本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)





入江波光

没年月日:1948/06/09

日本画家入江波光は、6月9日京都市上京区の自宅で胃病のため逝去。享年62。明治20年京都市に生れた。本名幾治郎。同35年森本東閣に師事、この年京都市立美術工芸学校に入学、同38年卒業。同40年同校研究所に入学、同42年京都市立絵画専門学校新設され、その第2学年に入学し、同44年卒業した。この間明治40年第1回文展に「夕月」を出品入選した。大正2年京都市立美術工芸学校教諭に任ぜられ、同7年絵画専門学校助教授となり、国画創作協会に「降魔」を出品、授賞された。同8年同協会同人となり、第2回展に「臨海の村」、翌9年第3回展に「彼岸」を発表した。同11年京都府から英、米、伊へ出張を命ぜられ、同12年帰朝。同13年第4回国展に「虹」、同14年の第5回国展に「ローマ郊外」、昭和3年第7回国展に「摘草」を発表した。同11年京都絵画専門学校教授に進み、同13年北京、大同に出張、翌15年朝鮮美術展審査のため朝鮮に出張した。同15年文部省から法隆寺壁画の模写を依嘱され、晩年はほとんどこれに没頭した。その間仏画及び水墨画に、洗練された技法を示した。

松本竣介

没年月日:1948/06/08

自由美術家協会会員松本竣介は6月8日肺炎のため東京都新宿区の自宅で37才で夭折した。明治45年4月19日東京青山に生れ、学齢前郷里盛岡に移る。盛岡中学卒業後昭和4年上京、太平洋画会研究所に入所し、昭和10年第22回二科展に初入選以来昭和19年解散まで毎回出品を続け、その間15年第27回展に特待賞をうけ翌16年度同展で会友に推挙された。18年新人画会を同志8人と結成し翌19年迄3回展覧会を催した。戦後21年美術家組合を提唱、戦争に疲れ沈退した全日本美術家の提携再起を促した。22年自由美術家協会に新人画会のメンバーと共に参加したが、翌23年5月毎日新聞主宰連合展出品の「彫刻と女」「建物」を絶作として同展開催中発病、間もなく没した。西欧近代絵画によつて培われた高い知性を基盤として近代的なモチーフを内面的に扱いユニークな作風を築きつつあつた惜しい作家であつた。

狩野探道

没年月日:1948/06/04

日本美術協会審査員狩野探道は6月4日心臓麻痺のため東京中野の自宅で死去した。享年59。名を守久といい、明治23年東京に生れた。探幽を祖とする鍛冶橋狩野家の12世で、明治36年14歳で狩野応信に就き始めて狩野派の画法を学び、その没後荒木探令に師事した。大正4年東京美術学校日本画科を卒業以降専ら日本美術協会に出品し、同会委員、同会第一部審査委員、展覧会幹事をつとめた。代表作に東京都養正館壁画「天孫降臨図」美術協会第100回展出品の「徐上小景」等がある。

田中豊蔵

没年月日:1948/04/26

美術研究所長兼東京都美術館長田中豊蔵は4月26日肺炎のため世田谷区の自宅に於て没した。享年68。明治14年京都に生れ、第三高等学校を経て、同38年東京帝国大学文科に入り、支那文学を専攻、41年卒業した。同45年国華社に入り、「南画新論」以下30余篇の論文を国華誌上に発表した。大正9年文部省古社寺保存計画調査を嘱託され、翌年慶応義塾大学文学部講師を依嘱され、日本及び支那美術史を講じた。同15年東京美術学校講師となり、西域美術史を講じた。昭和2年在外研究員としてインド及び欧米に留学、翌年帰朝、京城帝国大学教授に任ぜられ、美学美術史第二講座を担当、同17年定年退官まで在職した。その間、昭和4年国宝保存会委員、同5年美術研究所嘱託、同8年朝鮮総督府宝物古蹟名勝天然紀念物保存会第一部員、同14年李王家美術館評議員に就任した。昭和12年以来画説誌上に多くの論文を発表し、同17年退官の後、重要美術品等調査委員会委員を依嘱され、さらに美術研究所長事務取扱に就任した。以後「美術研究」誌上に数篇の論文を発表した。昭和20年5月以降美術研究所と共に山形県酒田市に疎開、帰京後国立博物館の新設に際し、その附属美術研究所長に任ぜられ、また東京都美術館長を兼ねその逝去まで在任した。著書に「東洋美術談叢」がある。

小早川清

没年月日:1948/04/04

日本画家小早川清は4月4日東京都大田区の自宅で脳溢血のため逝去した。享年50。明治32年福岡市博多に生れた。大正13年第5回帝展に入選して以来帝展に出品を続け、第14回展の「旗亭凉宵」は特選となつた。昭和11年以後は文展無鑑査となり、その他日本画会、青衿会等にも会員として多くの作品を発表していた。専ら艶麗な美人画を画き、帝展時代には長崎を舞台とした異国情緒の溢れた画材を好んで画いた。帝展出品作に「長崎のお菊さん」「蘭館婦女の図」、文展に「春琴」「行く春」等がある。

御厨純一

没年月日:1948/02/07

第一美術協会々員御厨純一は2月7日東京都文京区の自宅で急逝した。享年62。明治20年佐賀市に生れ、白馬会菊坂洋画研究所に於て長原孝太郎に学び、更に同45年東京美術学校西洋画科を卒業した。大正4年に美術学校の同窓生と40年社を組織して同人となり、同13年には渡仏昭和3年に帰朝した。帰朝後昭和4年2月、青山熊治、濱地青松、片多徳郎等と第一美術協会を創設し力作を出品していた。昭和12年海洋美術会創立と共に会員となつた。代表作に第一美術協会展出品の「ガンの塔」「白菊」「坂」「菊庭」「夜の自画像」「静浦」等がある。

伊勢専一郎

没年月日:1948/01/13

元東方文化研究所員として支那画論画史を研究した伊勢専一郎は1月13日京都市左京区の自宅で逝去した。明治24年長崎県平戸に生れ、大正8年京都帝国大学文学部美学及美術史科を卒業、支那の画論画史を専攻した。「有竹斎蔵清六大家画譜」「支那の絵画」「芸術の本質」「西洋美術史」「菫?蔵書画譜」「爽籟館欣賞第一輯」「自顧愷之至荊浩支那山水画史(東方文化研究所研究報告)」等の著書があり、東方文化研究所研究員、大阪市美術館嘱託などを勤めたが後年は農業に従事しつつ著述にふけつていた。

多田北烏

没年月日:1948/01/01

商業美術家として著名な多田北烏は胃潰瘍のため1月1日沼津市の自宅で逝去した。享年60。本名は嘉寿計、明治22年松本に生れ、蔵前高工図案科選科、川端画学校に学び、凸版印刷図案部、市田オフセツト印刷意匠部長、東京図案研究所長等を歴任した。大正11年実用美術研究所サン・スタデイオを創設し商業美術の向上と後進の指導に努力した。又新興日本童画協会常務委員、全日本産業美術連盟常任委員をつとめ、実用版画美術協会を主宰した。著書に誠文堂発行「多田北烏図案集」その他がある。

矢崎千代二

没年月日:1947/12/28

元帝展無鑑査矢崎千代二は、昭和22年12月28日北京市立第三病院に於て老衰と胃障害のため永眠した。享年75歳。明治5年2月12日神奈川県横須賀市に生れた。同20年大野幸彦の門に入つてはじめて洋画の手ほどきを受け、さらに同30年東京美術学校西洋画科選科に入学して黒田清輝の薫陶を受け、同33年7月卒業した。白馬会に入会してその展覧会に出品したが、同36年の第5回内国勧業博覧会に出品した「鸚鵡」が3等賞を受け出世作となつた。同年アメリカに渡り、聖路易万国博覧会事務局に勤め、続いて同地のブラッシュ・エンド・ペンシル・クラブに学んだ。同40年ヨーロッパに渡り、イギリス、フランス、ベルギー、オランダ、ドイツを巡歴し、同42年帰国、交詢社で個展を開いた。同年第3回文展に「夕凉」を出品して褒状を受けたのをはじめ、以後文展に出品し、第4回文展の「奈良」、第7回文展の「草刈」は、共に3等賞となつた。大正5年再び渡欧、サロン・ドートンヌ、サロン・ナショナル・デ・ボザール等に数回出品し、その後印度に赴き、アジャンタの仏蹟やヒマラヤ等を写生し、同15年帰国した。昭和5年朝日新聞社嘱託となつて南米各地にスケッチ旅行を試み、同7年アルゼンチン滞在中帝展推薦となつた。また中国、ジャワ等に遊び、昭和9年婦国、翌年日本橋三越に於いてこれら諸地方のスケッチを発表した。同17年満州に旅行、同18年北京に赴き、同地に於いて終戦を迎え、帰国する暇なくして同22年永眠した。北京に在つた作品多数を終戦直後中国教育部に寄贈したと伝えられる。その初期には、油絵、水彩画を主としたが、間もなくパステル画を主とするようになり、この方面では先駆者であつた。

小林萬吾

没年月日:1947/12/06

帝国芸術院会員、小林萬吾は12月6日逝去した。享年78。[※68とあるのを78に修正してある]明治3年香川県三豊郡に生れた。明治19年原田直次郎、安藤仲太郎等に就き西洋画の手ほどきを受うけ、次で天真道場に入り黒田清輝の指導をうけた。明治23年及び28年の第3、第4回内国勧業博覧会には油絵を発表各褒賞を得ている。同29年東京美術学校に西洋画科が設置されるや西洋画科選科に入学、又この年創立された白馬会の最初の会員となり、第1回展に油絵4点を出品、以後同会展覧会に出品を続けた。31年に美術学校選科を卒業し翌年同校雇となり更に翌33年同校西洋画科助手となり、37年には助教授に任ぜられた。明治40年第1回文展に「物思」、第3回文展に「渡船」を出品、何れも3等賞を授けられた。44年には文部省から独仏伊に留学を命ぜられて渡欧、大正3年に帰朝、その年の文展には滞欧作品を発表した。以後文展には毎年出品、終始穏健な作風をもつたものであつた。大正5年東京高等師範学校教授を兼任、又光風会々員となり、同7年東京美術学校教授となった。同9年帝展審査員、昭和10年帝国美術院改組により帝院参与となり、引続き官展の展覧会委員、審査員として毎回作品も出品した。同15年帝国芸術院会員に任ぜられ同19年東京美術学校教授を依願免官となり勲3等瑞宝章、正4位に叙せられた。官展系作家として晩年迄活躍したが、昭和22年12月6日午後3時鎌倉市の自宅で逝去した。

関野聖雲

没年月日:1947/10/28

日展審査員関野聖雲は10月28日、国立博物館講堂に於ける第3回日展審査報告会の際、第三部主任として報告中、卒倒不慮死去した。享年59才。名、金太郎、明治22年神奈川県に生れ、38年高村光雲に師事、44年東京美術学校卒業、大正10年母校に助教授として迎えられ、以来昭和19年7月10日退官まで木彫部主任教授として後進の指導に尽瘁した。一方、文展第9回以来毎回入選し、帝展第3回第4回特選となり、以後官展の審査員を勤むること数回、光雲直系の木彫家として高名であった。代表作に木彫「鴦崛摩」「吉祥天」「聖徳太子」などがあり、第3回日展出陳の「大和禅師像」が絶作となつた。

清水澄

没年月日:1947/09/25

帝国芸術院長清水澄は9月25日熱海で死去した。享年80。明治元年金沢市に生れ、同27年東京帝大法学部を卒業した。法学博士で行政学の権威であり枢密院議長をつとめた。昭和13年初代帝国芸術院長となり、芸術振興にも力を尽した。

中村大三郎

没年月日:1947/09/14

京都美術専門学校教授、日本画家として知られた中村大三郎は9月14日膽石病で京都市右京区の自宅で療養中、腸閉塞を併発し死去した。年50。明治31年京都に生れ、大正8年京都絵画専門学校を卒業、在学中文展12回に「懺悔」を出して入選、帝展2回「静夜聞香」4回「燈籠大臣」は特選となり、その後「婦女」「髪」などの印象的な現代女性をえがいて進出した。審査員をつとめること数回、昭和10年には帝国美術院指定となり、かたわら母校に教鞭をとつていた。後期の作品としては「三井寺」(新文3)、「鸚鵡小町」(奉)、「山本元帥」(新文6)などがある。

安田半圃

没年月日:1947/09/08

日展無鑑査の日本画家安田半圃は9月8日疎開先の熱海市で耳下腺肉腫のため死去した。享年59。別号光見、名は太郎、明治22年新潟県に生れ、水田竹圃にまなび、文展11、12回に入選、帝展には10回出品して推薦となつた。南画院の同人として南画山水を主とし、新文展にも出品していた。

天沼俊一

没年月日:1947/09/01

工学博士天沼俊一は、9月1日京都市上京区の自宅にて脳溢血により逝去。明治9年東京市に生れ、同35年東京帝国大学工科大学建築学科を卒業した。同39年奈良県技師に任じ、古社寺修理技師を命ぜられ、大正5年法隆寺壁画保存方法調査委員を嘱託された。同7年京都府技師に転じ、同8年工学博士の学位を与えられた。同9年京都帝国大学助教授、兼て京都府技師に任ぜられた。同10年建築史研究のため海外留学を命ぜられ、アメリカ、ヨーロツパ、エジプト及びインドを巡歴して同12年帰朝、同年京都帝国大学教授に任じ、建築学第三講義を担任した。昭和8年朝鮮総督府宝物古蹟名勝天然紀念物保存会委員 同10年重要美術品等調査委員となつた。同年欧亜各国へ出張、同11年帰朝した。同年退官、京都帝国大学工学部講師となつた。晩年四天王寺の再建に尽力した。その著書、論文は多数にのぼるが、単行図書に「日本建築史図録」「日本の建築」「日本建築」「日本古建築行脚」「坡西土から坡西土へ」「成蟲楼随筆」等がある。

野口米次郎

没年月日:1947/07/13

詩人、慶応義塾大学名誉教授野口米次郎は、7月13日茨城県結城郡の別荘で胃癌のため逝去した。享年73。愛知県に生れ、慶応義塾卒業後アメリカに赴き、ヨネ・ノグチとして米英詩壇に知られた。美術には関心をよせ「歌麿北斎広重論」「春信」「日本美術読本」「正倉院御宝物」「聖武天皇と正倉院」(英文)等の著がある。イサム・ノグチはその息。

中村亮平

没年月日:1947/07/07

「日本美術の知識」「泰西美術の知識」等の著書で知られた中村亮平は7月7日東京阿佐ヶ谷の自宅で死去した。明治20年長野県に生れ、長野県師範学校を卒業した。大正8年武者小路実篤による日向の新しき村に参加したが、大正10年脱退、その後美術関係の著作に専心していた。

今西中通

没年月日:1947/06/10

独立美術協会々員今西中通は6月10日福岡市に於て病没した。享年40。本名は忠通、明治41年高知県に生れ、川端画学校、1930年協会研究所、独立美術協会研究所等に学んだ。1930年協会展、独立美術協会展、独立24人展等に作品を発表し、第5回独立展にはD氏奨励賞を受けた、昭和11年独立美術協会会友、同22年には会員となつた。

野口謙次郎

没年月日:1947/05/21

日本画家野口謙次郎は5月21日死去した。享年50。明治31年佐賀県に生れ、大正12年東京美術学校日本画科を卒業した。大正10年第3回帝展以後官展に出品し、昭和15年第15回帝展には「奥入瀬」に特選を受けた。

荻野仲三郎

没年月日:1947/05/21

元国宝保存会委員荻野仲三郎は5月21日脳溢血のため死去した。享年78。明治3年三重県に生れ、同30年東大を卒業した。国宝保存会委員、重要美術品等調査委員会委員、史蹟名勝天然紀念物調査委員会委員等を歴任し、古美術保存事業に尽力した。又陽明文庫の主管として管理の任にあたつた。

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