本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)





小野佐世男

没年月日:1954/02/01

二科会所属の漫画家小野佐世男は2月1日心筋硬塞のため神田駿河台日大付属病院で急逝した。享年48歳、葬儀は漫画集団葬を以て、4日世田谷区の自宅で行われた。明治38年横浜市に生れ、東京美術学校に入学し岡田三郎助の教えをうけた。昭和5年同校卒業後は春台美術に加わつたが漫画の投書が縁で報知新聞に入り漫画で活躍した。戦時中は報道班員としてジャワに従軍し、戦後は女性姿態に独特の筆をふるい、ジヤーナリズムの人気を集めていた。新漫画派集団、出版美術家連盟二科会に属し、著書に「女体戯語」「サルサル合戦」「女神の絵本」等がある。

香取秀真

没年月日:1954/01/31

帝室技芸員、日本芸術院会員でわが美術工芸界の長老香取秀真は、1月31日急性肺炎のため世田谷区の自宅で逝去した。本名は秀治郎、別号六斉、梅花翁。明治7年1月1日千葉県印旛郡に生れた。同30年東京美術学校鋳金科を卒業した。同36年以来昭和18年に至るまで母校に鋳金史、彫金史を講じ、同41年同志と東京鋳金会を創立して幹事となつたほか、諸博覧会の審査員、日本美術協会、東京彫工会、日本金工協会等の審査員、幹事となり、自らも多くの作品を発表した。大正8年農商務省工芸展覧会の審査員となり、その後帝展の工芸部設置に尽力し、昭和2年その審査員となり、同4年帝国美術院会員に挙げられ、同9年帝室技芸員を命ぜられた。また昭和2年以来帝室博物館学芸委員となり、同4年国宝保存会委員となるなどこの方面の功績も大きかつた。その作品は、その豊かな技術を駆使した古典的で品格高いものであつた。また金工家としてのほか、わが金工史の研究に前人未踏の分野を開拓し、学術的な著書も多く、さらに正岡子規門下の歌人としても著名であつた。同28年多年の功労によつて文化勲章を授げられた。略年譜明治7年 千葉県印旛郡に生る。父香取蔵之助秀晴、母たま。明治11年 印旛郡麻賀多神社祠官郡司家の養子となる(5歳)明治24年 東京に遊学す(18歳)明治25年 東京美術学校に入学す。同校に学ぶ傍大八洲学校に国史国文を学ぶ。明治30年 生家香取家へ復籍す。東京美術学校鋳金本科卒業。明治32年 正岡子規の門に入る。東京美術学校研究科に入学。明治36年 東京美術学校より鋳金史授業を嘱託せらる。明治37年 東京美術学校より彫金史授業兼務を命ぜらる。明治41年 同志と計り東京鋳金会を設立、幹事となる。明治42年 東京美術工芸展覧会評議員嘱託。明治43年 第2回東京府美術及美術工芸展覧会鑑別委員嘱託。明治44年 東京勧業展覧会審査委員嘱託。大正2年 東京勧業展覧会審査委員嘱託。大正3年 大正博覧会鑑査員嘱託。大正8年 農商務省工芸審査委員会委員被仰付。大正14年 同志と工芸済々会を創立。昭和2年 帝室博物館学芸委員被仰付。帝国美術展覧会委員被仰付。(この年より帝展に第四部設置)昭和3年 帝国美術院美術展覧会審査員被仰付。昭和4年 帝国美術院会員被仰付。国宝保存会委員被仰付。昭和5年 叙正7位。昭和8年 重要美術品等調査委員会委員を依嘱せらる。任東京美術学校教授、叙高等官4等東洋工芸史授業担任。叙正6位。昭和9年 東京美術学校より学科主任を命ぜらる。文庫課長を命ぜらる。帝室技芸員拝命。昭和10年 帝国芸術院会員被仰付。昭和11年 陞叙高等官3等、叙従5位、叙正5位。国宝保存会常務委員を命ぜらる。昭和18年 願により官を免ぜられ、東京美術学校教授の職を退く。昭和25年 文化財専門審議会専門委員となる。昭和28年 文化勲章を授与さる。昭和29年 宮中歌会始に召歌仰付らる。東京都世田ヶ谷区世田谷自宅に於て死去す。作品略年譜明治30年 東京美術学校卒業製作「上古婦人立像」 聖観音像(天岡均一合作)明治31年 日本美術協会展「獅子置物」(褒状1等)明治32年 日本美術協会展「作品」(褒状1等) 三嶋中洲翁銅像明治33年 巴里万国博覧会「作品」(銀賞牌)明治35年 東京彫工会青年研究会「古代鹿鈕万耳香炉」明治36年 橋本雅邦銀婚式祝賀贈呈品「銀印三個」明治37年 聖路易万国博覧会「鋳金銅印材」「鋳金銅硯」明治40年 東京勧業博覧会「鋳銅獅子香炉」(2等賞)明治42年 東京鋳金会展「朧銀鋳造花瓶」(妙技銀賞)大正2年 献上「菊花散ペン皿蝋製」大正3年 瑞獣置物(美術新報杜賞美賞)大正5年 東京鋳金会展「塗金唐草紋花瓶」(御買上)大正9年 農商務省第8回工芸展「亀鶴福寿文花瓶」大正11年 日仏交換展「獅子弄王水滴」 平和紀念東京博覧会「銀製春錦文釜」大正14年 朝鮮神社神鏡2面大正15年 一条家調度品「鉄瓶」昭和2年 第8回帝展「蝶鳥文八稜鏡」昭和3年 御成婚奉祝献上品「鋳金千鳥文花瓶」 第9回帝展「牡丹文鋳銅花瓶」昭和4年 第10回帝展「鹿鈕獅脚鋳銅香炉」昭和5年 第11回帝展「鋳銅牡丹透香炉」昭和6年 第12回帝展「雷文鋳銅花瓶」昭和7年 工芸三楽会展「象文尊式花瓶」昭和8年 第14回帝展「両耳★文花瓶」昭和9年 第15回帝展「台子飾」(合作)昭和11年 工芸済々会展「青銅獅子鈕水次」昭和12年 工芸済々会展「獅耳竜胆透香炉」 三聖代展「八角飾箱」昭和14年 第3回文展「月に兎釣香炉」昭和15年 紀元二六〇〇年奉祝展「鳴禽置物」昭和16年 第4回文展「鳳鈕香炉」(政府買上)昭和17年 第5回文展「唐銅★鈕香炉」昭和18年 第6回文展「★子透香炉」 松坂屋巨匠展「月兎香炉」昭和19年 戦時特別文展「鋳銅母と子獅子番炉」昭和21年 第2回日展「宝船香炉」昭和22年 東京都美術館記念展「金銅獅子」昭和23年 第4回日展「木兎香炉」 文部省巡回展「金銅笑獅子鈕香炉」昭和24年 同右「犬鹿四方香炉」 第5回日展「玉兎香炉」(貞明皇后へ献上)昭和25年 第6回日展「虎香炉」 文部省巡回展「鳩香炉」昭和26年 第7回日展「瑞禽飾三足香炉」昭和27年 第8回日展「騎獅弾琴菩薩香炉」昭和28年 第9回日展「みみづく香炉」著書目録日本古鏡図録 東京鋳金会刊 明治45年金銅仏写真集 東京鋳金会刊 大正元年続古京遺文(山田孝雄氏と共著) 宝文館刊 大正元年日本鋳工史稿(甲寅叢書第4編) 郷土研究杜刊 大正3年茶之湯釜図録 東京鋳金会刊 大正3年日本金燈籠年表 東京鋳金会刊 大正5年好古山陰迷求利(広瀬都巽、堀江清足両氏と共著) 東京鋳金会刊 大正9年熊野新宮手筥と桧扇(東京美術学校内) 工芸美術会刊 大正10年磬 工芸美術会刊 大正10年金鼓と鰐口 大正12年新撰釜師系譜 昭和5年仏具(錫杖)日本考古図録大成の内 日東書院刊 昭和6年支那の金工(大支那大系第10巻) 万里閣刊 昭和6年支那の金工について(啓明会講演集) 啓明会刊 昭和6年支那工芸図鑑第1冊金工篇 帝国工芸会刊 昭和7年日本金工史 雄山閣 昭和7年和鏡の話 美術懇話会刊 昭和7年新撰茶の湯釜図録 宝雲社刊 昭和8年「日本鋳工史」第1冊 郷土研究所 昭和9年水滴図解 政教社刊 昭和9年随筆「ふいご祭」 学芸書院 昭和10年鉄瓶図解 鉄瓶の会 昭和10年正岡子規を中心に 学芸書院 昭和11年歌集天の真榊 学芸書院 昭和11年和鏡図解 政教社 昭和13年中田の十一面観音金銅像 芸苑巡礼社刊 昭和14年大島如雲先生年譜 東京鋳金会刊 昭和16年金工史談 桜書房刊 昭和16年日本の鋳金(ふいごまつり、再版)現代叢書 三笠書房刊 昭和17年続金工史談 桜書房刊 昭和18年歌集還暦以後 科野雑記社刊 昭和22年鋳物師の話 講談社刊 昭和22年江戸鋳師名譜 (謄写版刷) 昭和27年

清水良雄

没年月日:1954/01/29

元帝展審査貴、光風会々員清水良雄は、1月29日広島県芦品郡で逝去した。享年63歳。明治24年東京に生れ、大正5年東京美術学校西洋画科を卒業した。同2年第7回文展の「調べの糸」をはじめ、連年文展に出品し、同6年第11回文展の「西片町の家」、同7年第12回文展の「二人の肖像」は共に特選となつた。同8年帝展となつてからも、その第1回展の「梨花」、11年第4回展の「肖像」によつて特選を受け、同14年以後屡々帝展審査員をつとめた。昭和2年光風会々員に推された。同20年4月以来広島県下に疎開し、終戦後は製作のかたわら地方文化の向上につとめ、同25年には広島大学の講師となつた。代表作には、前記のほか「兄妹」(第5回帝展)、「斜陽」(第11回帝展)、「少年」(第13回帝展)、「わが菜園」(戦時美術展)などがあり、その作風は典型的な官学風を守つていた。なおその遺志によつて、その主要作品と共に、遺産の大部分が東京芸術大学に寄贈され、これによつて記念財団が設立された。

後藤真太郎

没年月日:1954/01/27

株式会社座右宝刊行会取締役社長後藤真太郎は、腎臓炎で杏雲堂病院に入院加療中のところ、1月27日逝去した。享年60歳。明治27年5月28日、京都府に生る。京都絵画専門学校にて日本画を学んだが、この頃小出楢重と親交を結び、同じ頃「白樺」に刺戟され、また武者小路実篤の「新しき村」運動に参加した。およそ1年ののち昭和2年東京へ出た。この頃から白樺派の作家達と交つた。志賀直哉が「座右宝」(大正15年刊)を刊行したのち、同刊行会刊、岡田三郎助編纂の「時代裂」を手伝い、のち同会を引き継ぎ主宰者となる。以後、美学、美術史、建築、考古学関係の書籍及び画集等の専門的出版社として特異な存在となつた。此の間、日満文化協会評議員として中国・満洲方面へ毎年渡り、両国文化交流に出版面に於いて貢献した。又、昭和8年に創立した美術小団体「清光会」は、その会員にわが国の代表的な美術家を揃え、昭和29年の第19回展にいたるまで殆ど連年展覧会を開いて注目された。一方東西古美術品を愛し、陶器の蒐集家としても知られた。 主な刊行図書は、先の「座右宝」についで「聚楽」、「纂組英華」、「時代裂」、「Garden of Japan」、「熱河」、又、「考古学研究」を始めとする浜田青陵全集全4巻、伊東忠太の「支那建築装飾」(全9巻内6巻までで、博士死去のため未完成)水野清一・長広敏雄の「龍門石窟の研究」、池内宏「通溝」等である。戦後、雑誌「座右宝」を創刊したが、19号にして廃刊のやむなきに至つた。更に昭和26年より、水野・長広による「雲崗石窟」全15巻及び、田村実造・小林行雄の「慶陵」全2巻の刊行が始まり、両書共、夫々昭和27年、29年の朝日文化賞及び、日本学士院恩賜賞を受けた。自編著としては、「時代裂」(岡田三郎助共編)「華岳素描」「旅順博物館図録」等がある。

金井紫雲

没年月日:1954/01/19

元都新聞美術記者金井紫雲は、1月19日狭心症のため急逝した。享年66。本名泰三郎。明治21年1月2日埼玉県高崎に生れた。同35年上京、独学にて研鑚、この間坪内逍遙、田村江東等の薫陶を受けた。同42年中央新聞杜へ入社、社会部に勤務、大正10年都新聞社に移り、学芸部長となつて主に美術記者として活躍し、勤続15年に及んだ。その趣味はきわめて広く、美術だけでなく盆栽、花、鳥等にも専門的な研究を企て、多くの著書を遺した。主なものに「盆栽の研究」(大正3年)、「花と鳥」(大正14年)、「花鳥研究」(昭和11年)、「東洋花鳥図攷」(昭和18年)、「鳥と芸術」(同23年)、「東洋画題綜覧」(同16-18年)、「芸術資料」(48巻、同11年-16年)等がある。

狩野光雅

没年月日:1953/12/17

日本画家狩野光雅は昭和28年12月17日死去した。享年55歳。本名政次郎。明治30年和歌山県に生れ、大正8年東京美術学校日本画科を卒業、松岡映丘に師事した。同10年新興大和絵会結成に際して、これに参加し、解散まで出品をつづけ、主なものに「雨後落日」(3回)、「清晨静境」(5回)、「高野草創」(7回)等があり、昭和6年より帝展に作品を発表し、第12回帝展「紀ノ国の春」、第14回「飛爆」(特選)、昭和11年鑑査展に「雨後」等がある。昭和13年国画院結成に参加し、第1回展に「冬の陽ざし」(二曲半双)を出品した。作品はその経歴にみられる通り、伝統的大和絵画法を用い、壮大なモチーフを扱つて、追力ある力強い表現をみせた。

赤松麟作

没年月日:1953/11/24

関西洋画界の元老であつた赤松麟作は11月24日、大阪市天王寺区の自宅で喘息のため逝去した。享年75歳。岡山県津山に生れ、東京美術学校西洋画科選科を卒業、更に研究所に学んだのち、三重県や和歌山県の中学教員を暫くつとめた。この間、白馬会出品の「夜汽車」が白馬会賞となり注目をうけた。その後は大阪朝日新聞に勤務、或は大阪市立工芸学校、関西女子美術学校に勤める傍ら、文・帝展に出品をつづけ、つねに関西洋画壇の育成に尽力し、晩年には大阪府より知事文芸賞をうけた。略年譜明治11年 1月20日、岡山県津山に生れた。明治29年 東京美術学校西洋画科選科に入学。明治32年 同校卒業、更に同校研究科に学ぶ。明治33年 同研究科退学、三重県第一中学校教員となる。明治35年 白馬会展に「夜汽車」を出品、白馬会賞をうけた。明治36年 和歌山県新宮中学校教員となる。明治37年 大阪朝日新聞社に入社、紙上に挿絵執筆。明治41年 第2回文展に「迷子」初入選。明治43年 大阪梅田に赤松洋画研究所を開いた。明治44年 第5回文展に「午後三時」を出品褒状となつた。大正2年 第7回文展に「おきな」「鶏と子供」を出品、前者は褒状となつた。大正4年 朝日新聞社を退社。大正7年 光風会々員昭和2年 大阪市立工芸学校教員となる。昭和7年 帝展無鑑査となる。昭和11年 この年からは新文展に出品を続けた。関西女子美術学校教授となる。光風会退会。昭和12年 明治記念館壁画「明治天皇津村別院行幸図」を完成した。昭和15年 大阪市美術展覧会審査員となる。昭和16年 関西女子美術学校々長となる。昭和20年 大阪市立美術研究所教授。昭和23年 大阪府より知事文芸賞をうけた。昭和28年 11月24日、大阪市天王寺区の自宅で逝去。享年75歳。

跡見泰(ゆたか)

没年月日:1953/10/22

光風会々員、跡見学園理事、跡見泰は胃潰瘍で療養中であつたが10月22日浦和市の自宅で死去した。享年69歳。東京美術学校卒業後、白馬会々員となり、白馬会解散後は光風会を創設した。初期文展には続けて受賞し、昭和7年以後は帝展無鑑査、日展には出品依嘱者として出品していた。略年譜明治17年 5月23日、東京神田に生れた。明治36年 東京美術学校西洋画科選科卒業。明治39年 白馬会々員に推挙される。明治40年 第1回文展「夕の岬」3等賞となる。明治41年 第2回文展「晩煙」「初夏」「冬木立」、「晩煙」は3等賞となる。明治42年 第3回文展「砥石切」3等賞。明治43年 第4回文展「霧のたえま」。明治45年・大正元年 明治44年白馬会解散後中沢弘光、山本森之助等とともに光風会を創立、爾来会員として活躍。第6回文展「野路ゆく人」。大正2年 第7回文展「あみほし場」「夏の午後」。大正3年 第8回文展「瓜畑」「半島の漁村」「村へ行く路」。第3回光風会展「なぎさ」「静物」「崖づたひ」「くれがた」。大正4年 第9回文展「真似まなび」。大正6年 第5回光風会展「長閑」「夕日の丘」「落葉」「朝の光」「十日の月」。大正11年 フランスへ留学。滞仏中ナシヨナル・サロン、サロン・ドオトンヌ等に出品。大正13年 第5回帝展「河岸の村」。大正14年 帰朝。第6回帝展「寺」。第12回光風会展「セーヌ河」「坂道」「橋」「野遊びの日」「雪」「ラバクールの朝」「牧場の家」「早春」「シャラントンの河畔」「村はづれ」。大正15年 第13回光風会展「憩ひ」。昭和3年 第9回帝展「志木町」。昭和4年 第16回光風会展「かけわら」「晩秋」。第10回帝展「庭」。昭和5年 第17回光風会展「永代橋」「倉庫のある河岸」「石川島」「細雨の川口」。昭和6年 第18回光風会展「金仙花」「冬の庭」「山あひの村」「裸婦」。昭和7年 第19回光風会展「川原湯湯元」「草津みち」「川原湯温泉」。第13回帝展「入江」無鑑査。昭和8年 第20回光風会展「奔流」「漁船」「初冬」「渓流」「暮るる山路」「石神井公園三宝寺池」。第14回帝展「北国の漁村」無鑑査。昭和9年 第21回光風会展「漁村の夕」「佐渡七浦」。第15回帝展「山路を行く」無鑑査。昭和10年 第二部会展「夕の川岸」「静寂」。昭和11年 第23回光風会展「早春」「丘」。文展招待展「荷を積む船」。昭和12年 第1回文展「渓流」無鑑査。昭和13年 第25回光風会展「たそがれ」「静物」。第2回文展「白鷺城」無鑑査。昭和14年 第26回光風会展「晩秋」「漁港」。第3回文展「夕月」無鑑査。昭和15年 紀元二千六百年奉祝展「仮泊」。昭和16年 第4回文展「大漁の日」無鑑査。昭和17年 第29回光風会展「不二」。昭和18年 第30回光風会展「房総の海岸」。昭和19年 第31回光風会展「風景」。戦時特別文展「海の幸」。昭和21年 第1回日展「初冬」。第2回日展「静物」。昭和22年 第33回光風会展「夕焼」。第3回日展「月」。昭和23年 第34回光風会展「よし子ちゃん」。第4回日展「初秋静日」。昭和24年 第35回光風会展「静物」。第5回日展「秋郊」。昭和25年 第36回光風会展「静物」。第6回日展「のこんのひかり」。昭和26年 第37回光風会展「鮹壷」。第7回日展「嬉しい日」。昭和27年 第38回光風会展「晩秋」。第8回日展「赤い花」。昭和28年 第39回光風会展「午後の一時」。10月22日没。昭和29年 第40回光風会展遺作陳列。

樺山愛輔

没年月日:1953/10/21

日米協会長、国際文化振興会顧問、国際文化会館理事長樺山愛輔は、10月21日神奈川県の自邸で脳動脈硬化症に気管支肺炎を併発死去した。享年88歳。慶応元年故海軍大将伯爵樺山資紀の長子として鹿児島に生れ、若くしてアメリカ、ドイツに留学、壮年時代は実業界で活躍した。のち貴族院議員、枢密顧問官となり、また国際文化振興会、東洋美術国際研究会等の理事長として日本文化の海外紹介に尽し、戦後は社会教育事業のためグルー基金の創設や国際文化会館の建設に尽力した。また、黒田清輝の縁故者として美術研究所(現東京国立文化財研究所美術部)の創立と発展につくした。

上阪雅人

没年月日:1953/09/18

読み:こうさかがじん  木版画家上阪雅人は、明治10年5月12日御所書林、上阪庄次郎の三男として京都で生れた。山元春挙に師事し、19歳の折、第2回内国勧業博覧会に初めて花鳥画が入選受賞した。その後、図画教員をつとめていたが、30歳で上京し、白馬会洋画研究所で改めて洋画を学んだ。大正10年頃からは、木版による創作版画をはじめ、日本版画協会展に出品していた。また、図画教育についての関心もつよく、昭和5年の頃、文部省嘱託となり、啓明会から図画教育に関する研究の助成をえて、数冊の著述も遺している。作品は、春陽会、国画会、日本版画協会の展覧会に発表していたが、第二次大戦で罹災、全作品を焼失し仙台に疎開した。24年米国第9軍師団、ライダー司令官夫人の紹介で、ロスアンジェルスで個展を開き海外で注目される端緒となつた。25年1月上京し、26年にU・S・A・エデュケーションセンター、27年には仙台市、及びパリのチェルヌスキイ美術館で個展を開いている。晩年は抽象的傾向にうつり、墨刷の力強い作品をのこしているが、国内ではまとまつた展観の機会に乏しく、むしろ海外で好評、注目をうけていた。なお没後、31年にパリ、ニューヨーク、ウイーン、ローマ、等に於て遺作展が開かれた。

円城寺(えんじょうじ)昇

没年月日:1953/09/14

創元会々員、日展出品依嘱者であつた円城寺昇は9月14日世田谷区のアトリエで脳溢血のため逝去した。享年52歳。略年譜明治34年 6月26日千葉県香取郡に生れた。大正12年 千葉県立茂原農学校卒業。在学中に日本水彩画会に出品、入選したことがある。昭和2年 青山熊治に師事。東京美術学校西洋画科入学、藤島教室に入る。昭和4年 第1美術協会展に「岩」を出品、協会賞をうける。昭和5年 第11回帝展「風景」。昭和6年 第12回帝展「崖」。昭和7年 東京美術学校西洋画科卒業。第13回帝展「御宿風景」。昭和8年 第14回帝展「崖」。昭和9年 第15回帝展「断崖」。昭和11年 文展鑑賞展「岩」。昭和12年 第1回文展「杜」。昭和13年 第2会文展「森の中」。昭和14年 第3回文典「岩」。昭和15年 紀元二千六百年奉祝展「風景」。昭和16年 第1回創元会展「南総風景」。昭和17年 創元会々員となる。第2回創元会展「風景」「崖」。昭和18年 第3回創元会展「岩」。昭和22年 第6回創元会展「菜園の秋」「風景」。第3回日展「岩」。昭和24年 第8回創元会展「秋」。第5回日展「初秋」。昭和25年 第6回日展「岩」。昭和26年 第7回日展「岩」。昭和27年 第8回日展「崖」出品依嘱。第11回創元会展「岩」。昭和28年 9月14日没。

内田巌

没年月日:1953/07/17

新制作協会油絵部会員、日本美術会委員内田巌は7月17日食道癌のため東京世田谷の自宅で逝去した。享年53歳。明治の文芸評論家として著名であつた内田魯庵の長男として東京に生れ、東京美術学校西洋画科に入つて藤島武二に学んだ。大正15年同校卒業後は帝展、光風会等に出品していたが昭和5年渡欧、パリのアカデミー・ランソンに学んで7年に帰国した。昭和10年帝展改組の際に猪熊弦一郎、伊勢正義等と新制作派協会を設立して、最後まで同会々員として活躍した。終戦後は進歩的な美術家によつて結成された日本美術会の主要メンバーとなり、また23年には日本共産党に入党して党員となつた。27年頃より食道癌におかされ、入院、手術を受けたが、遂に回復しなかつた。主な作品に「若きハンガリー人」「岩」「母の像」「(東宝争議)歌声よおこれ」等があり、又文章もよくし著書に「絵画の美」「物射る眼」「画家と作品」「人間画家」「ミレーとコロー」「絵画青春記」「ミレー」「絵の上手な描き方」等がある。略年譜明治33年 2月15日内田魯庵の長男として東京牛込に生れた。母はよし。大正2年 暁星中学に入学。大正5年 4年の時早稲田中学校に転校。大正7年 早稲田中学校卒業。大正10年 東京美術学校西洋画科に入学。藤島武二に師事。大正15年 同校卒業。第7回帝展「白い上衣の少女」入選。昭和2年 6月吉居静子と結婚。7月東京佃島小学校に図画代用教員として奉職。第8回帝展「船のある風景」。昭和3年 第9回帝展「赤い帽子」。昭和4年 第16回光風会展に「果物を持てる女」「T婦人プロフィール」「明石海岸」を出品し、光風賞を受ける。第10回帝展「水兵服」。昭和5年 第17回光風会展「海岸」「赤いジヤケツ」「静物」を出品。光風会々友となる。6月父を失う。この秋モスクワ経由、フランスに渡る。パリでアカデミー・ランソンに学ぶ。昭和7年 4月帰国。第19回光風会展「ブロトンヌ」「少女」出品。第13回帝展「若きハンガリー人」。昭和8年 第20回光風会展「踊りのコスチューム」「ミゼール」「老人」「椅子にかけたる女」「青衣の女」「プチ・ゴス」「黒衣の娘」「老漁夫」出品、光風会々員となる。第14回帝展「白衣の少女」。昭和9年 第21回光風会展「佐渡の家」「相川の町」「船の男」「八丈島風景」「黒い岩(八丈島)」。第15回帝展「室内」。昭和10年 第二部会々員として第1回展に「子供達」を出品。昭和11年 第23回光風会展に「春」を出品、同会会員を辞退する。7月、当時の美術界の政治的抗争を排し、芸術運動の純化をめざして、猪熊弦一郎、中西利雄等とともに新制作派協会を創立した。第1回展「裸女をめぐる構想」「風」「風景」「雲」。昭和12年 第2回新制作展「葡萄」「史性」「港」を出品。昭和13年 第3回新制作展「野の光」「丘」「山」「海」「畠」「黄衣」「秋」。昭和14年 第4回新制作展「崖」「構想」「岩」。昭和15年 第5回新制作展「止水」。紀元二千六百年奉祝展「岩角生秋」。昭和16年 第6回新制作展「岩 三」「岩 一」「空(東洋画における翻案試作)」「白い服の子供」「岩 二」。昭和17年 第7回新制作展「日本の秋(大詔奉戴日)」「柄沢部隊長」「レース服の路子」「横顔」「少女と提灯」「母の像」。昭和18年 第8回新制作展「茉莉子像」「母の像」「影の顔」。昭和21年 第10回新制作展「風」「雲」「光」。進歩的美術家により日本美術会が結成され、その重なメンバーの一人となる。昭和22年 第11回新制作展「ミチコ像」「リサコ像」。昭和23年 第12回新制作展「少女像」「秋」「海辺」第2回日本美術会アンデパンダン展「歌声よ起れ」。日本共産党に入党。第2回美術団体連合展「たんぽぽ」。昭和24年 第13回新制作展「N青年の像」「秋」「嵐の中の三色旗」「宇宙盲点」。第3回美術団体連合展「平和を求むる人々」「徳永直像」。昭和25年 第14回新制作展「私の現代絵画考A(ギサク風の試作)」「同B」「同C」「同D」「同E」。第3回日本美術会アンデパンダン展「晴れたる日」。第4回美術団体連合展「春にして草木深し」。昭和26年 第15回新制作展「犠牲者A」「同B」。第4回日本美術会アンデパンダン展「歌人坪野哲久像」。第5回美術団体連合展「冬野」。昭和27年 第16回新制作展「一九五二年」。第5回日本美術会アンデパンダン展「秋(細川嘉六氏夫妻の像)」。秋ごろより健康を損う。昭和28年 4月千葉医大附属病院に入院、食道癌の診断をうける。6月27日1時退院、7月17日午後10時10分東京都世田谷区の自宅で死去。第17回新制作展遺作陳列。昭和29年 第6回日本美術会展に遺作陳列。

小室達(とおる)

没年月日:1953/06/18

日本陶彫会々員小室達は6月18日肺浸潤のため逝去した。享年53歳。杉並区の自宅で告別式が行われた。明治32年 8月10日宮城県柴田郡に小室源吾の三男として生れた。大正8年 宮城県立白石中学校卒業。東京美術学校彫刻科塑造部入学。大正11年 第4回帝展「想」。大正12年 東台彫塑会展「婦人胸像」「しな」。大正13年 東京美術学校彫刻科塑造部卒業。研究科にすすむ。帝都復興記念合同彫塑展「淵」妙技賞4席、「清穆」「自作像」出品。第5回帝展「曙光」。大正14年 第2回東台彫塑会展「習作」「すがた」。東台彫塑会々員となる。第6回帝展「構想」特選。大正15年 第7回帝展「洗心」無鑑査。昭和2年 第8回帝展「新月」帝展委員。昭和4年 第10回帝展「舞」無鑑査。昭和5年 第11回帝展「念」無鑑査。昭和6年 第12回帝展「抱和」無鑑査。昭和7年 第13回帝展「光芒」無鑑査。昭和10年 伊達政宗騎馬像(仙台)をつくる。昭和11年 文展招待展「踞める女」。昭和12年 第1回文展「銀河」無鑑査。昭和13年 第2回文展「架橋」無鑑査。昭和14年 第3回文展「髪」無鑑査。女武者木像2躯。(宮城県刈田郡斎川村甲冑堂)。昭和15年 紀元二千六百年奉祝展「立像」。昭和16年 第4回文展「座像」無鑑査。昭和18年 第6回文展「想」無鑑査。昭和24年 第5回日展「蝉声閑声」出品依嘱。昭和25年 第6回日展「遙かなる愁」。昭和26年 第7回日展「はるか」。昭和28年 6月18日世田谷区世田谷桜病院で病没。

漆原木虫

没年月日:1953/06/06

版画家漆原木虫は6月6日肺臓癌のため国立東京第二病院で死去した。享年64歳。告別式は世田谷区の自宅で行われた。名由次郎、明治21年東京に生れた。早くから木版彫刻の技術に習熟しており、19歳の時渡英、1910年の日英博覧会の折にはロンドンにいて、展覧会場において木版技術の実演を行つた。その後30年間ロンドンとパリに滞在して多くの版画を作り、日本の伝統的な木版技術による作品はイギリス、フランスの愛好家に好まれた。イギリスの画家フランク・ブランギンに認められ、彼の画を木版にした。自画、自刻、自摺の作品はヨーロッパでは暖く迎えられ、鑑賞された。大英博物館の嘱託にもなつた。昭和9年日本に帰り、帰朝後も版画を作つている。日本での作品には西洋の愛好家に特に評判であつた風景にも匹敵する馬や花の静物が含まれている。それらは白から灰色を通して深い黒い列なる階調に独自の美しさをみせている。しかし赤、緑、青と色彩を効果的に用いた「椿」のような作品もある。外人に木版を教え、また戦後は米国に作品を送つて、日本よりもむしろ外国で著名な作家であつた。

国吉康雄

没年月日:1953/05/14

米国に於いて国際的作家としての地位を築いた日本人画家国吉康雄は、5月14日ニューヨーク・グリニッチヴィレッジの自宅で、胃潰瘍のため死去した。享年63才。1889年(明治22年)岡山市の商家に生れ、小学校卒業後工業学校で染色を学んだが中退して、1906年17才の時英語習得の目的でアメリカに渡つた。 憧れの新天地も少年の夢からは遙かに遠く、鉄道掃除夫、ボーイ、運搬夫等の仕事に従い乍ら、英語を学んでいたが、数カ月にしてロスアンゼルス美術図案学校に転じた。ここで3カ年勉強をつづけ、その後紐育に移り、ナショナル・アカデミー・スクール、インデペンデント・スクール、アート・ステューデント・リーグ等に学ぶ。この間アート・ステューデント・リーグに於いてケネス・ヘイス・ミラーに友好的指導を受けてその画才をのばし、又多くの知友を得た。インデペンデント展、ペンギン展等に出品し、又1922年にはダニエル画廊に第1回の個展を開き、その後連続8回に亘り開催した。この頃の作品に「牛をつれる子供」「夢」等がある。1925年ヨーロッパに渡り、フランス近代絵画の影響をうけた。この渡欧を境として従来の素朴な空想的様式の時代を終り、次第に欧羅巴の近代絵画の要素が入り混んできて変化している。1928年再渡欧し、ユトリロ、スーチン、ピカソ等に深い感銘を受け、多くのリトグラフの制作をした。翌年紐育に新設された現代美術館に於ける「十九人の現存アメリカ作家展」の一人として選ばれ、この頃より彼の存在は漸く確かなものとなり、アメリカ現代美術展には殆ど参加し、1931年にはカーネギー・インスティチユートで受賞した。 同年病父を見舞うため日本に帰り、東京と大阪で個展を開き、携えてきた油彩と、版画数十点を展示した。併し当時の日本画壇におけるアメリカ美術蔑視の風潮と彼の一見地味な作風から大した反響も得られず翌年★々日本を去つた。この前年二科会々員となつた。帰国後のアメリカ画壇に於ける制作以外の活動も目覚しく、アメリカ美術家会議国内執行委員、展覧会委員会議長、アメリカ美術家会議副議長等の任にあたつて活躍した。又1948年紐育ホイットニー美術館で現存画家のための最初の企画として「国吉回顧展」を開催、米国各地の美術館、画廊、愛蔵家より集めた作品百数十点を一堂に集め、非常な好評を博した。亡くなる前年にはヴェニスのビェンナーレにアメリカ代表の四人の画家の一人として選ばれる等、アメリカ美術界に於ける栄誉は最高の位置に達し、30余年に亘るその足跡は日米美術界に永く明記されるべきものである。 作品は初期の空想的要素の多い地味なものから、晩年の鮮やかな色彩を加えた、生活感情の深い象徴ともみられる表現へと幾多の変化をみせているが、画面はどこか悲痛な哀愁と静寂をただよわせ、晩年の華やいだ色彩のかげにも東洋人らしい虚無的思想がうかがわれ、それらがアメリカ風の大まかな味と混り合つて特異な国吉芸術を生み出している。略年譜1889年(明22) 9月1日岡山市に中産階級の商人の一人子として生る。父宇吉。母糸子。1906年(明39) 小学校卒業後、工業学校で染色を学び中退。英語修学の目的をもつて9月渡米。夜学のパブリック・スクールに入学。ロスアンゼルス美術学校に転入学。鉄道工夫、ボーイ、傭農夫等して働く。1910年(明43) 秋ニューヨークに赴く。ヘンリー・スクールからナショナル・アカデミーに転じ2ヶ月後退学。1914年(大3) インデペンデント美術学校に入学。1916年(大5) 秋アート・ステューデント・リーグに入学、ケネス・ヘイス・ミラーの指導を受く。友人にアレキサンダー・ブルック、ペギー・ベーコン、カザリン・シュミッド等がいた。ペンギンクラブに入る。インデペンデント美術展初出品。ハミルトン・イスター・フィールドの庇護を受く。ペンギン展に出品。パスキンと交友を結ぶ。1919年(大8) 夏女流作家カザリン・シュミットと結婚。コラムビアハイツに定住。1921年(大10) ダニエル画廊に自作2点を陳列。1922年(大11) 1月ダニエル画廊に第1回個展開催。以後同画廊閉鎖まで8回に亘り個展開く。サロン・オブ・アメリカの理事になる。1923年(大12) 「牛と小さなジョー」、「果物を盗む子供」等の作品あり、この頃写真撮影により生活の資にした。1925年(大14) 春渡欧。「力持の女」制作さる。1927年(昭2) 「ゴルフをする自画像」制作。1928年(昭3) 再渡欧、フランスでリトグラフを試みる。1929年(昭4) 春帰米、ウッドスタックに画室を建てる。紐育近代美術館主催「十九人の現存アメリカ作家」展の一人に推さる。1931年(昭6) 11月、帰国。毎日新聞社主催により東京・大阪三越で個展開催。カーネギー国際展で受賞。1932年(昭7) 2月帰米。父死去。カザリン・シュミットと離婚。秋二科展に「サーカスの女」出品。1933年(昭8) アート・ステューデント・リーグ教授となる。ダウン・タウン画廊で個展を開く。以後7回開催。1934年(昭9) ロスアンゼルス美術館で2等賞を得。ペンシルヴァニア・アカデミーでテムプル金牌を得。1935年(昭10) 7月、サラ・マゾと結婚。「デイリーニュース」制作。グッゲンハイム奨学資金によりメキシコ、タオスを2ケ月に亘り旅行。1936年(昭11) ニュー・スクール・フォア・ソーシャル・リサーチの教授となる。1937年(昭12) アメリカ美術家会議の国内委員となる。展覧会委員会議長をつとむ。1938年(昭13) アメリカ美術家会議副議長の一人となる。「私は疲れた」制作。1939年(昭14) An American Group会長。カーネギー国際展2等賞、ゴールデン・ゲート展覧会、アメリカ部門1等賞。「お祭は終つた」「牛乳列車」「こわれた橋桁」「ひつくり返したテーブルとマスク」制作。1943年(昭18) カーネギー国際展に「誰かが私のポスターを破つた」を出品、1等賞になる。(『国吉康雄遺作展』国立近代美術館、1954年に拠る。)1944年(昭19) ペンシルヴアニア・アカデミーでヘンリー・シュミット記念賞を受ける。カーネギー研究所賞第1席。ヴァジニア美術館で購入賞を受く。1945年(昭20) シカゴのアート・インスティテュートのノーマン・ウェイト・ハリス青銅牌賞受く。1946年(昭21) 「飛ぶよ御覧」「疲れた道化師」他制作。1947年(昭22) 「ここは私の遊び場」制作。Artists’ Equity会長となる。1948年(昭23) 紐育ホイットニー美術館で回顧展開く。「マスク」(リトグラフ)「寡婦」(カゼイン)制作。1950年(昭25) メトロポリタン美術館主催「現代アメリカ絵画展」に「鯉のぼり」出品3等賞を得。1952年(昭27) ヴェニス、ビエンナーレにアメリカ代表の四人の画家の一人として選ばれ出品。第1回日本国際美術展アメリカ部に「私は疲れた」出品。1953年(昭28) 5月14日ニューヨーク・グリニッチ・ヴィレジの自宅で胃潰瘍のため死去。1954年(昭29) 1953年「代表作展」が日本で開かれる寸前逝去し、之が「遺作展」に替えられ、5月国立近代美術館に於いて開催された。

吉田苞(しげる)

没年月日:1953/04/27

光風会々員吉田苞は4月27日岡山市の自宅に於て十二指腸潰瘍のため逝去した。享年70歳。明治16年4月岡山市に生れ、同41年東京美術学校西洋画科を卒業後は終始官展に出品をつづけ、又光風会々員として同展にも作品を発表した。岡山県美術協会々員、大原美術館理事でもあつた。略年譜明治16年 4月25日岡山市に生れた。明治41年 東京美術学校西洋画科卒業。更に研究科に入る。明治43年 同校研究科修業。明治44年 麻布連隊へ志願兵として入隊、歩兵伍長として同年暮除隊。明治45年 岡山に帰る。大正4年 第9回文展へ「森」を出品、初入選となる。大正5年 第10回文展に「雁来紅」出品。大正6年 第11回文展に「赤松」出品。大正7年 第12回文展に「陶窯」出品。大正8年 第1回帝展に「峠の池」出品。第六高等学校講師となる。大正9年 渡仏。大正10年 帰朝、第3回帝展に「公園の朝」「ブルージュにて」(特選)を出品。大正11年 第4回帝展に無鑑査として「母と子」「木蔭」を出品、「母と子」は特選となつた。大正12年 光風会々員となり、以後帝展(第11回展迄)、光風会展に出品をつづけた。昭和4年 児島虎次郎の没後、同氏担当予定の壁画(対露宣戦御前会議)の揮毫を依嘱され、同9年に完成納入す。昭和10年 帝展廃止後二部会へ「奈良の森」出品。昭和17年 第六高等学校講師を辞任。昭和28年 岡山県文化賞を受く。4月27日、岡山市の自宅において逝去。

保尊良朔

没年月日:1953/04/22

本名良作。明治30年3月5日、長野県南安曇郡に生れた。日本美術院研究所に学び、大正11年日本美術院第9回展に「石灰焼」が初入選となつた。この頃は霊水の号を用いていた。その後、大正14年第12回院展に「柿若葉」、昭和3年第15回院展に「石花菜を乾す」、昭和8年第20回展に「鯉」(この時頃から良朔の号を用う)、昭和10年第22回展に「鵜籠」を出品している。日本美術院の試作展にも出品し院友となつたが、昭和12年9月日本美術院々友11名と共に同院を脱退し新に新興美術院を結成し同人となつて活躍した。同展に「石仏」「競馬」「馬二題」「舟正月」「あぐり舟」を発表、昭和25年更に、新興美術院同人中同志5名と共に再興新興美術院として発足、毎年春秋二季の展覧会を開き、「七面鳥」「早春風景」「明神池」等を発表していたが、4月22日逝去した。享年56歳。

宮坂勝

没年月日:1953/04/10

国画会会員、同会理事、武蔵野美術学校教授宮坂勝は国画会出品作を制作中脳溢血のため、大田区の自宅で死去した。享年58歳。略年譜明治28年 1月1日長野県南安曇郡に酒造業宮坂熊一の次男として生れた。母ミ江。大正2年 長野県松本中学校卒業。大正8年 東京美術学校西洋画科を卒業。大正12年 渡仏、アカデミー・モデルヌに入り、オットン・フリエスに師事。昭和2年 帰朝。第6回国画創作協会展に「女画家」「静物」「南フランス風景」「川べり」「裸婦」「アデン港」等滞欧作を出品、国画創作協会奨励賞を受け、同時に会友に推挙される。郷里松本において松本洋画研究会をおこす。昭和3年 上京。第7回国画創作協会展「初秋郊外」。昭和4年 1930年協会々員となる。第4回国画会展「林」「裸体」。昭和5年 国画会会員となる。以後毎年同会に出品を続ける。昭和6年 帝国美術学校教授となる。第6回国画会展「伊豆下田風景(一)」「同(二)」「同(三)」「伊豆須崎風景」「裸婦デッサン」。昭和8年 第8回国画会展「ポプラ」「浅間風景」。昭和9年 第9回国画会展「裸婦習作」「上高地風景」「下田風景」。朝鮮に旅行する。昭和10年 第10回国画会展「河港」「練光亭」「練光亭と大同門」。ハルピンに旅行。昭和11年 第11回国画会展「キタイスカヤ街」「大同江岸」「夏スンガリー」「大同門」。満州熱河に旅行。昭和12年 第12回国画会展「熱河風景(一)」「同(二)」「裸体」「熱河風景(三)」昭和13年 第13回国画会展「立てる裸婦」「腰かけたる裸婦」。第2回文展「裸婦立像」無鑑査。昭和14年 第14回国画会展「夕之雪山」「雪の南駒ヶ岳」「夕の西駒ヶ岳」。昭和15年 第15回国画会展「風景(1)」「同(2)」。紀元二千六百年奉祝展「憩い」。北支に旅行。昭和16年 第16回国画会展「立てる裸婦(デッサン)」「臥せる裸婦(デッサン)」「腰かけたる裸婦(デッサン)」。再び北支へ旅行。第4回文展「路傍群像」無鑑査。昭和17年 第17回国画会展「裸婦習作」「湖畔雪景」。第5回文展出品「北京北池子街」政府買上となる。昭和18年 第18回国画会展「波切風景」「北京風景(1)」「同(2)」。第6回文展「山湖初秋」無鑑査。昭和19年 第19回国画会展「早春」「雪」。戦時特別文展「秋色」。昭和21年 第20回国画会展「晩秋雑木林」「柿」。第1回日展出品「スケート」特選となる。第2回日展出品「湖畔」特選。信州美術会を結成、同会幹事、審査員となる。昭和22年 第21回国画会展「雪三題(A)」「同(B)」「同(C)」。昭和23年 第22回国画会展「早春」「裸婦」「残雪」。第2回美術団体連合展「山湖新緑A」「同B」。昭和24年 第23回国画会展「湖畔」「雪山」「裸婦」。第3回美術団体連合展「裸婦」。昭和25年 第24回国画会展「晩秋(B)山は雪」「晩秋(A)凩の後」「晩秋(C)静かな湖」。第4回美術団体連合展「山村新緑」「裸婦」。昭和26年 第5回美術団体連合展「風景」。この年末頃より喘息に悩む。昭和27年 第26回国画会展「寝ている裸婦」「立つている裸婦」「腰かけている裸婦」。昭和28年 喘息によつて心臓を痛め、第27回国画会展出品のため「夏の湖」を製作中、未完成のうちに4月10日脳溢血により逝去。国画会展に遺作陳列。松本市より地方文化向上に寄与した功績により功労賞をうけた。

矢崎美盛

没年月日:1953/04/07

東京大学文学部教授文学博士矢崎美盛は、4月7日胃癌のため世田谷の国立第二病院で没した。享年58歳。明治28年山梨県東山梨郡に生る。大正5年第一高等学校を、同8年東京帝国大学文学部哲学科を卒業した。同12年ドイツ、フランス、イタリア等に留学し、同14年法政大学教授、同15年東京帝国大学文学部講師となつた。昭和2年九州大学法文学部助教授に任ぜられ、同10年教授に進み、この間、同3年ドイツ、フランス、イタリア、アメリカ等に留学した。同16年京城帝国大学教授を兼任した。同23年東京大学教授に転じ、九州大学教授を兼ね、美学、美術史を担当した。また皇太子殿下御進講を嘱託され、大正大学、東北大学、法政大学、早稲田大学の講師となり、後進を指導した。著書に「様式の美学」(創元社)、「芸術学」(弘文堂)、「少年美術館」(岩波書店)、「マリアの美術」(岩波書店)、「絵画の見方」(同上)などがある。

九里四郎

没年月日:1953/03/01

洋画家九里四郎は3月1日長野県飯田市飯田病院で胸部疾患のため死去した。享年67歳。明治19年東京に生れ、学習院から明治43年東京美術学校西洋画科を卒業した。池部鈞、藤田嗣治、近藤浩一路等と同級で明治44年欧州に留学した。在学中すでに明治40年の第1回文展に「霧の榛名野」が初入選となり、同41年の第2回文展には「蔵」が入選、3等賞となり、43年第4回文展の「老人」も3等賞となつた。然し帰朝後は官展風の自然描写を棄て、強い主観的表現をとる様になり、文展内に於ける二科制設置運動に加わつたが当局に容れられず、官展を離れた。大正3年二科会創立に際してその鑑賞委員に選ばれたが辞退し、第4回展に「庭」「静物」他4点を出品した。その後も二科会に出品していたが、のち料理屋を経営したり、風物を描きながら生涯を送つた。

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