本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)





大蔵雄夫

没年月日:1946/01/24

美術評論家大蔵雄夫は1月24日死去した。享年60才。号風明。明治20年石川県に生れ44年東京美術学校彫刻本科を卒業したが、実技家として立たず彫刻専門の批評家として活動、主として雑誌「美の国」「日本美術」「美術新報」へ寄稿していた。

相田直彦

没年月日:1946/01/23

日本水彩画会、白日会々員相田直彦は1月23日疎開先の熊本県堀尾芳人方で逝去した。享年59。明治21年会津若松市に生れ、太平洋画会・日本水彩画会研究所に学んだ。帝展推薦・文展無鑑査・二部会々員等を経、水彩画会で活躍していた

靉光

没年月日:1946/01/19

前衛絵画運動の中で得意な画風を持つていた美術文化協会々員靉光は1月19日上海に於て戦病死した。享年40。本名を石村日郎、画名を靉川光郎、靉光といい、明治40年広島県に生れた。大正14年頃より太平洋画会研究所に学び、二科会、1930年協会、独立美術協会等に出品、昭和15年に美術文化協会、同17年に新人画会結成後は主要メンバーとして活躍した。始めは明朗な画風を持つていたが、次第に幻怪なものとなつて行つた。代表作に「ライオン」「目のある風景」「牡牛」「黒い蝶」「自画像」等がある。

仲田勝之助

没年月日:1945/12/25

美術評論家仲田勝之助は12月25日狭心症で逝去した。享年60。明治19年東京に生れ、早大英文科卒業後、読売新聞及び朝日新聞の記者として活躍した。

清水登之

没年月日:1945/12/07

独立美術協会会員清水登之は12月7日栃木市外国府村大塚の自宅で逝去した。享年59。明治29年栃木県に生れ、39年中学を卒え、翌年渡米、シヤトル市に於て和蘭画家Fokko Tadamaに師事した。大正6年より7年間ニューヨーク市に滞在、その間National Academy of Design, Art Student Leagueに学び、大正14年には渡欧して、パリー・マドリッドをはじめ欧洲各国を見学し、パリ―にあつてはサロンやアンデパンダン等に出品した。昭和2年帰朝の後は二科展に出品、3年は「大麻収穫」、4年には「父の庭」で樗牛賞を受け、翌年「地に憩ふ」により二科賞を受けた。その年同志14名と共に独立美術協会を創立し同会々員となり、以後これを舞台に近代的な写実画風で活躍したが、独立展出品作は次の如くである。昭和6年 「池畔」昭和7年 「陶土の丘」昭和8年 「丘に憩ふ」昭和9年 「山に行く」昭和10年 「裸婦」昭和11年 「鳥・巣」昭和12年 「踊る水母」昭和13年 「江南戦跡」昭和14年 「江南戦場俯観」昭和15年 「平和」昭和16年 「難民群」昭和17年 「南国海辺」昭和18年 「南方地下資源」「人柱」

赤井龍民

没年月日:1945/12/01

日本画家赤井龍民は12月1日北海道の旅先にて客死した。享年48。名は義一、明治31年兵庫県に生れ、大正7年入洛して菊池契月の門下となり、大正11年第4回帝展に「乳搾る家」が初入選し、第7回帝展に「島影暮韻」入選、その後数度入選していた。

三木宗策

没年月日:1945/11/28

旧帝展、文展審査員、正統木彫家協会々員三木宗策は、昭和20年11月28日疎開先の福島県郡山市で没した。享年54歳。明治24年福島県に生れ、16歳の時上京して山本瑞雲の門に入り、木彫を学んだ。大正5年第10回文展に「ながれ」を出品して入選したのをはじめ、文、帝展に出品し、同14年第6回帝展出品の「不動」は特選となり、昭和2年帝展委員に選ばれ、同7年帝展審査員、同13年新文展審査員に挙げられた。この間、昭和6年内藤伸、沢田晴広等と日本木彫会を結成して毎年東京および大阪で展覧会を開催したが、同15年日本木彫会から分離して正統木彫家協会を起し、毎年展覧会を開いた。伝統的な木彫に写実的手法を加え、新作風を企てつつあつたが、中途に倒れたことは惜しまれる。略年譜明治24年 福島県郡山市に生る。明治39年 東京に出て山本瑞雲に師事し木彫を学ぶ。大正5年 第10回文展に「ながれ」初入選。大正6年 第11回文展に「美しき星の一つに」出品。大正7年 第12回文展に「若き日のなやみ」出品。大正9年 第2回帝展に「愛染」出品。大正10年 第3回帝展に「大風歌」出品。大正11年 第4回帝展に「日本武尊」出品。大正13年 第5回帝展に「威容抱慈」出品。大正14年 第6回帝展に「不動」出品、特選を受く。大正15年 第7回帝展に「降誕」無鑑査出品。昭和2年 帝展委員となる。第8回帝展に「かやのひめの神」無鑑査出品。昭和3年 第9回帝展に「円」無鑑査出品。昭和4年 第10回帝展に「西王母」無鑑査出品。昭和5年 第11回帝展に「矜羯羅童子」無鑑査出品。昭和6年 内藤伸、佐々木大樹、三国慶一、沢田晴広らと日本木彫会を結成す。第12回帝展に「万象授生」無鑑査出品。昭和7年 第13回帝展に審査員となり「制多伽童子」を出品。昭和8年 第14回帝展に「銀河惜乱」無鑑査出品。昭和9年 第15回帝展に「羅馬少年使節」無鑑査出品。昭和11年 文展に「丹花綻ぶ」を招待出品。昭和12年 第1回文展に「国威発揚」を招待出品。昭和13年 第2回文展に審査員となり「粧ひ」を出品。昭和14年 第3回文展に「空海」を招待出品。昭和15年 日本木彫会から分離し沢田晴広らと正統木彫家協会を設立し、毎年展覧会を開く。昭和13年 広島県瀬戸多島耕三寺に七観音を製作(昭和16年完成)。昭和19年 戦時特別展に「北条時宗像」を出品。昭和20年 福島県郡山市で永眠。

飛田周山

没年月日:1945/11/22

旧帝展審査員飛田周山は11月22日逝去した。享年69。本名正雄。明治10年茨城県に生れ、20歳の時から久保田米僊に学び、後竹内栖鳳に学び、更に前期日本美術院研究科に入り、傍、橋本雅邦に師事した。39年文部省より国定教科書の挿絵を嘱託されてから昭和16年まで従事した。大正元年第6回文展に「天女の巻」を出し褒状を受け、第9回文展に「星合のそら」を出し再び褒状を受け、爾来毎回出品し特選を受ける事2回に及び、大正9年第2回帝展に「文殊菩薩」を出しこの年から無鑑査出品となつた。第6回帝展以来審査委員となり、改組文展になつてからも出品を続け、一方日本画院にも属して作品を発表していた。略年譜明治10年 2月26日茨城県多賀郡に生る明治29年 久保田米僊につく明治30年 竹内栖鳳につく明治33年 日本美術院研究科に入り、橋本雅邦につく明治39年 文部省より国定教科書挿絵揮毫を依嘱さる、昭和16年まで継続す明治40年 文展第1回「維摩」入選大正元年 文展第6回「天女の巻」褒状大正4年 文展第9回「星合のそら」褒状大正5年 文展第10回「わたつみの宮」大正6年 文展第11回「幽居の秋」特選大正7年 文展第12回「崑崙之仙窟」無鑑査大正8年 帝展1回「神泉」特選大正9年 帝展2回「文殊菩薩」無鑑査大正10年 帝展3回「伝説の淵」、帝展推薦となる大正11年 平和記念博覧会「残燈」大正14年 帝展6回「天の真名井」、帝展委員となる大正15年 帝展7回「業火」「更生」「慈光」、帝展委員となる昭和3年 帝展9回「山月滞雨」帝展審査員となる昭和4年 中国に出張す昭和5年 伯林日本画展「月天」「騰竜」、帝展11回「澹雲籠月」、朝鮮美術審査員となる昭和7年 帝展13回「暁日」昭和9年 帝展15回「明暉」昭和10年 帝国美術院指定となる、文展(招待展)「暁山雲」昭和12年 文展第2回「白雲巻舒」昭和13年 文展第3回「降魔」昭和16年 文展第5回「敵国降伏」昭和17年 文展第6回「洽光威八荒」昭和18年 朝鮮美術審査員となる昭和20年 11月22日没

大久保百合子

没年月日:1945/10/30

朱葉会々員、鬼面社同人大久保百合子は10月30日逝去した。享年42。明治37年千葉県山武郡に生れ、大正10年青山女学院卒業、後、大正13年油絵研究の為渡仏、巴里に3ヶ年留学ゲーラン研究所に学んだ。昭和2年帰国後は帝展文展へ出品、無鑑査となつた。洋画家大久保作次郎の夫人で鬼面社同人、朱葉会々員としても活躍した。

太田正雄

没年月日:1945/10/15

木下杢太郎のペンネームを以て知られた東京帝国大学医学部教授太田正雄は10月15日胃癌のため東大病院に於て没した。享年61。明治18年静岡県に生れ、同31年上京独乙協会中学校に入学し、傍ら三宅克己に学んだ。第一高等学校を終え、独逸文学科を志望したが、家人の許すところとならず、東京帝国大学医学部に入学した。此頃より黒田清輝に師事し、又与謝野寛の新詩社に入り、或は北原白秋等とパンの会を興し、詩、戯曲等を創作し、又南蛮趣味に感興をひかれるに至つた。明治44年業を終え、東大医学部に勤務しつつ多くの創作、翻訳を遂げた。大正5年満洲に赴任して以来、中国芸術に興味を覚え、雲崗、大同、太原、洛陽等の古蹟を巡歴した。大正10年専門の皮膚科学研究のため渡欧、同13年迄主として巴里に留まつて欧洲芸術を研究し、又吉利支丹関係の文献、遺品を渉猟し、独逸、伊太利、埃及等を巡遊した。大正13年公立愛知医科大学教授次で15年東北帝国大学教授を歴任し、昭和12年東京帝国大学教授となり、逝去に至る迄その職に在つた。その文芸、美術の方面に遺した業績は極めて多方面にわたるが、翻訳による印象派以後の西洋美術の紹介、或は日本初期洋風画への文献的貢献は著しい。この特異の芸術愛好家を失つたことは惜しまれる。略年譜明治18年 8月1日静岡県にて太田惣五郎三男として生る明治31年 上京し独逸協会中学校に入る、三宅克己に絵画を学ぶ。明治36年 第一高等学校第三部に入学明治39年 東京帝国大学医科入学、与謝野寛新詩社に入り新体詩を創りはじむ、独逸文芸及美術関係書を読む、森鴎外の知遇を受け、又黒田清輝に絵を学ぶ明治41年 新詩社脱退、北原白秋、長田秀雄、吉井勇、石井柏亭等とパンの会を起す、「スバル」「方寸」等に寄稿す、「きしのあかしや」のペンネームにて作詩明治42年 「屋上庭園」創刊、白秋と共に頽唐派詩人の双璧をなす、北原、長田、吉井、平野の同志と長崎、島原方面へ旅行、南蛮趣味へ傾倒す、この頃より木下杢太郎のペンネームを用い始む明治44年 東京帝大医科を卒業、同大学衛生学教室研究生となる。明治45年 同大学皮膚科副手を嘱託さる、第一戯曲集「和泉屋染物店」東雲堂より出版大正3年 「南蛮寺門前」(戯曲集)春陽堂より出版大正4年 「唐草草紙」(小説集)正雄堂より出版、「穀倉」(現代名作集16)鈴木三重吉方より出版大正5年 南満洲鉄道会社南満医学堂教授として赴任、「印象派以後」(芸術論集)日本美術院より出版大正6年 建築家河合浩蔵娘正子と結婚大正8年 「食後の唄」(詩集)アララギ発行所より出版、リヒアルト・ムウテル「十九世紀仏国絵画史」(翻訳)を日本美術院より出版大正9年 7月木村荘八と朝鮮、北京の古蹟を廻り、9月雲崗、大同石仏寺に17日間参籠、南満医学堂教授を辞し、10月以後太原、洛陽、漢口、南京に遊ぶ大正10年 皮膚科学研究のためアメリカを経由欧州に赴く、専ら巴里に在つて研究、其間独乙、伊太利、エジプト西欧に遊ぶ、「地下一尺集」(芸術評論集)叢文閣より出版、「支那伝説集」精華書院より出版、「空地裏の殺人」(現代劇叢書4)叢文閣より出版大正11年 「癜風菌の研究」により医学博士となる、「大同石仏寺」木村荘八共著として日本美術院より出版大正13年 9月帰朝、公立愛知医科大学教授となる大正15年 東北帝国大学医学部教授に任ぜらる。「厥後集」(小説集)東光堂より出版、「支那南北記」改造社より出版昭和4年 「えすぱにや・ぽるつがる記」岩波書店より出版昭和5年 「木下杢太郎詩集」第一書房より出版、12月シヤム、バンコツクに開かれた極東熱帯病学会に出席す昭和6年 フイリツピン経由3月帰朝、東北帝大附属病院長、東北帝大評議員となる、「ルイス・フロイス一五九一・一五九二年日本書翰」第一書房より出版昭和9年 「雪櫚集」書物展望社より出版昭和11年 「芸林間歩」岩波書店より出版昭和12年 東京帝国大学医学部教授に任ぜらる昭和13年 「大同石仏寺」座右宝刊行会より出版昭和14年 「其国其俗記」岩波書店より出版、6月北支衛生状況視察を命ぜられ、大同に再遊す昭和16年 第1回交換教授として仏印に出張、安南の文化について多く学ぶ、仏国よりレジヨン・ドヌール オフイシエ勲章を受く昭和17年 「木下杢太郎選集」中央公論社より出版昭和18年 南京の医学会に赴く昭和19年 此年夏以後癌に犯されるを気付かず、空襲中の東京に在つて勤務を続く昭和20年 6月病床に臥す、「葱南雑稿」を書き始む、10月15日朝東大病院柿沼内科に於て逝去

尾川多計

没年月日:1945/10/12

美術批評家尾川多計は交通事故の為10月12日逝去した。享年39。明治39年東京に生れ、川端画学校洋画部に学び、美術雑誌「アルト」「中央美術」「エコー」等の編集をなし後、毎日新聞社に入り文化部嘱託として美術評論を担当していた。

田中喜作

没年月日:1945/07/01

東京美術学校教授、美術研究所嘱託田中喜作は山梨県に疎開中逝去した。享年61。明治18年京都下京に生れ、36年京都市立美術工芸学校に入学、38年同校退学後関西美術院に学んだが、41年同院を退くとともに渡欧、パリでアカデミー・ジユリアンに入学した。42年帰朝後は美術史ことに近世日本絵画の研究に入り、浮世絵の研究で知られた。一方批評家としても活躍し、国画創作協会にはグループの一人として参加している。昭和2年美術研究所創立と同時にその一員となり、その後「美術研究」誌上に種々の研究論文を発表して卓抜の見解をうたわれた。昭和19年には東京美術学校教授として美術史を担当したが、戦時中の無理が因となつて斃れたものである。なお美術研究所長田中豊蔵はその兄にあたる。著書の主なるものに「ルノアール」「マイヨール」「浮世絵概説」があり、後年の研究は主として桃山時代の美術、発祥時代の日本南画に向つていた。

横河民輔

没年月日:1945/06/25

建築会の長老、工学博士横河民輔は6月25日逝去した。享年82。元治元年出生、明治23年東京帝国大学建築科を卒業し後欧米を視察し、東京に横河工務所を創立した。専ら欧風建築の設計工事にたずさわつたが就中帝国劇場三越呉服店等が知られている。後建築協会並に建築の資料協会々長に挙げられた。又中国及び日本の陶磁器の蒐集家として知られ、かつて帝室博物館に寄贈された横河コレクシヨンは世界屈指の蒐集である。晩年国宝保存会の委員であつた。

西田幾多郎

没年月日:1945/06/07

「西田哲学」の名によつて知られた、文学博士、帝国学士院会員西田幾多郎は6月7日鎌倉の自宅で逝去した。享年76。明治元年石川県に生れ、明治27年東京帝大哲学科選科を卒業、その後山口高校、四高、学習院等の教授を歴任して明治43年京都帝大助教授となり、以後京都帝大哲学科の指導者として大きい足跡を残した。著書は明治44年に出した「善の研究」をはじめ甚だ多いが、芸術哲学に関するものとしては「芸術と道徳」、「哲学論文集四」中に主要の論文があり、東洋的な独自の深い解釈をあたえている。

安藤照

没年月日:1945/05/25

文展審査員安藤照は5月25日渋谷区の自宅で戦災死した。享年54。明治25年鹿児島県に生れ、大正11年東京美術学校彫刻選科を卒業した。在学中第3回帝展に「K女」を出品してより、卒業の年第4回帝展に「婦」特選となり、引続き第5回無鑑査「肖像」「相」出品、第6回には「踊の構図」にて再度特選、第7回「大空に」にて帝国美術院賞を受け、爾来、帝展新文展の審査員をつとめ終始官展系作家として毎回注目すべき作品を発表すると共に東台彫塑会々員の新人として期待せられていた。一方昭和6年、美校同期卒業生と共に塊人社を結成、自宅をその事務所として活躍、新技巧をとり入れ、能動的彫刻家として斯界に認められていたが、著名作品諸共に悲壮の最後を遂げたことは惜しまれる。作品は生前の魁偉な風貌を映すかの如く重量感に富むスタイルを持つていた。官展出品作品は左の如くであるが、その他に昭和12年南州翁50年祭奉賛会の委嘱に依り、制作した鹿児島市山下町公会堂前の「西郷隆盛銅像」等がある。作品略年譜大正10年 第3回帝展「K女」大正11年 第4回帝展「婦」特選大正13年 第5回帝展「肖像」「相」無鑑査大正14年 第6回帝展「踊の構図」特選大正15年 第7回帝展「大空に」帝国美術院賞昭和2年 第8回帝展「ダンスの一部」委員昭和4年 第10回帝展「啓明」審査員昭和5年 第11回帝展「胸像」無鑑査昭和6年 第12回帝展「豊齢」無鑑査昭和7年 第13回帝展「胸像」無鑑査昭和8年 第14回帝展「日本犬ハチ」審査員昭和9年 第15回帝展「横臥像」無鑑査昭和11年 文展(招待展)「胸像」昭和12年 第1回文展「立像」審査員昭和13年 第2回文展「秋の作」審査員昭和14年 第3回文展「胸像」審査員昭和15年 二千六百年奉祝展「二つの対象に求めて」昭和16年 第4回文展「作」審査員昭和17年 第5回文展「心」審査員昭和18年 第6回文展「二六〇三年作」

柳瀬正夢

没年月日:1945/05/25

民衆的な画家として知られていた柳瀬正夢は5月25日の爆撃で不慮の最後をとげた。享年46。明治33年松山市に生れ、上京して日本水彩画研究所、日本美術院研究所に学び、ゲオルゲ・グロッス等の研究に入り、漫画諷刺画の方面にも活躍した。院展等にも作品を発表したが、「ゲオルゲ・グロッス研究」「柳瀬正夢画集」「山の絵(句集)」などの著作もある。

関保之助

没年月日:1945/05/25

東京帝室博物館学芸委員、重要美術委員関保之助は5月25日空襲により渋谷区の自宅で家族と共に戦災死を遂げた。享年78。氏は明治26年東京美術学校第1回の卒業生で、有職故実、甲冑武器の考証家として、著名で、現代日本画の歴史画を描く上の師となつていた。

溝口禎次郎

没年月日:1945/05/25

帝室博物館美術課長溝口禎次郎は5月25日夜の爆撃によつて牛込の自邸で焼死した。享年74。号は鳩峯、又は宗文、明治5年7月18日京都府綴喜郡に生れ、22年東京美術学校第一期生として日本画科に入学、27年卒業し、一時大阪府第四尋常中学の教師となつたが、まもなく博物館に入り、29年には臨時全国宝物取調局臨時鑑査掛を嘱託された。以後最後まで博物館員として国宝保存事業に、鑑識方面に、また蒐集家として活躍した。その間明治42年には日英博覧会のため英国に出張、大正4年以来東京帝室博物館美術課長となり、13年には国宝保存会の委員、昭和8年には重要美術品等調査委員会の委員におされた。昭和11年にはボストンに於ける日本美術展のため米国にゆき、その後も健在であつたが不慮の死を遂げたものである。その蒐集した美術品は前九年合戦絵巻などの名品がふくまれ著名であつた。

尾竹国観

没年月日:1945/05/18

文展無鑑査尾竹国観は5月18日疎開先で逝去した。享年61。名亀吉、明治13年新潟市に生れ、高橋大華、小堀鞆音に師事、15歳にして富山博覧会で褒状を得、爾来、日本美術協会、各地の絵画共進会、前期日本美術院、各種勧業博覧会等に出品、しばしば受賞して声明をあげた。文展へは第3回に「油断」を出して一挙に2等賞、5回に「人真似」(3等賞)「忍耐」、6回に「勝鬨」(褒状)、8回「仮睡」、9回「血路」(3等賞)、10回「文姫帰漠」、11回「住吉」 12回「磯」と活躍したが 後年は振わなかつた。兄に尾竹越堂、竹坡があり、兄弟作家として知られていた。門下に織田観潮等がある。

瀧精一

没年月日:1945/05/17

帝国学士院会員、東京帝国大学名誉教授、文学博士瀧精一は5月17日心臓麻痺のため東京都品川区の自邸に於て急逝した。享年73。明治6年明治期の著名なる日本画家瀧和亭の長子として生れ、同30年東京帝国大学文科大学を卒業、同大学大学院に入学美学を専攻した。東京美術学校、京都帝国大学、東京帝国大学等の講師を経て大正3年東京帝国大学教授に任ぜられ、美術史学の講座を担当した。翌4年文学博士の学位を得た。東大に於ては概説として日本美術史を講じ、特殊講議として支那絵画史、印度仏教美術等を講述し、美術史学の基礎を確立した。同9年東宮御学問所御用掛を拝命し今上陛下に美術史を御進講申上げた。同14年帝国学士院会員に推された。昭和2年東京帝国大学評議員となり、同年同学文学部長に補せられ。その運営に貢献するところがあつた。同9年停年と共に退官、東京帝国大学名誉教授の名称を授けられた。又夙く古社寺保存会、国宝保存会の委員となり、重要美術品等調査会の創設に尽力し、その委員となつた。法隆寺の保存事業についても企画するところがあり、壁画の模写も実行に移された。その他印度アジャンタ石窟寺院の壁画やブリティッシュ・ミュゼアムの燉煌発掘の壁画の模写を作らしめた。また美術品の科学的研究のために古美術自然科学研究会を起し科学者に委嘱して諸種の研究業績を挙げしめた。又対支文化事業として設立された東方文化学院のために尽瘁し、昭和14年にはその理事長となり又院長に挙げられた。併し、その生涯の業績中最大のものは、雑誌国華の刊行であつて、明治34年その編集に初めて携つて以来、その逝去に至る迄岡倉天心等創刊者の意を継承して、その発展に努力し、自ら編集の主軸となると同時に多くの論文、解説等を発表した。これはわが美術史学の発達に多大の貢献をなしたばかりではなく、美術愛好者を啓発し、又海外諸国へ東洋美術を紹介するに、大きな役割を果したのである。その著書としては、生前自ら選択して編んだ「瀧拙庵美術論集日本篇」(昭和18年座右宝刊行会)があり、その他「文人画概論」(大正11年改造社)Japanese Fin Art(昭和6年富山房)があり、その編集に成るものに「日本古美術案内」(昭和6年大和絵会)がある。略年譜明治6年 12月23日東京に生る明治30年 東京帝国大学文科大学卒業、東京帝国大学大学院入学美学専攻明治32年 東京美術学校の美学授業を嘱託さる明治33年 帝室博物館列品英文解説に関する事務を嘱託さる明治34年 国華社業務担当員となり兼て編集に従事す 依願東京美術学校講師解嘱明治35年 普通教育に於ける図画取調委員を嘱託さる明治35年 依願帝室博物館列品英文解説事務解嘱明治40年 東京勧業博覧会審査員を嘱託さる明治42年 京都帝国大学文科大学講師を嘱託さる 東京美術学校美学授業を嘱託さる 東京帝国大学文科大学講師を嘱託さる。日英博覧会鑑査官被仰付明治44年 東京女子高等師範学校講師を嘱託さる、依願東京美術学校講師解嘱明治45年 東京帝国大学より欧米出張を命ぜらる大正2年 帰朝、任東京帝国大学文科大学教授、叙高等官6等、美学美術史第二講座担任を命ぜらる大正4年 文学博士の学位を受く大正5年 帝室技芸員選択委員被仰付大正9年 東宮御学問所御用掛被仰付大正10年 7月文部省より欧洲へ出張を命ぜらる。12月帰朝大正14年 帝国学士院会員被仰付大正15年 1月文部省より帝国学士院の要務を以て欧洲へ出張を命ぜらる、8月帰朝昭和2年 東京帝国大学評議員となる、東京帝国大学文学部長に補せらる、陞叙高等官1等、叙従4位昭和4年 国宝保存会委員被仰付昭和6年 依願東京帝国大学文学部長を免ぜらる昭和9年 依願本官を免ぜらる、叙従3位、東京帝国大学名誉教授の名称を受く昭和13年 帝室博物館顧問被仰付昭和14年 東方文化学院理事長、同院々長となる昭和15年 国華刊行による東洋美術文化宣揚の功績に対し朝日文化賞を受く昭和20年 叙勲2等授瑞宝章、品川区上大崎の自邸に於て急逝

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