本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数2,850 件)





小村大雲

没年月日:1938/02/20

 日本画家小村大雲は2月20日郷里島根県簸川郡平田町に帰省中逝去した。享年56歳。 本名権三郎。明治16年島根県に生る。18歳の時、京都に出で、一時都路華香に師事したが、明治36年山元春挙塾早苗会に転じ、そこで名を成した。大正元年第6回文展出品の「釣日和」が3等賞となり、其後続いて3等賞を3回、特選を2回獲得し、同8年推薦され、その後は2度帝展の委員に就任した。文展、帝展の出品目録は左の通りである。文展第6回 「釣日和」3等賞文展第7回 「放ち飼」3等賞文展第8回 「憩ひ」3等賞文展第9回 「東へ」3等賞文展第10回 「画舫」特選文展第11回 「神風」特選文展第12回 「古代の民」帝展第1回 「佐登」推薦帝展第3回 「美哉蒼窮」帝展第4回 「剛敵」帝展第5回 「往時追懐」帝展第8回 「清風山月」帝展第9回 「梁風子」帝展第12回 「黄金の茶室」帝展第14回 「三蔵渡印」以上

関如来

没年月日:1938/02/20

 美術評論家関如来は動脈硬化症の為、東京府立大塚病院に於て逝去した。享年73歳。 本名巌二郎、慶応2年11月16日大和櫛羅藩永井信濃守の家臣関祐忠の四男として葛城山下の藩地に生る。明治10年大阪府立大阪英語学校に入学、ついで東京大学予備門に転じ、同18年同校を退き、同27年読売新聞社に入社、文学及美術を担当した。同30年、一時帝国博物館の帝国美術略史編纂を嘱託され、又同年臨時博覧会事務局の事務を嘱託され、同32年には臨時博覧会鑑査官を仰付けられた。同31年日本美術院創立に参画し依つて天心よりその正員たらんことを求められたが受けなかつた。同35年読売を退社、美術史の著作に従事し、傍ら「ステユデイオ」社の日本通信員となつた。同43年読売に復社し美術部主任となつたが、大正3年退社した。昭和4年京都日出新聞社より聘せられてその発行人となり爾後京都に寓居した。読売入社当時訪問記事「当世名家蓄音器」を連載、その後31年の美術学校紛擾の際も美術記者として筆を揮つた。又29年より美術評論の執筆に生涯を終始した。「美術」「書画之研究」「関」等の雑誌を発行したことがあり、著者としては「当世名家蓄音機-文禄堂発行」、「五色の酒-春陽堂発行」があり、其他「日本靖献帖」の解説編輯、「霊華追悼画集」の編纂等がある。

渡辺晨畝

没年月日:1938/02/11

 日本画家渡辺晨畝は2月11日逝去した。享年72歳。 慶応3年11月3日福島県安積郡多田野村に生る。荒木寛畝の門に花鳥を学ぶ。日本画会、日本美術協会々員となり、孔雀の絵を得意としてゐた。大正7年支那に漫遊、北京に於て日華聯合絵画研究会を組織し、同10年及び13年に日華聯合展を開催、又昭和9年には新京に日満聯合展を開催した。満洲国皇帝の知遇を辱ふし、日満支三国美術の交驩に貢献せる処大であつた。尚、東方絵画協会幹事の任にあつた。

武田五一

没年月日:1938/02/05

 正3位勲2等工学博士武田五一は急性肺炎のため2月5日京都の自宅で薨去した。享年67歳。 明治5年11月15日広島県福山市に生る。同30年東京帝国大学工科大学造家学科を卒業し、同32年、同工科大学助教授に任ぜらる。翌33年文部省留学生として図案学研究のため英独仏に留学を命ぜられ、翌年3月出発、同36年帰朝した。同年京都高等工芸学校の教授に任ぜられ、同校図案科主任として大正7年迄在職した。この間京都工芸界に大なる貢献をなすと共に建築界に於ても指導的地位を保ち、即ち古建築方面に於ては同37年京都府技師を兼任して京都地方古社寺の修理保存に従事し、新建築界に於ては大蔵省臨時建築部技師を兼任して帝国議会議院建築に当初より参画し、諸官衙建築調査等のために欧米へ前後3回に亙つて出張して居る。大正4年工学博士の学位を受く。同5年法隆寺壁画保存法調査委員、翌年古社寺保存会委員となる。同7年名古屋高等工業学校長に転任し、兼ねて臨時議院建築局技師の任にあつた。当時京都帝国大学工学部の建築学科創立の事あり、その委員として尽力し、同9年同科の設置を見るや勅任教授に任ぜられ、主として建築計画法を講じ同科の今日の基礎を築いた。京都帝国大学に於ては教授たるに止らず、同11年其の建築顧問、同14年に大蔵省営繕管財局技師を兼ね、昭和4年より6年迄は営繕課長事務取扱として学内建築物造営に関与した。尚この時代は博士の建築活動の高潮期で幾多の作品を残して居る。工芸界に於ては大正元年農商務省第1回図案及応用作品展以来今日迄商工省工芸審査委員会の委員として、又各博覧会等の審査官として力を尽し、更に都市計画の方面に於ても京都、大阪、名古屋等の顧問として多大の貢献をなした。昭和6年欧米に出張し、同7年長年の教授の職を辞したが、建築界に於ける活動は毫も衰へず、最近の大作としては日本赤十字社京都支部病院、京都電燈株式会社等が挙げられる。晩年特記すべきは昭和9年4月法隆寺国宝保存工事事務所長及び同協議会委員に就任して、爾来4ヶ年国家的事業たる同寺国宝建造物保存事業に傾倒したことで、その大事業の半ばにして急逝し、学界の痛惜するところとなつたものである。多年京都に居住したため、関西方面の重要公共建築には殆んど関与せざるものなく、我国建築界の重鎮であつた。左に主なる建築作品の目録を掲載する。(以上「建築雑誌」52の639記事に依る)作品略年表明治32年 日本勧業銀行(旧)(東京市)明治32年 台湾神社明治38年 福島邸(旧)(東京市)明治40年 清野邸(京都市)明治42年 京都府記念図書館明治42年 富山県県会議事堂明治43年 京都商品陳列所(旧)明治44年 同志社女学校静和館(京都市)明治44年 伊藤博文公銅像台座(神戸市)明治45年 芝川邸(兵庫県)大正2年 同志社女学校ゼームス寮(京都市)大正2年 京都市二条橋大正3年 京都帝国大学文学部陳列館大正3年 京阪電鉄株式会社本社(大阪市)大正4年 桑港博覧会日本政府館迎賓館大正4年 京都商工会議所大正4年 佐久間象山先生遭難之碑(京都市)大正4年 求道会館(東京市)大正5年 稲畑邸(京都市)大正5年 兵庫県立農工銀行大正5年 山口県庁及県会議事堂大正5年 大阪朝日新聞社大正5年 御大典記念京都博覧会大正6年 龍安寺鳳凰閣(大阪府)大正6年 清水寺根本中堂・大講堂・本坊・客殿(兵庫県)大正6年 大阪電燈株式会社心斎橋陳列場大正8年 山王荘(東京市)大正8年 那覇市役所大正9年 清水寺山門・鐘楼(兵庫県)大正10年 北村本邸(奈良県)大正10年 京華社(京都市)大正10年 山口仏教会館(京都市)大正11年 勝田邸(神戸市)大正11年 京都帝国大学工学部建築学教室大正11年 浅沼銀行(大垣市)大正11年 阿部伊勢守正弘公銅像台座(福山市)大正1年 青柳邸(京都市)大正11年 小川邸(京都市)大正12年 東本願寺内侍所(京都市)大正12年 清水寺大塔(兵庫県)大正12年 藤本ビルブローカー門司支店大正12年 武道専門学校(京都市)大正13年 北村邸(和歌山市)大正13年 京都帝国大学本館大正13年 京都市医師会館大正13年 尼港遭難記念碑(東京市)大正13年 中之島公園音楽堂(大阪市)大正13年 京都銀行集会所大正13年 岐阜商工会議所大正14年 大阪工業試験所研究室大正14年 村瀬西洋料理店(京都市)大正14年 光明寺根本本堂(兵庫県)大正15年 星野邸(京都市)大正15年 藤井美術館(有隣館)(京都市)大正15年 中田商店(京都市)大正15年 電気大博覧会(大阪市)大正15年 持宝院大師堂(兵庫県)大正15年 田中別邸(京都市)大正15年 大阪市伏見橋大正15年 石黒ビルデイング(金沢市)昭和2年 奈良信託株式会社昭和2年 大平邸(京都市)昭和2年 阿部伯爵邸(東京市)昭和2年 島津製作所(京都市)昭和2年 大阪市渡辺橋昭和3年 天王寺公園音楽堂(大阪市)昭和3年 商工省京都陶磁器試験所本館昭和3年 岩倉文庫(京都府)昭和3年 大阪鉱業監督局昭和3年 大阪毎日新聞社京都支局昭和3年 岐阜市公会堂昭和3年 高野山大学図書館(和歌山県)昭和3年 三井相続会館(京都市)昭和3年 御大礼京都博覧会昭和3年 御大礼京都市街路装飾昭和3年 華頂会館(京都市)昭和3年 京都日出新聞社昭和3年 大阪市四ツ橋昭和3年 六鹿邸(京都市)昭和3年 春田文化集合住宅(名古屋市)昭和4年 大阪市浪速江橋昭和4年 山代温泉共同浴場(石川県)昭和4年 三宅清次郎商店(京都市)昭和4年 永平寺大光明蔵(福井県)昭和4年 学士会京都支部会館昭和5年 河野邸(兵庫県)昭和5年 福山市役所昭和5年 伊谷邸(京都市)昭和5年 高野山癸亥震災霊碑堂昭和5年 大阪市桜宮大橋昭和5年 中山邸(兵庫県)昭和5年 東方文化学院京都研究所昭和5年 石黒邸(金沢市)昭和5年 山中町共営浴場(石川県)昭和6年 熊本医科大学山崎博士記念図書館昭和6年 高知県立城東中学校昭和7年 同志社女学校栄光館(京都市)昭和7年 藤山邸(東京市)昭和7年 京都薬学専門学校昭和8年 円教寺摩尼殿(兵庫県)昭和9年 高野山金剛峯寺金堂及根本大塔昭和9年 日本赤十字社京都支部病院昭和10年 新大阪ホテル昭和10年 沢田邸(神戸市)昭和11年 黒谷金戒光明寺大方丈併附属建物(京都市)昭和11年 山中観光ホテル(石川県)昭和11年 法隆寺鵤文庫(奈良県)昭和11年 杉山邸(兵庫県)昭和12年 京都電燈株式会社工事中 法隆寺宝蔵

山桝儀重

没年月日:1937/12/25

 日本美術学校長山桝儀重は、腎臓病の為12月25日逝去した。享年49。鳥取県の出身で、京都帝大文科を卒業後師範学校教諭、大阪視学に歴任、現在は鳥取新聞社長で、大正13年以来代議士に選出されて民政党に属し、岡田内閣当時は松田文相の下に文部参与官に任ぜられた。昭和11年故紀淑雄の後を承けて日本美術学校長に就任してゐた。

長野宇平治

没年月日:1937/12/14

 元日本建築士会々長。工学博士長野宇平治は12月14日逝去した。慶応3年越後高田に生る。明治26年東京帝国大学工科大学造家学科を卒業後、奈良県技師日本銀行技師を経て、大正2年建築設計監督事務所を開設し、同4年工学博士の学位を授けられた。同7年渡米。昭和2年、日本銀行増改築の為、臨時建築部設置せられ其の技師長の任に就いて居た。尚大正6年日本建築士会々長に選任され爾後数回再選されて居る。在世中設計監督せる主なる建築物は左の通りである。明治28年 奈良県庁舎明治39年 日本銀行名古屋支店明治39年 日本銀行京都支店明治44年 日本銀行函館支店明治45年 日本銀行小樽支店大正2年 日本銀行福島支店大正4年 志立鉄次郎邸大正5年 三井銀行神戸支店大正8年 横浜正金銀行神戸支店大正8年 横浜正金銀行下関支店大正8年 三井銀行下関支店大正9年 明治銀行金沢支店大正9年 日本興業銀行大阪支店大正10年 三井銀行日本橋支店大正11年 日本銀行岡山支店大正12年 明治銀行本店大正12年 明治銀行大阪支店大正12年 三井ビルデイング大正14年 三井銀行広島支店大正14年 鴻池銀行本店昭和2年 横浜正金銀行東京支店昭和2年 亀島広吉邸昭和2年 藤井栄三郎邸昭和2年 日本銀行神戸支店昭和11年 日本銀行広島支店昭和7年 日本銀行本店増築(第一期工事)昭和10年 日本銀行本店増築(第二期工事)昭和13年 日本銀行本店増築(第三期工事)建築設計競技応募明治42年 台湾総督府庁舎大正元年 大阪市公会堂

高橋箒庵

没年月日:1937/12/12

 茶人として又研究家として聞えた高橋箒庵は、豫て病気の処12月12日赤坂の自邸で逝去した。享年77。本名義雄。文久元年水戸に生る。明治15年慶応義塾卒業時事新報記者となり同24年三井銀行に転じ、それより三越理事、三井鉱山理事、王子製紙会社々長等を歴任、昭和10年三越取締役に選ばれ今日に至つた。茶道、花道に造詣深く、50歳にして身を著作界に投じ、「東都茶会記」を始め「大正名器鑑」、「水戸学」、「近世道具移動史」、「箒のあと」等著作頗る多い。

曾禰達蔵

没年月日:1937/12/06

 建築学会名誉会長、工学博士曾禰達蔵は12月6日急性腸閉塞の為め逝去した。享年86。嘉永5年江戸に生れ、明治12年当時の工部大学校第一期生として卒業、本邦近代工学の揺籃時代より明治大正昭和を通じて我国工学界の発達の為に貽した功績は偉大であつた。 略歴―明治12年工部大学造家学科を卒業後、同年工部8等技手に任命営繕局出勤となり、14年工部大学校助教授に、次で19年工科大学助教授、又同年海軍4等技師に任ぜられ、22年呉鎮守府建築部長仰付けられ翌年同官を免ぜらる。同年三菱社に入社、26年震災予防調査会委員となり、又同年帝国大学より米国シカゴ博覧会の鉄造家屋取調を嘱託されて渡米した。32年工学博士の学位を授けられ、34年岩崎久弥男に随行して英国ロンドンへ出張、39年三菱を退社し同社建築顧問となり、自ら建築事務所を開設した。40年東京勧業博覧会審査官を嘱託せられ、翌年中条精一郎と共同にて曾禰中条建築事務所を開いた。又東京高等工業学校講師を嘱託された。大正7年臨時議院建築局顧問仰付けられ、同9年正5位に叙せらる。14年営繕管財局顧問仰付けられ、同年震災予防評議員を仰付けられた。 其の建築作品に就ては日本建築士誌(第22巻第3号)は第一期海軍省時代、第二期三菱社及び三菱合資会社時代、第三期曾禰中条建築事務所時代の三期に分けて幾多の作品を紹介して居るが、第二期の作品である初期三菱諸建築及第三期の東京海上ビルチング、日本郵船ビルヂング、有楽館、華族会館、慶応義塾諸建築等は其の主要なる作品である。

加賀月華

没年月日:1937/11/24

 陶磁作家加賀月華は11月24日逝去した。本名常次郎。明治21年桑名町に生れ、大正11年より桑名の物産として名ありし万古窯の再興を図り、地元の赤須賀に築窯して古万古の作風を学び今日に至つた。帝展文展には昭和4年以来連年入選、其他日本美術協会、商工省工芸展等に出品し、屡々受賞してゐた。

八条弥吉

没年月日:1937/11/04

 洋画家八条弥吉は11月4日千葉医大附属医院に於て逝去した。明治10年大阪府に生れ、同34年東京美術学校洋画科を卒業、日露戦役に大阪毎日新聞社特派員として従軍した。同43年第4回文展に「茶屋」を出品、3等賞を受領。大正11年渡仏、翌年帰朝。昭和11年度文展招待者に推され「斜陽の庭」を出品、同12年第1回文展に「南総風景」を出品した。

奥村霞城

没年月日:1937/10/16

 漆工家、新文展無鑑査奥村霞城は10月16日逝去した。本名享。明治26年京都に生る。同44年京都市立美術工芸学校漆工科卒業後、船橋舟珉に師事、大正2年京都美工院の同人となり、昭和5年京都市立美術工芸学校教員を命ぜられ、同7年京都市主催工芸品展委員、10年京都漆芸会幹事及京都市主催大衆向工芸展審査委員に就任した。昭和11年春の帝展に「紫陽花手箱」を出品して推奨に挙げられ、次で同年文展より無鑑査となり同12年第1回文展出品の「鹿の図パネル」が絶作となつた。

岩倉具方

没年月日:1937/10/14

 洋画家岩倉具方は本年9月海軍省嘱託画家並報知新聞特派員として上海戦に従軍したが、10月14日上海呉淞路にて敵弾の為名誉の戦死を遂げた。維新の元勲岩倉具視公の曽孫として明治41年東京に生る。太平洋美術学校に洋画を学び、昭和2年二科に初入選し、同5年渡欧、11年に帰朝した処であつた。

磯矢完山

没年月日:1937/10/04

 日本工芸美術会委員磯矢完山は10月4日膵臓病のため逝去した。享年63。本名邦之助。明治8年、茶人磯矢宗庸次男として大阪に生る。同23年小川松民に就て蒔絵を学び、師の没するに及び帝室技芸員川之辺一朝の門に入つた。同30年東京美術学校漆工科本科を卒業、34年小石川に日進塗料工場を設立、40年迄六角紫水と共同経営をなした。45年明治天皇御大葬に際し、御葬具を謹製す。大正8年故川之辺一朝及完山の門下生、木白社を組織し同13年迄日本橋高島屋に展覧会を開催、完山も多数出品した。同15年日本工芸美術会創立され会員となる。昭和4年同会主催工芸リーグ展に「孔雀文手筥」「草花文蒔絵香炉と卓」を出品、同7年同会の委員となり、同年の展覧会に「夏の菓子器」「苺文手筥」を出品、翌年帝展第14回に「蒔絵菜文茶箱」を、次いで9年日本工芸美術会展に「独楽文菓子器」「千本しめじ香合」を出品した。同10年東京高島屋に於て親戚一同にて一門会美術工芸展を開催、自らも多数出品した。同年日本工芸美術会展に「花器」「小膳」を出品、11年「短冊筥青柳と橋の図」「硯箱猿三番叟之図」を完成し、又同年7月自邸内に作品陳列所を建て「朱文筵」と称した。12年工芸美術会大阪展に「瓢文茶箱」「二菜葵棗」「蝉香合」「茸香合」「花文棗」等を出品した。

太田義一

没年月日:1937/10/01

 日本画家太田義一は10月1日逝去した。明治24年山形県に生る。大正4年東京美術学校を卒業、帝展入選8回に及び、尚帝国女子専門学校の講師の職にあつた。

伊東陶山

没年月日:1937/09/07

 陶工家伊東陶山は9月7日腎臓炎の為京都の自宅で逝去した。明治4年滋賀県に生れ、同20年故内海吉堂に就き日本画を学ぶ。同24年、故帝室技芸員先代陶山に就き製陶法を学び、その非凡なる才能を見出されて養子となり、大正9年二代を襲名した。昭和3年御大典に際し、宮内省御用品を献納す。同年帝展に於て推薦となり、同6年及び8年に帝展第四部審査員に任命された。晩年は日本美術協会々員、京都工芸美術協会評議員及審査委員、其他京都に於ける各種の団体の要職に就いてゐた。

片山牧羊

没年月日:1937/08/26

 日本画家片山牧羊は宿痾の為め広島県の郷里に於て静養中の処8月26日逝去した。明治33年尾道に生る。庄田鶴友、蔦谷龍岬、荒木十畝に師事し、旧帝展特選1回入選3回に及んでゐた。

和田英松(ヒデマツ)

没年月日:1937/08/20

 国宝保存会委員文学博士和田英松は8月20日腎臓病のため帝大病院に於て逝去した。慶応元年広島県に生れ、明治21年東京帝国大学文科大学古典講習科図書課卒業、同28年同大学史料編纂掛に入り、32年学習院教授、40年東大史料編纂官に任ぜられ、大正7年帝国学士院恩賜賞を授与され、同10年文学博士の学位を授けられた。昭和8年依願免官となり、従3位勲2等に叙せらる。尚最近は帝国学士院会員の外史料編纂所嘱託、内閣嘱託、国宝保存会委員、重要美術調査委員会委員、国学院大学教授等の要職にあつた。

塚本靖

没年月日:1937/08/09

 東京帝国大学名誉教授、帝国芸術院会員(正3位勲2等)工学博士塚本靖は豫て胃癌の為病臥中の処8月9日小石川の自邸で逝去した。享年69。我国建築及美術工芸界の耆宿であり、教育者として又実際家として幾多の功績を貽し、人格的にも徳望篤く、其の長逝は各方面の惜む処であつた。 略歴―明治2年京都に生れ、同26年東京帝国大学造家学科を卒業後大学院に於て建築装飾法の研究に従事、31年東京帝国大学工科大学講師を嘱託せられ、翌32年助教授に任命、同年より35年迄建築学研究の為、英仏独3ヶ国に留学、帰朝するや直ちに教授に陞任、翌36年工学博士の学位を授けられた。38年特許局審査員を命ぜられ、翌39年、貿易工芸品の意匠調査の為清国に差遣、翌年帰朝、41年再び差遣さる。42年日英博覧会の用務の為英国へ出張を命ぜられ、翌43年1月出発、同10月帰朝した。同43年議院建築準備委員会臨時委員を仰付られ、又特許局技師に任命。大正4年明治神宮造営局評議員を仰付られ、同5年帝室技芸員撰択委員、翌年、古社寺保存会委員を仰付らる。同7年明治神宮造営局参与、又臨時議院建築局常務顧問を仰付らる。8年東京帝国大学工学部講堂並教室及実験室新築工事設計を嘱託さる。翌9年宮内省内匠寮御用掛を仰付られ、同年東京帝国大学工学部長に補せらる。11年特許局審判官を命ぜられ、同年勲2等に叙せられ瑞宝章を授けられた。12年工学部長を免ぜられ、同大学評議員、旅順工科大学商議員の任に就いた。14年営繕管財局顧問を仰付られ、翌15年より昭和4年迄再度東京帝国大学工学部長に補せらる。昭和4年同大学教授を免ぜられ、同時に正3位に叙せられ、東京帝国大学名誉教授の称号を授けられた。昭和10年、同大学より工芸史に関する調査を嘱託さる。同12年、紀元二千六百年記念日本万国博覧会々場計画委員会委員を嘱託され、同年6月帝国芸術院創設さるるや会員を仰付られた。逝去に際しては、畏き辺より生前の建築界に致せる功績顕著なるを思召され特に金杯1個を下賜あらせられる旨の御沙汰があつた。上記の他に明治40年より連年7回に亙り文展審査員を命ぜられたのを始め、幾多の工芸展及博覧会等の鑑査、審査に鞅掌し、工芸美術界に貢献せる処多大であつた。又、博士の東西古美術に関する著作は多数に上るが、略歴年表と共に其の目録は建築雑誌(第51輯、第631号)に紹介されてある。

西井敬岳

没年月日:1937/07/04

 自由画壇同人西井敬岳は7月4日逝去した。本名敬次郎。明治13年福井県に生れ、同35年京都に出で山元春挙に師事、師の没後早苗会評議員として今日に至る。旧文展の入選8回に及び、又同志と共に日本自由画壇展覧会を組織し、毎次同会に出品した。尚文展第7回に「怒涛」を出陳、皇后宮御用品として御買上の光栄に浴した。

野沢如洋

没年月日:1937/06/11

 日本画家野沢如洋は、6月11日脳溢血の為逝去した。本名三千治。慶応元年弘前に生る。明治25年京都に出て、独力画法を研究、日本美術協会に毎回出陳して屢々受賞し、28年には1等賞を受領宮内省御買上の栄に浴した。37年支那に渡り、各地を巡歴、在留8年に及ぶ。又大正8年欧米美術行脚の途につき、翌年帰朝、昭和5年東京に転住し、爾後数次個展に依り作品を発表した。同11年弘前市に於ける秩父宮殿下御仮邸に伺候、御前揮毫の栄に浴した。

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