属したが、級友の勧めで美術部に転部、油絵を描き始める。他方中之島の洋画研究所で田中孝之介等に学び、彫刻家・保田龍門のアトリエへ通いデッサンの手ほどきを受けた。42年3月大阪府立四條畷中学校(現、大阪府立四條畷高等学校)卒業。翌43年東京美術学校(現、東京芸術大学)を受験するもトラブルに巻き込まれ失敗、4月帝国美術学校(現、武蔵野美術大学)西洋画科へ入学する。また川端画学校へも通った。この頃の作品にはさまざまな画風が混在し、多様な西洋の画家から学び試行錯誤していたことが窺われる。44年学徒動員にて中支派遣軍の部隊に配属、任務地となった河南省南部の山奥で過酷な生活を送り、ひそかに陣地を離れるも追手に捕らえられ後方へと送られた。その後病気となり入院、終戦後の45年9月から半年余り湖北省の俘虜収容所で過ごし、46年5月博多港より帰国した。 同年7月大阪・難波の精華小学校内に設置された大阪市立美術館付設美術研究所へ開所当時から通いはじめ、田村孝之介、小磯良平等に指導を受ける(1949年まで在籍)。47年3月帝国美術学校西洋画科卒業。49年4月神戸市立西代中学校の図画教員となり、神戸市垂水区塩屋町に移り住む。同年杉田絹子と結婚。また神戸にて田村孝之介と再会、第二紀会出品を強く勧められ、同年10月第3回二紀展へ絹子夫人をモデルに描いた「赤い服の女」と終戦直後の三宮界隈の闇市場にたむろする戦災孤児等を描いた「無題」を出品、二紀賞を受賞する。以後65年から70年までの世界一周旅行期間中をのぞき、毎回出品。他方、西村功、貝原六一、西村元三朗等神戸洋画界の若手とともに49年に新神戸洋画会(後にバベル美術協会と改称)を結成、年2、3回の発表を行うなど精力的に活動した。50年10月第4回二紀展へ「人間荒廃」「女性薄落」を出品、同人に推挙される。52年10月第6回展へ「去来」「GAOGAO」を出品、同人努力賞。また「去来」にて同年12月第1回桜新人賞受賞。同月7日妻で二紀会同人の絹子が逝去。またこの年、田村孝之介が神戸市灘区の自宅に六甲洋画研究所(後の神戸二紀)を設立。中西は教師として後進の指導に当たった。53年4月神戸森女子短期大学講師(63年神戸森短期大学教授)。54年6月柿沼咲子と結婚する。同年10月第8回二紀展へ「夏・母子」「煙突掃除夫」「人間の対話」を出品、委員に推挙された。56年5月第2回現代日本美術展へ「黒い太陽に於ける群像」「負わされた群像」を出品、第3、4、6回展にも出品する。57年5月第4回日本国際美術展に「祭典」を出品、第5、7回展にも出品した。63年神戸・元町画廊(10月)と東京・文藝春秋画廊(11月)にて個展を開催。同年第1回神戸半どん文化賞を受賞する。50年代から60年代前半にかけ、中西の画風は大きく変化する。初期の作品では、戦後を生きる人々を暗めの色調で表現していたが、徐々にキュビスム風の人物や、デフォルメされた人や魚、鳥などの生き物、さらには抽象的な形態によって画面が構成されるようになっていく。また52年の「去来」以降、中西が数多く残した母子像が描かれはじめる。 65年10月咲子夫人とともに世界一周旅行へ出発。ロサンゼルスに6ヶ月滞在し、翌年4月同地にて個展を開催する。その後車にてアメリカ、カナダ、メキシコ等をめぐり、68年4月渡欧、ヨーロッパ各地を訪れた後にモロッコへ渡り、8ヶ月滞在。「ベルベル族の母子」(1969年)など、たくましく美しい母子像が制作された。その後再びヨーロッパ大陸へと戻り、69年8月リスボンで個展開催。70年4月ロシアに入り、モスクワよりシベリア鉄道にてユーラシア大陸を横断。同月7日に横浜港に到着した。旅行より持ち帰った油絵や水彩、デッサンなどは1000点以上にのぼり、そのすべてが具象画であったという。同月神戸学院大学人文学部美術専任教授となる(1995年名誉教授)。また10月と11月には、「私は外へ出て見た」と題した個展を神戸・相楽園、大阪・梅田画廊にて開催。71年10月第25回二紀展へ「砂漠の黒い男」「大地の聖母子」を出品、黒田賞受賞。さらに「大地の聖母子」で翌年3月、第15回安井賞を受賞した。72年10月第26回二紀展へ「黒い聖母子」「座す」を出品、文部大臣賞受賞。74年兵庫県文化賞、76年神戸市文化賞をそれぞれ受賞。また75年8月には二紀会理事となる。77年4月夫妻でフランスを来訪。この頃より風景や日常の生活の様子を描いた「棲まう」と題した作品が描かれはじめる。80年10月第34回二紀展へ「棲う(帰途)」「棲う(トルテヤを造る女達)」を出品、菊華賞受賞。87年5月同会常任理事となる。80年代半ば頃より、画面が明るく華やかになり、「天の調」(1984年、第38回二紀展)など天空世界を意識した作品が表れはじめる。さらに90年代に入ると、「花歩星歩」(92年、第46回展)など、人物を主体としつつ、「花」や「華」をタイトルにつけた作品が多く描かれるようになる。1992(平成4)年第46回神戸新聞社平和賞。同年11月文化庁地域文化功労者。94年12月には回顧展「中西勝の世界展」(池田20世紀美術館)が開催された。翌95年1月阪神・淡路大震災にて罹災。余震の続く中で制作された「楽隊がやって来た(1.17)」(1995年)は、もともと楽しげな作品として描かれはじめたものであったが、震災に対する不安から、完成作は暗く不気味な画面となった。他方復興募金のためにテレホンカードの原画を描き、緊急支援組織アート・エイド・神戸に副委員長として参加、また兵庫二紀の仲間たちとともに巨大な壁画を制作するなど、復興へ向けて積極的に活動した。2009年「中西勝展」(神戸市立小磯記念美術館)開催。13年二紀会名誉会員となり、15年10月第69回二紀展へ「華まばたき」が出品された。

加藤昭男

没年月日:2015/04/30

 陶による立体造形を追及し続けた彫刻家加藤昭男は前立腺がんのため30日に死去した。享年87。 1927(昭和2)年6月16日愛知県瀬戸市朝日町に生まれる。父鶴一は陶土採掘・販売を本業とする一方、華仙と号して帝展・新文展に出品していた。また、画家北川民次は岳父に当たる。40年3月に瀬戸市立深川尋常小学校を卒業し、同年4月に愛知県立窯業学校(現、県立窯業高校)に入学。絵画を佃政道、彫刻を橋爪英夫に学ぶ。42年からアジア太平洋戦争の戦況悪化のため勤労動員され、農作業や工場へ勤務。45年陶芸家田沼起八郎に石膏デッサンの指導を受ける。同年3月愛知県立窯業学校を卒業。4月に京都工業専門学校(現:京都工芸繊維大学)に入学。48年3月京都工業専門学校を卒業。4月に上京して蕨画塾に入り、寺内萬治郎らに師事する。49年4月東京藝術大学に入学。戦前にパリでシャルル・デスピオに師事して帰国した菊池一雄教室に入る。当時、同校ではマイヨールに師事した山本豊市や菅原安男、伊藤傀らが教鞭を取っており、彼らにも学ぶところがあった。52年第16回新制作協会展に「立像」(石膏)で初入選。以後同展に出品を続ける。53年東京藝術大学彫刻科を卒業し、同学専攻科に入学。在学中に安宅賞を受賞。55年東京藝術大学彫刻専攻科を修了し、同学副手となる。同年第19回新制作協会展に「トルソ」(石膏)を出品して新作家賞を受賞。翌年第20回同展に「女」(石膏)を出品して再度新作家賞受賞。57年東京藝術大学副手を退任。この頃からテラコッタ制作を始める。58年第22回新制作協会展に「トルソA」(ブロンズ)、「トルソB」(ブロンズ)、「RONDE」(石膏)を出品し、同会会員に推挙される。62年第5回現代日本美術展に人体を簡略化したフォルムでとらえた「立像」を出品。50年代後半から欧米の抽象彫刻が日本に紹介され始める中で、制作の方向について模索が続いたが、60年代半ばから人間と自然との関わりを主題とし、陶土の粘性と量塊性を活かした具象彫刻に主軸を定める。また、セメントやポリエステルなどの新素材による制作や野外彫刻を試みるようになる。69年から74年まで東海大学芸術研究所の教授をつとめる。73年第1回彫刻の森美術館大賞展に「焔と土」(テラコッタ・木、72年第36回新制作協会展出品作)が入選。74年6月、「母と子」で第2回長野市野外彫刻賞受賞、また同年8月、鳥に導かれて浮遊する仰臥した女性像を表した「月に飛ぶ」(ブロンズ)で第5回中原悌二郎賞優秀賞を受賞。75年第2回彫刻の森美術館大賞展に「月に飛ぶ」(ブロンズ、第38回新制作協会展出品作)が入選。同年日本画家平山郁夫らと中国旅行。77年第3回彫刻の森大賞展に「五月の風」(第39回新制作展出品作)が入選。80年渡欧し、フランス、スイス、イタリア、ギリシャ等を巡る。82年第2回高村光太郎大賞展に両腕を大きく広げた人物の上半身とその手から飛び立つ一羽の鳩を表した「鳩を放つ」(ブロンズ)を招待出品し優秀賞を受賞。83年第1回東京野外現代彫刻展に「野原の休息」(ブロンズ)を出品して大衆賞を受賞。同年武蔵野美術大学教授となる。86年第2回東京野外現代彫刻展に「大地」(ブロンズ)を出品して大衆賞を受賞。87年フランスに渡り、ロマネスク美術を中心に研究した。1994(平成6)年、「何処へ」(ブロンズ)で第25回中原悌二郎賞を受賞。97年3月現代彫刻センターで「加藤昭男展」、同年9月、武蔵野美術大学美術資料図書館において「武蔵野美術大学教授退任記念 加藤昭男彫刻展」が開催された。翌年3月定年退職し、同名誉教授となった。年譜は退官記念展図録に詳しい。99年新宿パークタワーにて「加藤昭男個展」を開催、2000年には第5回倉吉・緑の彫刻賞受賞。01年に旭川市彫刻美術館で「加藤昭男個展」を開催。02年、江戸時代の仏師円空の生地である岐阜県が主催し、風土と国際性、自然との関わりなどを視点として選考する第2回円空大賞を受賞した。最初期に当たる50年代には量感のある人体像を制作し、その後一時期抽象表現を取り入れたが、60年代半ばから自然と人との関わりを陶土で表現することを追及し続け、大地から土の塊が盛り上がってかたちとなるような作品を多く残した。

オチオサム

没年月日:2015/04/26

 福岡を拠点に結成された前衛美術集団「九州派」の創立メンバーとして知られる前衛画家のオチオサムは4月26日、急性心筋梗塞のため福岡県小郡市で死去した。享年79。 1936(昭和11)年、佐賀県佐賀市生まれ。本名は越智靖=おち・おさむ。母親は日本人形の人形師。私立龍谷学園高等部在学中に油絵を始め、日展、独立展、二科展を福岡のデパートでみる。54年3月、同校卒業。55年、精版印刷に入社、作業工程においてのちの作品素材となるアスファルトを見出す。同年9月、第40回二科展に初出品、「花火の好きな子供」「マンボの好きな子供」が入選、第九室に展示。56年7月、二科展九室会メンバーによるグループ展「九人展」(サトウ画廊)に「シグナル」出品。同年8月、福岡市の喫茶ばんじろうで開催された二科展激励会で桜井と知遇を得、親交が始まる。同年11月、福岡県庁西側大通り壁面にて行われた街頭詩画展「ペルソナ展」に出品。57年2月、第9回読売アンデパンダン展に「サカダチした野郎」「色のハゲたもの」「ヤツテシマツタ」を初出品。同年6月、第8回西日本美術展(福岡玉屋)に「ミズト水トミズ」を出品。同年7月、福岡市の西日本新聞社会議室で「九州派」結成集会を開催。同年8月にグループQ18人展を開催(九州派の旗揚げ展)。以後68年まで九州派に参加し、俣野衛、桜井、石橋泰幸とともにその中核メンバーとして活動した。59年、菊畑茂久馬、山内重太郎と洞窟派を結成、60年5月、洞窟派展(東京、銀座画廊)に「出張大将」を出品。同年5月、中原佑介の選抜によりサトウ画廊で初個展を開催。61年4月、現代美術の実験(東京、国立近代美術館)に「作品I-V」を出品。66年に渡米、69年に帰国、その間にサンフランシスコで数度、九州派の展覧会を開催。70年2月、九州ルネッサンス・英雄たちの祭典(福岡市、博多プレイランド)に美術担当で参加、オチの結婚披露宴パーティを挙行。同年3月第4回九州・現代美術の動向展(福岡県文化会館)に出品(翌年第5回展にも出品)。同年10月、福岡県文化会館美術館で個展を開催(別室で桜井の個展が同時開催)。74年2月、九州現代美術「幻想と情念」展(福岡県文化会館)に出品。79年3月、第22回安井賞に「球の遊泳I」を出品。80年11月、福岡市美術館開館1周年 アジア美術展第2部アジア現代美術展(福岡市美術館)に出品。76年から福岡市中心に、北九州市、佐賀市、大阪市、名古屋市などで多く個展を開催。「1960年代―現代美術の転換点」(東京国立近代美術館、1981年)、「九州派展―反芸術プロジェクト」(福岡市美術館、1988年)、「桜井孝身/オチ・オサム/石橋泰幸―九州派黎明期を支えた3人の画家」(福岡市美術館、常設展示、2014年)などの企画展に出品。アスファルトなどの表現手段の実験、徹底した生活者の意識に根ざしたダダ的作品、オブジェへの展開、特異なミニマリズムへの接近などに見られるように、九州派的な作品の実験を先導した重要な作家のひとりと評される。没後、2015年10月、88年以来の九州派の回顧展、「九州派展―戦後の福岡に産声をあげた、奇跡の前衛集団、その歴史を再訪する。」(福岡市美術館)が開催、これに合わせて福岡市美術館叢書6として『九州派大全』(企画・監修=福岡市美術館、発売=グラムブックス)が刊行された。また福岡市美術館学芸員山口洋三が、2009年11月にオチのオーラルヒストリーを行い、その内容は日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴのサイトで公開された。

小島功

没年月日:2015/04/14

 漫画家の小島功は、4月14日脳出血のため東京都港区内の病院で死去した。享年87。 1928(昭和3)年3月3日東京府東京市下谷区(現、台東区)に生まれる。本名功(いさお)。家は洋服仕立業。西尾久小学校卒業。小学校時代、図画の教員にデッサンの大切さを説かれた。16歳頃から画家を志し、川端画学校に学び、戦時中は夜間に太平洋美術学校に通った。先輩に加藤芳郎がおり、異なる作風を模索する。『小国民朝日』、『科学グラフ』や漫画投稿欄のある雑誌に投稿を頻繁に行なう。女性像に定評があった杉浦幸雄の作風に影響を受ける。小島のマンガは大人向けであり、一コマないしは1頁が基本、線描でみせる。47年、久里洋二、長新太らと独立漫画派を結成。48年創刊の『新漫画』に1コマ漫画を描く。鼻筋がとおり、顎がすっきりとしたグラマーな女性像は「昭和の美人画」の一例として大衆的な人気を獲得、乾いたエロチシズムを醸し出している。56年久里洋二、針すなおらと同人誌『がんま』発行。同年10月より8コマ漫画「仙人部落」を『週刊アサヒ芸能』に連載、59年間2681回におよんだ代表作となる。週刊誌を舞台に活躍、「俺たちゃライバルだ!」『週刊漫画サンデー』(1960年から連載)、「あひるヶ丘77」『週刊サンケイ』(1960年から連載)、「うちのヨメはん」『週刊現代』(1966年から連載)と60年代に人気が定着する。60年『週刊漫画サンデー』の表紙画を手がける。64年日本漫画家協会設立に参加。65年からは日本テレビ放送網の深夜番組「11PM」にレギュラー出演、また同時期東京12チャンネル(現、テレビ東京)の「朝日新聞・ワイドニュース」のコメンテーターとなる。68年「日本のかあちゃん」(『週刊漫画サンデー』)で第14回文藝春秋漫画賞受賞。73年加藤芳郎とマンガ専門誌『ユーモリスト』を発行。74年河童のキャラクターで知られる日本酒の黄桜の広告を清水昆より引き継ぐ。70年代の代表作として「ヒゲとボイン」『ビックコミックオリジナル』(1974年から連載)がある。80年『朝日新聞』に政治漫画を連載。1990(平成2)年紫綬褒章受章。92年日本漫画家協会理事長に就任(2000年まで)。2000年勲四等旭日小綬章受章。2010年漫画家協会名誉会長に就任。作品集に『小島功美女画集画業六〇年 喜寿記念』(青林堂、2005年)があり、「仙人部落」はアニメ化されDVDがでている。

樋口隆康

没年月日:2015/04/02

 考古学者。京都大学教授、泉屋博古館館長、奈良県立橿原考古学研究所所長、シルクロード学研究センター長、財団法人京都府埋蔵文化財調査研究センター理事長、斑鳩町文化財活用センター長などを歴任した樋口隆康は、京都薬師山病院にて4月2日老衰のため死去した。享年95。 1919(大正8)年6月1日、福岡県田川郡添田町に生まれる。第一高等学校文科甲類卒業後、1941(昭和16)年に京都帝国大学文学部史学科に進学し、考古学を専攻した。43年に京都大学大学院に進むが、徴兵され海軍予備学生として土浦海軍航空隊に入隊する。終戦後の45年10月に大学院に復学し、京都大学の故梅原末治教授の副手となる。その後、83年4月に京都大学を退官するまで、助教授(1957年就任)、教授(1975年就任)職などを務めた。 京都大学退官後は、泉屋博古館館長および名誉館長(1983~2015年)を務め、また奈良県立橿原考古学研究所所長(1989年~2008年)、シルクロード学研究センター長(1993~2008年)、斑鳩町文化財活用センター長(2010~15年)などの役職を歴任した。 ユーラシア大陸全般にわたる研究を提唱し、研究テーマは多岐におよんだ。日本国内では、魏が卑弥呼に下賜したとされる三角縁神獣鏡が多数出土したことで有名な京都府椿井大塚山古墳や奈良県黒塚古墳の発掘調査に携わり、古墳時代や邪馬台国の研究に大きく貢献した。 海外では、57年に、訪中考古学視察団の一員として、日本人考古学者として戦後初めて敦煌石窟などを調査した。58年には、京都大学インド仏蹟調査隊のメンバーとして聖地ブッダガヤを調査し、62年にはガンダーラ仏教寺院址の発掘調査に参加した。70年からは、京都大学中央アジア学術調査隊を率い、アフガニスタン、バーミヤーン遺跡の仏教石窟群の調査を行った。また、90年から2004年にかけては、シルクロードの隊商都市であるシリアのパルミラ遺跡の発掘調査を指揮した。 また、作家の司馬遼太郎や井上靖、陳舜臣、考古学者の江上波夫などともにNHK特集「シルクロード」の番組製作に参加し、日本中にシルクロード・ブームを巻き起こした。 死後、15年5月8日に、従四位、瑞宝小綬章を受章している。 著書に『古代中国を発掘する―馬王堆、満城他―』(新潮選書、1975年)、『バーミヤーン:京都大学中央アジア学術調査報告1-4』(共著、同朋舎出版、1983-84年)、『ガンダーラの美神と仏たち―その源流と本質』(NHKブックス、1986年)、『始皇帝を掘る』(学生社、1996年)、『三角縁神獣鏡と邪馬台国』(共著、梓書院、1997年)、『シルクロードから黒塚の鏡まで』(学生社、1999年)、『アフガニスタン遺跡と秘宝-文明の十字路の五千年』(NHK出版、2003年)など多数。

田辺光彰

没年月日:2015/03/30

 彫刻家の田辺光彰は3月30日、肺炎のため死去した。享年76。 1939(昭和14)年2月15日神奈川県に生まれる。61年多摩美術大学彫刻科卒業。翌年アメリカの彫刻家イサム・ノグチの知遇を得て強烈な影響を受け、以後数年間は石膏による作品模型を数多く制作する。68年から75年にかけて断続的に世界50カ国を巡り、広く異文化に接する。その間69年より横浜市北部近郊に「山内によする」と題する野外作品の制作に取り組み、76年に完成。78年ギャラリー・オカベで初個展開催。79年第1回ヘンリー・ムーア大賞展で「混在(あ)」がジャコモ・マンズー特別優秀賞受賞。80年第7回神戸須磨離宮公園現代彫刻展で「混在(内部・あ・外部)」が宇部市野外彫刻美術館賞受賞。81年には第2回ヘンリー・ムーア大賞展で「混在(内部・あ)」が優秀賞を受賞。81~83年に佐久市立近代美術館前庭に高さ40mの筒状の風導塔と、地下を通じて塔と連結する長さ20mの回廊、及びこの回廊を貫通する70mの遊歩道からなる「さく」を制作。86~87年にはソウルオリンピック関連事業として、韓国国立現代美術館より委嘱され「SEOUL・籾・熱伝導」を制作する。この頃より環境破壊への警鐘となるモティーフとして野生稲に注目、1992(平成4)年には農学者の佐藤洋一郎と野生稲自生地保全の運動をはじめ、稲籾をテーマとした制作やプロジェクトを国内外で行なう。99年に神奈川県民ホールで開かれた「田辺光彰展」では籾と共生するヘビやトカゲ、ムカデ等の動物のモティーフが登場。2006年にはオーストラリア、クイーンズランド州のマリーバ湿地帯にステンレス・スチール圧延板製の巨大なトカゲ像(長さ19m、重さ11t)である「KADIMAKARA(爬虫類・MOMI-2006)」を設置する。08年にはローマの国連食糧農業機関(FAO)本部、09年北極のスヴァールバル全地球種子庫にも作品を設置。彫刻が、単に展覧会の出品作として語られるのではなく、社会の精神的なモニュメントとしての存在であることを、制作を通して実証し続けた。11年に『田辺光彰』(野村太郎編著、八坂書房)が刊行。2014年に横浜市に開設した日吉の森庭園美術館に田辺光彰美術館がある。

頼富本宏

没年月日:2015/03/30

 密教学・密教美術研究を専門とし、ことにインド・チベット・中国の密教遺跡と遺品の調査研究に数多くの業績を残した頼富本宏は3月30日午後9時31分 膵臓がんのため死去した。享年69。翌日、真言宗より「大僧正」を追贈。葬儀は近親者で密葬を執り行い、本葬を4月29日に神戸市内の本願寺神戸別院で営んだ。 1945(昭和20)年4月14日、本信・房子の長男として香川県に大川郡大川町に生まれる。幼名は本宏(もとひろ)。神戸・實相寺開山で第一世住職であった父を師僧とした。59年7月、同寺において得度。64年3月兵庫県立神戸高等学校を卒業後、4月より京都大学文学部に入学し勉学に勤しむ傍ら、5月には東寺真言宗より度牒を得る。66年8月には淡路・万福寺にて4ヶ月に及んだ四度加行を成満する。68年3月、京都大学文学部(仏教学専攻)を卒業、4月より同大学大学院文学研究科修士課程(仏教学)に進学するとともに、12月21日には京都・醍醐寺に於いて伝法灌頂入壇(三宝院流憲深方)を果たす。70年修士課程修了のち、そのまま同大学大学院博士課程(仏教学)に進学。73年3月単位取得満期退学。4月より種智院大学仏教学部専任講師となる。76年4月同学部助教授に就任するとともに、日本密教学会理事となる。この頃より本格的に密教美術に及んだ論文を執筆することを心がけ、当初は「ラマ教」関係に留まったが、80年代以降、日本を見据えての東アジアにおける密教の伝播・受容に関する研究へと視野を拡大してゆく。82年7月インドに現存する密教遺跡・遺品の研究で朝日学術奨励賞を受賞。10月より密教図像学会常任委員となる。83年10月に實相寺住職(第二世)を継職。87年12月より仏教史学会評議員となる。翌88年3月京都大学より文学博士の学位を得る。1992(平成4)年4月種智院大学仏教学部長に就任するとともに、日本仏教学会理事、日本印度学仏教学会理事となる。95年10月密教学芸賞を受賞。97年10月密教図像学会副会長となる。98年3月種智院大学の職を辞し、4月より国際日本文化研究センター研究部教授に就任するとともに、総合研究大学院大学文化科学研究科教授、種智院大学の客員教授を兼務する(いずれも2002年3月まで)。99年4月には国際日本文化研究センター評議員となる。2002年4月種智院大学第十代学長に就任、日本私立大学協会評議員となる。04年4月より人間文化研究機構国際日本文化研究センター運営委員となる。08年「権僧正」補任。10年3月に種智院大学長を退き、同大学の名誉教授の称号を得る。この間、京都所在の大学を中心に非常勤講師(集中も含む)として関西大学(1976~78、95~97年)、京都大学(1979~81、90~92年)、大谷大学(1979~81、91~93、00~01年)、龍谷大学(1994~2001年)、同短期大学部(1987~99年)、佛教大学(1992~93年)、岡山大学(同)、金沢大学(1993~94年)などに出講した。 頼富は文字通り密教学僧であり、インドから日本に及ぶアジアの密教文化・密教美術の研究としては泰斗的な存在であった。その性格は非常に温厚・篤実であり、腰の低い人柄は諸方面より慕われ人望が厚かった。生涯の業績において特筆されるのは佐和隆研(1983年没)の遺志を継ぎ、以来、約30年にわたって密教図像学会の発展に尽力し、佐和隆研博士学術奨励賞の維持に努め、門戸を開いて後身研究者の育成を目指すとともに、同学会の行く末・発展に最期まで腐心した点にある。著書・論文は仏教哲学、密教文化に及んで専門的なものから一般啓蒙書まで多岐に及ぶが、美術に関わるものに限定して単独で発表した代表的なものをあげるならば、単著に『庶民のほとけ―観音・地蔵・不動―』(日本放送協会、1984年)、『マンダラの仏たち』(東京美術、1985年)、『密教仏の研究』(法蔵館、1990年)、『曼荼羅の鑑賞基礎知識』(至文堂、1991年)、『マンダラ講話』(朱鷺書房、1996年)、『密教とマンダラ(NHKライブラリー)』(NHK出版、2003年)、『すぐわかるマンダラの仏たち』(東京美術、2004年)がある。主要論文については、『頼富本宏博士還暦記念論文集 マンダラの諸相と文化』上(法蔵館、2005年)所載の「頼富本宏博士略歴・業績目録」を参照されたい。このほかNHKメディアを活用し、市民大学「密教とマンダラ」(1963年放送)、人間講座「空海―平安のマルチ文化人―」(2015年)、BS夢の美術館「アジア仏の美100選」(2017年)等に講師として出演し知名度を上げるとともに、ともすれば深淵難解と敬遠されがちな密教教学と文化をわかりやすく一般に説いた。

渡邊明義

没年月日:2015/03/30

 美術史家で文化財保護行政にも多年にわたり貢献した渡邊明義は、3月30日、横行結腸がんのため死去した。享年79。 1935(昭和10)年、8月4日栃木県氏家町(現、さくら市)に生まれる。48年宇都宮市立中央小学校卒、51年宇都宮市立旭中学校卒、54年宇都宮高等学校卒。62年東京藝術大学美術学部専攻科修了(芸術学専攻)。同年、文部省文化財保護委員会美術工芸課に採用される。以後長く現文化庁に席を置き、文化庁美術工芸課絵画部門主任調査官を経て、1989(平成元)年、文化庁文化財保護部美術工芸課長。92年東京国立博物館学芸部長。94年文化庁文化財保護部文化財監査官。96年東京国立文化財研究所長、2001年独立行政法人文化財研究所理事長を経て、04年東京文化財研究所長を辞し、同年公益財団法人平山郁夫シルクロード美術館顧問(後に理事)。08年一般財団法人世界紙文化遺産支援財団紙守を設立。その代表理事となる。 美術史家としての専門は中国及び日本の中世絵画史で、鈴木敬の影響が大きかった。論文に「倪雲林年譜(上)(下)」『国華』829・830(1961年)、「伝夏珪筆山水図について―夏珪画に関する二三のノート―」『国華』931(1971年)、「張路筆 漁夫図」『国華』981(1975年)をはじめとする多数の論文のほか、『瀟湘八景図』日本の美術124(至文堂、1976年)、『水墨画 雪舟とその流派』日本の美術335(至文堂、1994年)、『水墨画の鑑賞基礎知識』(至文堂、1997年)等の著書がある。 文化財保護委員会から文化庁にわたり長年を過ごし、絵画の修理担当を長年勤めて指導的立場に立つようになり、それまでの古典的な修理方から、現在では当然となって引きつがれている地色補彩のあり方、乾式肌上げ法等、修理技術者と密な関係を保ちつつ、近代的な修理の方法論と哲学を築き上げた功績は大である。一方で国宝修理装〓師連盟の資格制度導入と国際的活動拠点化の糸口を作った。神護寺像「伝源頼朝像」ほか三幅、東寺蔵「伝真言院曼荼羅」をはじめ、多数の重要な修理にたずさわった。その中で絵画の素材、技法などを含む装〓について研究を積んだ。『古代絵画の技術』日本の美術401(至文堂、1999年)等の著書のほか、『装〓史』(国宝修理装〓師連盟編、2011年)で全9章のうち5章を担当した部分は、装〓の歴史をも含めた該博な長年の経験と知識に裏付けられた貴重な著作といえよう。 また、72年の高松塚古墳壁画の発見にともない、その保存対策を文化庁にあって三輪嘉六(元九州国立博物館長)らとともに実質的に担ったことも大きな出来事であった。各国から専門家を招き、「高松塚古墳応急保存対策調査会」を組織してさまざまな意見がある中で現地保存の方針をかため、保存施設を構築し、壁画の手当を東京国立文化財研究所とともに手さぐりで行わなければならない、それまでに例のない難事業であった。保存施設は当時にあって能う限りのものであり、完成、引き渡しの当日、渡邊は前日から作業小屋に泊まり、帰途、涙したと述懐している。保存対策の経緯は後に『国宝高松塚古墳壁画―保存と修理』(文化庁、1987年)に子細に報告されているが、渡邊は同書のいくつかの項目を担当した上で、中心となってこれを編集した。施設内では時折カビの発生がみられ、ことに白虎の描線が薄れるということがあった。その後落ち着きがみられたものの、2001年、保存施設と石室を連結する「取合部」の剥落止め工事を契機に再びカビが大量発生し、また虫類の侵入が顕著になったことを受けて、「国宝高松塚古墳壁画恒久保存対策検討会」が文化庁に設けられ、その座長を務めた。後に高松塚古墳壁画は結局石室ごと取り出され、保存修理が行なわれることとなったが、生前叙勲を辞退したことには、壁画を守りきれなかった思いがあったと推測され、その真摯な人柄を物語る。 東京国立文化財研究所の改築、独立行政法人化にあたってもその長として責務を果たした。また、日米経済摩擦の最中の90年、平山郁夫東京藝術大学長(当時)が海外に保管されている我が国の美術工芸品の修理を官民協力で援助する事業を提唱し、文化庁側の担当としてこの事業を担い、これを期に平山郁夫との親交を得た。さらにユネスコのアフガニスタン復興会議で我が国が名乗りを挙げたバーミアンの仏教遺跡の保存事業を東京文化財研究所事業として率先して引き受け、戦争により被害を受けた文化相の調査と専門家養成事業を行ない、文化財保護の国際的協力体制の足掛かりを作った。 他に文化庁文化財調査会文化財文化会長、ユネスコ日本国内委員会委員、芸術文化振興基金運営委員、公益財団法人文化財保護・藝術研究助成財団評議員、一般社団法人国宝修理装〓師連盟顧問等をつとめ、熊野古道の世界遺産化のとりまとめ等の重責を果たし、『「地域と文化財」ボランティア活動と文化財』(勉誠出版、2013年)の編者となるなど、晩年まで活躍した。没する数か月前に文化庁主催の講習会に病身を押して車椅子で「装〓史」の講義を行なうなど、身体的には必ずしも頑健ではなかったにもかかわらず終生精力的であった。 没後の2015年9月5日、東京プリンスホテルにて「渡邊明義さんを偲ぶ会」が催され、大多数の出席をみた。照会先―東京都中央区日本橋本町4-7-1 三恵日本橋ビル2階 一般財団法人 世界紙文化遺産支援財団 紙守

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