本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)





吉田千鶴子

没年月日:2018/06/09

読み:よしだちづこ  近代日本の美術史研究者であった吉田千鶴子は、6月9日松戸市内の病院で死去した。享年73。 1944(昭和19)年、群馬県に生まれる。群馬県立前橋女子高等学校を卒業、東京藝術大学美術学部芸術学科に進学し、68年3月卒業。同大学大学院に進み、吉沢忠教授のもとで東洋美術史を学び、71年3月に同大学院修士課程を修了。同年4月から同大学美術学部非常勤助手となる。後に同大学美術学部教育資料編纂室助手となる。81年から2003(平成15)年まで、『東京芸術大学百年史』編纂に従事した。同編纂事業では、一貫してその中心となり、同大学の前身東京美術学校開校時から現在までの資料を広範に調査収集し、精緻な考証と丹念な記述によって、下記のように浩瀚な年史にまとめあげた。同書は、一学校、大学の歴史にとどまらず、日本の近代美術の形成史となる内容であり、斯界の研究にとって基本文献、基礎資料となっている。 財団法人芸術研究振興財団、東京芸術大学百年史編集委員会編『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇一』(ぎょうせい、1987年) 同上編『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇二』(ぎょうせい、1992年) 同上編『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇三』(ぎょうせい、1997年) 同上編『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇別巻「上野直昭日記」』(ぎょうせい、1997年) 同上編『東京芸術大学百年史 美術学部篇』(ぎょうせい、2003年) その後、08年から15年まで、東京文化財研究所客員研究員。12年から16年まで、東京藝術大学総合アーカイブセンター特別研究員を務め、茨城大学五浦美術文化研究所客員研究員でもあった。 研究者としては、この編纂事業の過程で、日本の美術史学の史的形成にも関心を深め、岡倉天心をはじめとする教育者たちの研究もすすめた。また東京美術学校の時代から、同大学が東アジアにおける近代的、組織的な美術教育の拠点だったところから、留学生の研究もあわせておこない、その成果は『近代東アジア美術留学生の研究 東京美術学校留学生史料』(ゆまに書房、2009年)にまとめられた。同時に、中国、台湾等の近代美術研究者との交流も深まり、12年から、杭州師範大学弘一大師・豊子愷研究中心客員研究員を務め、また各地域の大学等での講演、シンポジウムへの参加等を通じて研究交流を果たした。 論文、発表等は数多く残されているが、主要な著作は下記のとおりである。 磯崎康彦共著『東京美術学校の歴史』(日本文教出版、1977年) 山川武共編『日本画 東京美術学校卒業制作』(京都書院、1983年) 責任編集『木心彫舎大川逞一回想』(三好企画、1906年) 大西純子共編『六角紫水の古社寺調査日記』(東京芸術大学出版会、2009年) 『「日本美術」の発見 岡倉天心がめざしたもの』(吉川弘文館、2011年) 後藤亮子編修協力『西崖中国旅行日記』(ゆまに書房、2016年) 20年以上にわたる上記編纂事業を通じて蓄積された知見と研究成果は、日本、東アジアの近代美術史、ならびに日本における「美術史」形成過程の一端を膨大な資料を通じて実証したものであり、その功績は大きい。

福富太郎

没年月日:2018/05/29

読み:ふくとみたろう  美術品蒐集家の福富太郎(本名、中村勇志智)は5月29日死去した。享年86。 1931(昭和6)年10月6日、東京・大井町に生まれる。幼いころから父親と叔父が絵の話をしているのをそばで聞いて育ち、3歳の頃には父親が買って見せてくれた鏑木清方の作品に心打たれる経験をする。小学校時代には小説に興味を持ち、商店であった親戚の家で店員たちが読んでいた本や雑誌の挿絵をとおして、鏑木清方をはじめ、池田蕉園・輝方、北野恒富らを知る。太平洋戦争が勃発すると少年飛行兵を志すようになり、また同じ頃には靖国神社の遊就館で戦争画に触れ、いつか蒐めたいという思いを抱くようになった。43年頃には強制疎開で中延へと移り、44年小学校を卒業すると東京府立園芸学校へ進学する。同年12月父親が亡くなり、翌45年5月24日の空襲で自宅も焼失。このとき父親が大切にしていた清方の絵が焼けてしまい、また残った作品も生活のために手放してしまったという。福富は後年、絵を買うようになった背景には、その贖罪の意識も少なからずあったと語っている。47年秋に園芸学校を中退した福富は、銀座通りでたまたま目にした「カウンター・ボーイ募集」の広告に応募し、ニューギンザ・ティールームという喫茶店で働きはじめる。その後49年9月に新宿のキャバレー、新宿処女林のボーイとなり、57年11月神田今川橋に巴里の酒場(21人の大部屋女優の店)というキャバレーを開店して独立、64年9月には銀座八丁目に銀座ハリウッドをオープン、全盛期には直営店29、チェーン店15を誇ったという。 福富が初めて美術品をコレクションしたのは20歳のとき。勤めていた新宿のキャバレーの支配人に抜擢され、その際の臨時収入で清方の「祭さじき」を購入したのがはじまりであった。福富は美人画について、ただ綺麗なだけの絵には興味がなく、時代時代の世相を反映した、現実の生活を生きているような女性像を蒐めたいと語っている。50年代後半からは浮世絵の蒐集に着手するも、そのころにはすでに浮世絵の流通も落ち着き、思うように蒐集が進まなかったことから、福富は謎の浮世絵師とされていた写楽に目をつけ、その謎解きに邁進。写楽と司馬江漢とを結びつけるアイデアをまとめ、69年10月『写楽を捉えた』(画文堂)を刊行した。その一方で、福富の関心は次第に浮世絵版画から一点ものの肉筆浮世絵、さらには近代美術へと移っていく。63年にはたまたま手に入れた恵比寿と大黒を描いた掛軸が河鍋暁斎のものであったことから、暁斎作品の蒐集に乗り出し、1年で140~150点ほどを蒐めたという。翌64年には鏑木清方の作品を、市場に出たものは一本たりとも逃すまいという気構えで本格的に蒐めはじめる。同じ頃には池田蕉園・輝方夫妻の作品も蒐集しはじめるが、当時はまだその名を知る人も少なく、競争相手はほとんどいなかったという。また明治100年の回顧ブームで明治の洋画を目にする機会が増え、その魅力に惹かれていた福富は、64年に日動画廊がオープンしたのをきっかけに洋画のコレクションを開始、同画廊から吉田博の「笹川流れ」をはじめ、のちの福富洋画コレクションの核となる明治中期の作品を購入した。67年にははじめて鏑木清方を訪問、それまでに蒐めた清方作品を披露する。なかでも「薄雪」は清方自身焼けてしまったと思っていたこともあり、心底驚かれたという。以来福富は清方の作品が手に入ると、持参して披露するようになった。73年12月には岡田三郎助の「あやめの衣」を購入。同作はある銀行へ顧客から持ち込まれたものであったが、女性像は買わないとする銀行の方針によって、福富のもとへ持ち込まれたものであった。「あやめの衣」は切手にもなり、福富コレクションのなかでもよく知られた作品であったが、福富は熟慮の末、この作品を1997(平成9)年に手放している。その背景には、愛蔵する作品は大切に次の世代へ伝えたいという思い、絵という財産は預かっているだけで個人のものではなく、出来るだけ多くの人に見てもらい、絵の管理者として相応しい人物に持っていてもらうべきという思いがあったという。そのため公開にも積極的で、73年1月に「福富太郎コレクション 日本の美人画展」(新宿・伊勢丹)、82年1月に「異色の日本美術展」(東京セントラル美術館)、93年1月に「描かれた美しき女性たち 近代美人画名作展―福富太郎コレクション―」(銀座・松坂屋)、98年1月に「近代日本画に見る 美人画名作展 耽美の時―福富太郎コレクション」(大阪・ナビオ美術館)等を開催している。 著書に『絵を蒐める 私の推理画説』(新潮社、1995年)、『描かれた女の謎 アート・キャバレー蒐集奇談』(新潮社、2002年)等がある。

宮崎進

没年月日:2018/05/16

読み:みやざきすすむ  多摩美術大学名誉教授の造形作家宮崎進は5月16日心不全のため死去した。享年96。 1922(大正11年)2月15日、山口県徳山市(現、周南市)に生まれる。1928(昭和3)年徳山尋常高等小学校に入学。35年に岸田劉生の画友であった徳山在住の洋画家前田麦二(米蔵)の指導を受け、油彩画を学ぶ。芝居小屋に出入りする前田の影響で地域の舞台の書割、大道具等も手掛ける。38年、上京して本郷絵画研究所に入り、39年日本美術学校油絵科に入学して大久保作次郎、林武らの指導を受ける。42年、同校を繰り上げ卒業して応召し、外地勤務を希望してソ満国境守備隊に所属。45年8月に東北満州の鏡泊湖付近に野営中に終戦を迎え、ソ連軍によって武装解除し、同年12月にシベリア鉄道にて移送される。以後、各地の収容所を転々とする中で、抑留生活3年目頃から美術品の模写や肖像画の制作を行う。49年12月に徳山に帰還。宮崎はシベリア抑留について「ここにあった絶望こそ、私に何かを目覚めさせるきっかけとなった。生死を超えるこの世界で知った、人間を人間たらしめている根源的な力こそ、私をつき動かすものである」と記している(『鳥のように シベリア 記憶の大地』岩波書店、2007年)。50年に広島、長崎を訪れる。51年に上京して雑誌のカットなどを描く。56年寺内萬治郎に師事し、57年第43回光風会展に「静物」を出品。同年第13回日展に「静物」を出品。以後、これら二つの団体展に出品を続ける。59年第45回光風会展に「〓東」を出品してプールブー賞受賞。60年の同会に「〓東A」「〓東B」を出品して光風会賞を受賞、同会会友に推される。61年第5回安井賞候補新人展に「〓東」を出品。63年第49回光風会展に「廃屋」を出品し、同会会員に推挙される。65年6月、資生堂ギャラリーにて初個展を開催し、「石狩」「さいはて」など16点を出品。同年11月、第8回新日展に「祭りの夜」を出品して特選受賞。同年第9回安井賞候補新人展に「北の祭り」「祭りの夜」を出品。67年第10回安井賞展に「見世物芸人」を出品し安井賞を受賞。この頃の作品は祝祭的な場の中に刹那的で漂泊する人間をとらえたものが多い。72年4月第58回光風会展に「よりかかる女」を出品。同年7月に渡仏し74年10月までパリを拠点にオーストリア、スイス、ノルウェー、ドイツ、イタリア、スペイン、ポルトガル、チェコスロバキアなどを巡遊。この渡欧は、多くの西洋美術作品に触れ、人体や光の表現について捉えなおす契機となった。72年より日展への出品をせず、73年より光風会へも出品せず77年に同会を退会して無所属となる。以後、個展やグループ展で作品を発表。77年第16回国際形象展に「おどる女」を出品し、以後、80年まで同展に出品を続ける。79年第1回「明日への具象展」に「ラブリーガール」を出品し、以後84年まで出品を続ける。同年、ソ連各地を旅行。風景画や抑留を主題とする作品は50年代から継続的に描かれていたが、80年ころから主要なテーマとなり、「TORSO」など多様な材料を用いた重厚なマチエールの作品が制作されるようになる。86年9月池田20世紀美術館にて「宮崎進の世界展」を開催し、「さいはて」「冬の光」ほか54点を出品。76年から多摩美術大学講師となって後進を指導し、1992(平成4)年に退任し、以後、客員教授を務める。同年6月に同学美術参考資料館にて「宮崎進 多摩美術大学退職記念」が開催される。93年、ニューヨークのアルファスト・ギャラリーにて「宮崎進」展を開催し、ニューヨーク、ワシントン、ボストンなどアメリカ東海岸を訪れる。94年「漂う心の風景 宮崎進展」を下関市立美術館ほかで開催。95年小山敬三賞を受賞し、「小山敬三賞受賞記念 宮崎進展」を開催。97年、京都市美術館にて「シベリア抑留画展」を開催。98年芸術選奨文部大臣賞を受賞。同年、多摩美術大学附属美術館館長となり、99年に同学名誉教授となった。2004年第26回サンパウロビエンナーレ国別参加部門に日本代表として「シベリアの声」という主題のもとに「冬の旅」「泥土」ほか12点を出品。抑留体験を畳み込んだ重厚な質感を持つ力強い作品で注目される。05年8月、周南市美術博物館にて「宮崎進展 生きる意味を求めて」、14年4月神奈川県立近代美術館にて「立ちのぼる生命 宮崎進展」が開催された。郷里の周南市美術博物館に初期から晩年まで200点を超える作品が収蔵されており、宮崎は09年4月から没するまで同館名誉館長を務めた。

加古里子

没年月日:2018/05/02

読み:かこさとし  『だるまちゃんとてんぐちゃん』『からすのパンやさん』等の作品で知られる絵本作家で児童文化研究家の加古里子は5月2日、慢性腎不全のため神奈川県藤沢市の自宅で死去した。享年92。 1926(大正15)年3月31日、福井県今立郡国高村(旧、武生市。現、越前市)に生まれる。本名中島哲。1933(昭和8)年、7歳の時に東京に転居。中学時代に航空士官を志すも近視が進み断念。後に子供と向き合う創作活動を続けることとなったのは、軍国少年だった自分のような判断の過ちを繰り返さないように、という悔恨が根底にあったという。技術者を目指し、45年東京帝国大学工学部応用化学科に入学。在学中に大学の演劇研究会に入会し、舞台装置と道具類のデザイン・製作を担当。地方公演の際、子供達の反応に感動して童話劇の脚本を書き始める。48年昭和電工に入社。会社勤務の傍ら、焼け野原にバラックが立ち並ぶ川崎市で、地域福祉の向上を図るセツルメント活動に従事し、紙芝居や幻燈作品の制作から子供の心をつかむ物語作りを身につける。セツルメント活動で知り合った仲間の紹介により、59年にダム建設の仕事をテーマにした『だむのおじさんたち』(福音館書店)で絵本デビュー。化学を専門としていたことから多くの科学絵本の依頼が舞い込み、地球や生物、人間の身体、土木、気象等、様々な分野の絵本を手がける。『かわ』(福音館書店、1962年)は63年に第10回産経児童出版文化賞大賞を、『海』(福音館書店、1969年)は70年に第12回児童福祉文化賞を受賞。一方で67年の『だるまちゃんとてんぐちゃん』(福音館書店)をはじめとして、累計389万部発行された“だるまちゃん”シリーズでは、日本の子供に馴染み深いだるまや天狗等の伝統的なキャラクターを生かし、想像の世界へとつなげる物語を創作。60年代後半よりテレビに出演し、教育テレビ等の司会やコメンテーターを務める。73年に昭和電工を退社。同年初版の『からすのパンやさん』(偕成社)は240万部を超えるロングセラーとなった。75年に幼少期の暮らしと遊びの体験をもとにしたエッセイ集『遊びの四季』(じゃこめてい出版)で第23回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。79年から数年にわたり東京大学教育学部等で非常勤講師を務め、実地で学んできた子供と教育について講じる。児童文化研究家としても知られ、絵かき歌、石けり、鬼ごっこ、じゃんけんの資料を収集、分析した全4巻の『伝承遊び考』(小峰書店、2006~08年)を執筆、2008(平成20)年に同書と長年の児童文学活動の業績により菊池寛賞を受賞した。13年、生まれ故郷の福井県越前市にかこさとしふるさと絵本館「■」が開館。亡くなる年の1月には、東日本大震災で被災した東北地方に思いを寄せた『だるまちゃんとかまどんちゃん』(福音館書店)等、“だるまちゃん”シリーズ3冊を同時刊行、生涯現役を通し600冊を超える著作を残した。19年より「かこさとしの世界」展がひろしま美術館を皮切りに全国各地で開催されている。

山口勝弘

没年月日:2018/05/02

読み:やまぐちかつひろ  ビデオ等映像を用いた現代美術家で、筑波大学名誉教授の山口勝弘は、5月2日に敗血症のため死去した。享年90。 1928(昭和3)年4月22日、東京市大井(現、東京都品川区)に生まれる。幼いときから工作を好み、船舶、飛行機などに興味を示していた。45年日本大学工学部に入学、建築科で学び、美術部に入る。日比谷のCIEライブラリー(後のアメリカンセンター)で、哲学、文学、美術書にふれ、ポロックやキ―スラー、モホリ=ナギらを知る。48年日本大学法学部法律学科に入学、美術クラブを創設する。このころ文化学院のモダンアート研究会に参加し、出席していた北代省三や福島秀子らと七耀会を結成、48年11月北荘画廊の展覧会にレリーフ作品を発表する。49年読売アンデパンダンに出品、以後同展にはほとんど出品をする。アヴァンギャルド研究会、世紀の会をへて、50年美術家だけでプボアールの会を結成、後の実験工房となる。51年、髙島屋のピカソ展前夜祭でのバレエ「生きる悦び」の美術を担当、以後、工房の活動に深く関わっていく。同年、ガラスを組み合わせたレリーフ「ヴィトリーヌ」を発表する。52年初個展(銀座、松島画廊)。61年「現代のビジョン展」(サトウ画廊)に出品、同年秋からヨーロッパ、アメリカへ初の海外旅行、フルクサスのメンバーやキースラーのアトリエを訪問。帰国後、提灯のような表面だけで成立する布張り彫刻を制作する。64年「オフ・ミューゼアム展」(新宿、椿近代画廊)に出品。66年第7回現代日本美術展に光を組み込んだ立体作品「Cの関係」を発表、自身「光彫刻」と名付けた60年代の主要な傾向をしめしている。同年、銀座松屋で開催の「空間から環境へ展」では、エンバイラメントの会を結成し、デザインや建築、音楽といった多様なジャンルの作家とのコラボレーション、パフォーマンスを行う。67年グッゲンハイム国際展で60年代の彫刻として「港」が選出される。同年第4回長岡現代美術館賞展で大賞を受賞。68年「現代の空間―光と環境展’68」(神戸、そごう百貨店)、この年、海外展では第34回ベニス・ビエンナーレをはじめ、「螢光菊展」(ロンドン、現代美術研究所)、69年には「アルス’69展」(ヘルシンキ、アテナウム美術館他)に参加する。同年、銀座ソニービルでの「エレクトロ・マジカ’69」では「テクノロジーの創造的果実をみせるサイテック・アート」として国内外15作家の中心的な役割を担った。70年の大阪万博では、三井グループ館の会場構成を行なう。72年からビデオを中心とした芸術活動「ビデオひろば」に参加。74年、第11回日本国際美術展に特設されたビデオ部門に「ラス・メニナスNo.1」を発表。75年第13回サンパウロビエンナーレで特別賞受賞。77年「大井町付近」をはじめとするビデオラマシリーズを開始。70年代は国際的に様々なビデオアート展に出品、日本のビデオアートの紹介をこなしていった。81年個展(神奈川県民ホールギャラリー)。82年テクノロジーとニューメディアによる表現領域の拡張を図った「グループ・アールジュニ」設立に参加。同グループは88年まで毎年「ハイテクノロジー・アート展」を全国で開催した。86年個展(兵庫県立近代美術館ほか)。1989(平成元)年名古屋でのデザイン博覧会で「アーテック’89」をプロデュース。90年、淡路島芸術村計画の推進運動をはじめる。92年個展(愛知県美術館)。90年代にはこれまでの制作を展望する、エレクトロニクスの画像によるイメージの想像およびネットワーク「イマジナリウム」を提唱する。93年第14回ロカルノ国際ビデオアートフェスティバルでヨーロッパ委員会名誉賞受賞。94年、淡路島に制作展示の拠点「淡路島山勝工場」を設立。2001年第42回毎日芸術賞受賞。06年個展(顔曼荼羅シリーズを発表、神奈川県立近代美術館)。03年第7回文化庁メディア芸術祭で功労賞。 著作に、『不定形美術ろん』(学藝書林、1967年)では、現代テクノロジーと社会生活を射程に入れた美術論を展開している。『作品集 山口勝弘360°』(六耀社、1981年)、ライフワークともいえる『環境芸術家キースラー』(美術出版社、1978年)、『パフォーマンス原論』(朝日出版社、1985年)、『ロボット・アヴァンギャルド』(PARCO出版局、1985年)、『映像空間創造』(美術出版社、1987年)、『メディア時代の天神祭』(美術出版社、1992年)、『UBU遊不遊』(絶版書房、1992年)、『生きている前衛 山口勝弘評論集』(井口壽乃編、水声社、2017年)などがある。 教育歴として、77年筑波大学芸術学系教授に就任(1992年名誉教授)。92年神戸芸術工科大学視覚情報デザイン学科教授(1999年名誉教授)など。2000年から02年まで環境芸術学会会長。 90年代、東京都現代美術館企画運営委員会委員など多くの美術館の評議員も務めた。

藤枝晃雄

没年月日:2018/04/26

読み:ふじえだてるお  批評家、美術史家で武蔵野美術大学名誉教授の藤枝晃雄は4月26日、誤嚥性肺炎のため死去した。享年81。 1936(昭和11)年9月20日福井県武生市(現、越前市)本町生まれ。生家は浄土真宗本願寺派の陽願寺。本名照容(てるかた)。 61年東京藝術大学美術学部芸術学科卒業(在学中は新聞部、卒論は「マルセル・デュシャン」)。67年京都大学大学院美学美術史学専攻修士課程修了(在学中の63年から65年、ペンシルヴェニア大学大学院に留学、修論は「現代アメリカ美術研究」)。69年武蔵野美術大学講師として就任、80年に教授(2006年退任)。75年ニューヨーク近代美術館客員研究員。2002(平成14)年「ジャクソン・ポロック」で文学博士(大阪大学)。 藝大在学中に次代美術会設立に参加し同人誌『次代美術』を創刊、2号(1959年)に「残存の美術評論」を寄稿。60年代半ばから美術雑誌をはじめ、詩誌『VOU』(藝大在学中から参加)、建築雑誌、富士ゼロックスのPR誌『グラフィケーション』等幅広く執筆をはじめる。 著書に、アメリカ抽象表現主義を中心に近現代美術の状況と自らの批評の立脚点を示す『現代の美術9 構成する抽象』(講談社、1971年)。60年代末から70年代半ばまでの評論をまとめた『現代美術の展開』(美術出版社、1977年)。『世界の素描33・マティス』(講談社、1978年)。ライフワークともいえる『ジャクソン・ポロック』(美術出版社、1979年。改訂版、スカイドア、1994年。新版、東進堂、2007年)。マネからモンドリアンまで15名の近代画家を論じた『絵画論の現在』(スカイドア、1993年)。『現代美術の不満』(東信堂、1996年)。『現代芸術の彼岸』(武蔵野美術大学出版局、2005年)。初期からの晩年までの評論のアンソロジーとして『モダニズム以後の芸術』(対談や編者のコラムを含む。東京書籍、2017年)等がある。共著・編著・共編著に『空間の論理 日本の現代美術』(ブロンズ社、1969年)、『芸術的世界の論理』(創文社、1972年)、『ジャズ』(青土社、1978年)、『講座・20世紀の芸術』(岩波書店、1989―90年。3巻芸術の革命、7巻現代美術の状況、8巻現代芸術の焦点、9巻芸術の理論)、『アメリカの芸術』(弘文堂、1992年)、『芸術理論の現在 モダニズムから』(東信堂、1999年)、『西洋美術史への視座』(勁草書房、1988年)、『芸術学フォーラム・西洋の美術』(勁草書房、1992年)、『絵画の制作学』(日本文教出版、2007年)等。編訳書として『グリーンバーグ批評選集』(クレメント・グリンバーグ著、勁草書房、2005年)等。監修に『日本近現代美術史事典』(多木浩二と共監修、東京書籍、2007年)等がある。 企画展に、「絵画の問題展 Art today’80」(西武美術館、1980年)、「今日の作家展」(横浜市民ギャラリー、1980年)、「見ること/作ることの持続 後期モダニズムの美術」展(武蔵野美術大学、2006年)など。現代思想へのコンタクトを常とし、クレメント・グリーンバーグの批評を基軸にフォーマリズムの視点から、作品の質を問うべく徹底的に視る批評を展開、時に舌鋒激しい物言いは他に類がなかった。アメリカや日本の現代美術について鋭い批評を残した。

三木多聞

没年月日:2018/04/23

読み:みきたもん  美術評論家で、国立国際美術館長などを歴任した三木多聞は、4月23日急性心不全のため没した。享年89。 1929(昭和4)年2月6日、現在の東京都北区中里に生まれる。父は、彫刻家の三木宗策。早稲田大学第二文学部芸術学科を卒業後の52年に開設時の国立近代美術館に採用。以後、82年まで東京国立近代美術館の事業課長、美術課長、企画課長を歴任した。72年9月、同美術館の開館20年を記念して「現代の眼-近代日本の美術から」展が開催され、74年に同展の記念図録を刊行。つづいて73年9月、同美術館において「近代日本美術史におけるパリと日本」展を開催し、75年には同展の記念図録を刊行した。両展とも、当時としては規模も大きく、その中心となって担当して図録の編集執筆にあたったが、前者は日本の近代美術を批評的にとらえなおそうとする試みであり、後者は、ヨーロッパ近代美術の受容史として見なおす内容であった。81年12月、同美術館において「1960年代-現代美術の転換期」展を企画担当し、国内外で活躍する日本の美術家72名を網羅し、日本の現代美術を横断的に俯瞰しようとする画期的な内容であった。 82年、文化庁文化財保護課企画官に異動。86年、国立国際美術館に館長として赴任。同美術館を退職後の1992(平成4)年から97年まで徳島県立近代美術館長。また、徳島県立近代美術館在職中、併任して95年から2000年まで東京都写真美術館長を務めた。01年に勲三等旭日中綬章を受けた。 また、海外での活動としては、75年、アントワープ・ミデルハイム国際彫刻ビエンナーレ展コミッショナー、81年と83年、サンパウロ・ビエンナーレ展コミッショナー、85年、リュブリアナ国際版画ビエンナーレ展審査員などを務めた。 東京国立近代美術館在職中から、勤務の傍ら各種のコンクールの審査員や新聞雑誌、展覧会カタログ等に旺盛に執筆をして、近代、現代彫刻を中心に広く批評活動をつづけた。そうした視野の広さと交友の広さから、70年代から80年代にかけては美術評論の分野で重きを置いていた。90年7月、柏市文化フォーラム104主催で第1回TAMON賞展(会場、〓島屋、千葉県柏市)が開催された。同展は、現代絵画の分野で若手美術家を育成する目的で、三木多聞の単独審査による公募展であった。同展は、95年の第6回展まで三木が審査にあたった。 なお、多くの編著作、ならびにカタログ、新聞雑誌への寄稿があるが、主要な著作は下記のとおりである。 『近代の美術 第7号 高村光太郎』(至文堂、1971年) 共編『現代世界美術全集21 ムンク、カンディンスキー』(集英社、1973年) 共編『現代日本美術全集17 中村彝・須田国太郎』(集英社、1973年) 共編『日本の名画24 岡鹿之助』(中央公論社、1977年) 編著『原色現代日本の美術13 彫刻』(小学館、1979年) 小倉忠夫共著『日本の現代版画』(講談社、1981年) 『近代絵画のみかた:美と表現』(第一法規出版、1983年) 執筆「皇居宮殿の絵画 その画家と作品」(『皇居宮殿の絵画』、ぎょうせい、1986年) 監修・文『寓意像 鶴岡政男素描画集』(PARCO出版、1988年) 編著『昭和の文化遺産5 彫刻』(ぎょうせい、1990年) 編著『自画裸像 或る美術家の手記・保田龍門遺稿』(形文社、1997年) なお、父三木宗策(1891-1945)の作品集『三木宗策の木彫』(アートオフィス星野編、2006年)を自家出版した。また没後、遺族より東京文化財研究所に「三木多聞氏関係資料」が寄贈された。資料は、図書、カタログの他、自筆原稿を含む著述ファイル、展覧会案内状等によるスクラップブック、写真アルバム、手帖等であり、現在同研究所にて公開、活用にむけて整理が進められている。

上前智祐

没年月日:2018/04/16

読み:うえまえちゆう  現代美術家の上前智祐は4月16日に老衰のため死去した。享年97。 1920(大正9)年7月31日、京都府中郡奥大野村(現、京丹後市)に生まれる。1歳の時に実父由蔵を亡くし、病気がちな母の里んと共に苦難と貧困の幼少期を送る。4歳のころ耳を患い、難聴となる。小学校卒業後18歳まで洗い張り店へ奉公にで、挿絵画家を夢見て、肖像画、イラスト、南画などを独学。神戸、横浜などを転々としたのち、1944(昭和19)年、召集を受け、翌年陸軍一等兵として八丈島で終戦を迎える。実家の舞鶴へ戻り、舞鶴海軍経理部や日本通運舞鶴支所で勤務、クレーン運転免許証取得。この頃、木村荘八『美術講座』を読み、洋画を志すようになる。47年、第二紀会第1回展に「舞鶴港の夕景」(同展出品目録では「風景」)を出品、初入選。京都の関西美術院に通い黒田重太郎に指導を受ける。49年、同郷の看護婦小谷徳枝と結婚。51年、西舞鶴図書館で初の個展を開催。以後1950年代前半は朱舷会展、神戸モダンアート研究会展、ゲンビ展などに参加、本格的に抽象画の制作・発表をはじめる。神戸に移り、川崎重工業神戸工場に勤務。52年、吉原治良の非具象のクレパス画を見て感銘を受け、翌年、吉原宅を訪問、指導を仰ぐようになる。54年、具体美術協会の結成に参加、72年の同協会解散まで在籍。55年、第7回読売アンデパンダン展に「具体(上)」「具体(前)」を初出品。56年には兵庫県神戸市垂水区に100坪の山林を購入、数年掛けて住居とアトリエを建設。57年、第7回モダンアート協会展に出品、新人賞受賞。58年、新しい絵画世界展-アンフォルメルと具体(なんば〓島屋ほか)への出品作品は、吉原治良の評価も高く、下見をしたミシェル・タピエも「今回の1番の注目すべき作品だ」と絶賛したという。64年、現代美術の動向 絵画と彫刻展(国立近代美術館・京都分館)に出品。66年、具体ピナコテカにて個展を開催。75年にはアーティスト・ユニオンに、76年にはGe展に参加。80年、神戸製鋼所のクレーン操作の仕事を退職、創作活動に打ち込む。個展としては、集合と綢密のコスモロジー・上前智祐展(大阪府立現代美術センター、1999年)、「上前智祐と具体美術協会」展(福岡市美術館 常設展示室内企画展示室、2005年)、点と面の詩情 上前智祐・山中嘉一・坪田政彦展(和歌山県立近代美術館、2008年)、卒寿を超えて 上前智祐の自画道(神戸・BBプラザ美術館、2012年)、上前智祐・最初の始まり・さとかえりてん(京丹後市・大宮ふれあい工房、2013年、第3回郷土偉人展)等がある。具体美術協会に所属しつつも、所謂アクション・ペインティングとは一線を画し、地道な手作業の積み重ねによる反復、油絵具を多層に塗重ねた点描、パレットナイフを用いた線のパターンによる油彩、マッチ軸・おが屑・絵具のキャップ等を油絵具で塗り固めたミックスメディアの作品等を創作、マチエールと対峙し、非具象の世界を独自に探究し続けた。具体解散以降も「縫い」、版画、四角がモチーフの油彩やミックスメディアなど新たな制作に挑み、2012(平成24)年前後まで創作活動を継続。晩年は、具体美術協会の活動を再評価する機運が国内外に高まり、具体―ニッポンの前衛 18年の軌跡(国立新美術館、2012年)、具体展(グッゲンハイム美術館、2013年)に出品、多方面から注目を集めた。 自費による出版も多く、作品集に『孤立の道 上前智祐画集』(1995年)、『版画作品 2000年4月―8月』(2000年)等、著書に『とび出しナイフ』(1976年)、『自画道』(共同出版社、1985年)、『現代美術―僕の場合』(1988年)、『ある人への返書』(1998年)、『上前智祐 非具象の仕事』(2002年)、『「縫い」の作品について』(2005年)、『思い出 神戸の灘浜にて』(2010年)。また日記翻刻に中塚宏行編『上前日記 1947―2010 上前智祐と具体』(上前智祐記念財団、2019年)がある。

佐々木耕成

没年月日:2018/04/11

読み:ささきこうせい  前衛美術家の佐々木耕成は4月11日、群馬県みどり市の病院で死去した。享年89。 1928(昭和3)年7月、現在の熊本県菊池市泗水町に生まれる。45年3月、先に満州(現、遼寧省瀋陽市蘇家屯)に入植していた両親のもとに移る。戦争末期にソ連軍に抑留されるが、46年10月頃に帰国。53年3月、上京して武蔵野美術学校の通信教育を受け、翌年同学校の西洋画科に編入学する。在学中から独立美術展に出品をつづけ、58年3月、同学校西洋画科を卒業。60年3月、第12回読売アンデパンダン展に出品、同年の第28回独立美術展を最後に公募展への出品をやめる。62年2月、「汎太平洋青年美術家展」にて「国際青年美術家展賞」受賞。63年1月、熊本市にて「郷土出身 佐々木耕成展」(会場、同市鶴屋百貨店)開催。64年6月、前衛美術グループ「ジャックの会」に参加、以後、同会のメンバーとして展覧会活動をする。67年、フォード財団の援助により渡米、出国にあたりそれまでの作品を焼却処分したとされる。ニューヨークに住むが、作家活動よりも生活のため内装業に従事。85年、帰国。1990(平成2)年、群馬県勢多郡黒保根村(現、桐生市黒保根町)に移住。同村では、地区の有志とともに、公園を造成し、その場所で毎年秋に「あかしあの森公園野外コンサート」(2003年から「わたらせの森と水の音楽祭」と改称し、08年まで)を開催するなど、ボランティア活動をつづけた。 在米中の空白の時代から帰国後の美術界との没交渉の時代をへて、2007年、佐々木の地域での活動を紹介した桐生市のホームページから、当時の関係者と美術館学芸員によってその名前が発見された。これを契機に「ジャックの会」メンバーと再会し再び交流がはじまる。10年、アーツ千代田3331にて個展「全肯定/OK. PERFECT.YES.」開催。また同年刊行の黒ダライ児著『肉体のアナーキズム 1960年代・日本美術におけるパフォーマンスの地下水脈』(発行grambooks)で、「ジャックの会」が言及され、60年代の「前衛美術」の活動家のひとりとして再評価されるようになった。12年4月、群馬県立館林美術館にて「館林ジャンクション 中央関東の現代美術」展に出品。同年10月、アーツ千代田3331による企画「TRANS ARTS TOKYO」のレジデンスプログラム「熊本、シベリア、満州、NY、黒保根、そして神田」として公開制作をする。13年7月、小田嶋孝司著『漂流画家 佐々木耕成85歳』(文園社)が刊行された。 晩年にいたって発表活動も盛んになり、同年8月には、岡福亭ギャラリーのこぎり(桐生市)、15年4月にコミュニティスペースSOOO dramatic!(台東区)、17年3月には、ギャラリーya―gins(前橋市)にて個展を開催した。なお没後になるが、18年10月、熊本県立美術館にて「変革の煽動者 佐々木耕成アーカイブ」展が開催された。その生涯と創作活動については、佐々木の生前から取材と調査を重ねていたことから、同展カタログに詳細に記録されている。

杉本貴志

没年月日:2018/04/05

読み:すぎもとたかし  インテリアデザイナーの杉本貴志は4月5日、心不全のため死去した。享年73。 1945(昭和20)年3月31日、東京、中野生まれ。軍事関係の仕事をしていた父、母、姉二人の5人家族であった。戦時中、一度高知に疎開するが、戦後に帰京、68年に東京芸術大学美術学部工芸科を卒業。幼少期から剣道を習っており大学卒業後、一時期は調布警察署で剣道を教えていた。72年にファッションデザイナー、山本耀司による初めてのアパレルショップ「ワイズ」の内装、バー「ラジオ」の内装を手掛けた。「ラジオ」は、杉本が大学在学中に通っていたジャズ喫茶の店員だった尾崎浩司が独立して開いた店である。82年に改装後、円弧の連なりを描くように設置された照明が印象的な内装となった。重厚感のあるカウンターは彫刻家、若林奮によるもの。以後もパシュラボ(1983年)やビーイン(1984年)で同作家と協働で内装を手がけている。73年に設計会社「スーパーポテト」を設立。75年にはグラフィックデザイナー、田中一光と共に西武百貨店の環境計画に参加し、西武セゾングループのデザインディレクターとして、国内の店舗の立ち上げを行った。80年には代表的な仕事のひとつである無印良品の創立にも参加し、ブランドの思想構築から店舗の内装設計まで関わった。このプロジェクトで杉本が大事にしたのが「空間の感性」である。時代の持つ空気感を反映しながら、店舗空間自体がある種のイメージを発信できるような店づくりを試みた。そこで鍵となったのが素材選びである。人間のコントロールが及ばない素材の経年変化に面白みを見出し、1店舗目の青山店では、古民家の廃材を再利用した木、錆びた鉄板、古い工場にあった劣化したレンガなどを用いた。後に自著のタイトルにも採用した「無作為の作為」という考えをここに見ることができ、自身の創作にとって重要な言葉であったことが分かる。86年には自身が内装を手掛けた飲食店「春秋」の経営を始める。2店舗目としてオープンした春秋赤坂展(現在、閉店)では、陶芸作家、辻清明に店で使う器の作陶を依頼するなど、空間だけでなく、総合的な食体験を提供するレストランを目指した。90年代にグランドハイアットシンガポールのレストラン「Mezza9」の内装を手掛けたことがきっかけで海外での仕事が増加。その後、パークハイアット・ソウル、ハイアットリージェンシー・京都など、国内外のハイアットホテルの内装に加え、シャングリラ、ザ・リッツ・カールトンなど世界展開をしているホテルのインテリアも手がけた。そのほかの代表作に銀座グラフィックギャラリー(1986年)や成田ゴルフクラブ(1989年)、レストラン「響」(1998―2002年)、妙見石原荘(2007年)などのインテリアがある。 裏千家の伊住政和を中心にデザイナーやアーティストたちが集って茶の湯を楽しむ会「茶美会」のメンバーとして原宿クエストホールで開催された1992(平成4)年「茶美会・然」に茶室「立礼」、93年「茶美会・素」に茶室「素」を出展。2003年にはミラノサローネで行われた「MUJI Exhibition」に参加。08年にギャラリー間で個展「杉本貴志」展を開催し、水の茶室と鉄の茶室を展示した。 85年から09年までTOTOが運営するギャラリー間の運営委員として、展覧会の企画に携わった。92年から11年まで武蔵野美術大学造形学部空間演出デザイン学科の教授として後身の教育に従事。 受賞歴 1985年 ‘84年毎日デザイン賞 受賞 1985年 ‘85年インテリア設計協会 受賞 1986年 ‘85年毎日デザイン賞 受賞 2001年 Restaurant Design of the Year 受賞 2001年 国土交通大臣賞 受賞 2007年 第1回 KU/KAN賞 受賞 2008年 Interior Design Magazine Hall of Fame Awards 2008 著書は以下のとおり 『交感スルデザイン』(共著、六耀社、1985年) 『春秋』(TUTTLE PUBLISHING、2004年) 『杉本貴志のデザイン発想・発酵』(TOTO出版、2010年) 『無為のデザイン』(TOTO出版、2011年) 『Super Potato Design:The Complete Works of Takashi Sugimoto』(TUTTLE PUBLISHING、2015年) 『A life with MUJI』(無印良品、2018年)

高畑勲

没年月日:2018/04/05

読み:たかはたいさお  子供だけでなく大人も享受する芸術として、本邦におけるアニメーションの今日の隆盛に大いに貢献したアニメーション映画監督、プロデューサーの高畑勲は東京都内の病院で4月5日に肺がんのため死去した。享年82。 1935(昭和10)年10月29日三重県伊勢市に生まれる。東京大学仏文科在学中に、仏・アニメーション映画『やぶにらみの暴君』(55年日本公開、ポール・グリモー監督・脚本、詩人ジャック・プレベールが共同脚本)を見てアニメーションを志す。同大学を卒業後、59年に東映動画(現、東映アニメーション)へ入社。64年TVアニメ『狼少年ケン』で演出に昇格し、各話を分担し担当。68年『太陽の王子 ホルスの大冒険』で劇場映画初演出(監督)。この作品では場面設計を宮崎駿、作画監督を大塚康夫が務め、以降の高畑作品における共同制作の嚆矢となるだけでなく、当時は依然として子供だけのものと思われていたアニメ映画において、作品に民族対立や宗教性、村落での共同生活といった社会的・政治的・道徳的なテーマを取り込んで制作を進め、当時まだ興隆期であった日本のアニメーションにおいて、芸術としても深みのある表現を探っていった。同作はタシケント国際映画祭演出賞を受賞する一方、公開時の興行収益は振わず、加えて同作制作の大幅な遅延・予算超過により、高畑は演出助手に降格となった。 その後、69年に演出へ再昇格するものの、童話『長くつ下のピッピ』のアニメーション企画を実現させるため、宮崎駿・小田部羊一とAプロダクション(現、シンエイ動画)に71年に移籍。制作準備のため、当時アニメ作品では異例であった海外現地への事前取材を行うも、原作者のアストリッド・リンドグレーンからアニメ化の許可が下りず制作中止となる。代わりに『ルパン三世』(TV第1シリーズ。第六話以降)の演出を宮崎駿と共同で担当。後にシリーズ化する人気作品の基盤を作る。同社では映画『パンダコパンダ』『パンダコパンダ雨降りサーカスの巻』等の演出を手掛け、73年ズイヨー映像(現、日本アニメーション)に移籍。『アルプスの少女ハイジ』(1974年)では再び海外への事前取材や主題歌の海外現地録音を敢行し、全話で演出を担当。作品に横〓する丁寧かつ活き活きとした生活描写に繋げた。続けて『母をたずねて三千里』(1976年)、『赤毛のアン』(1979年)の全話の演出を行い、綿密な生活描写からなる人間ドラマをアニメーション表現において高めていく。81年に映画『じゃりン子チエ』(脚本・演出)、同作TVシリーズ(チーフディレクター)を担当。大阪が舞台の作品のため、声優には大阪弁の話せる芸人などの話者にこだわり、当地独特の風土表現や生活描写に繋げる。映画『セロ弾きのゴーシュ』(1982年、脚本・演出)で毎日映画コンクール大藤信郎賞受賞、ヴァルナアニメーション祭招待作品となる。 宮崎駿監督の『風の谷のナウシカ』(1984年)、『天空の城ラピュタ』(1986年)でプロデューサーを務め、85年のスタジオジブリの設立に加わる。88年に『火垂の墓』(原作 野坂昭如、監督・脚本)を劇場公開し、宮崎駿とともに世界各国で評価されるアニメ作品を生み出すスタジオジブリの基盤を築く。1991(平成3)年『おもひでぽろぽろ』(監督・脚本、芸術選奨文部大臣賞)、94年『平成狸合戦ぽんぽこ』(監督・脚本、仏・アヌシー国際映画祭グランプリ受賞)では、それぞれ日本映画配給収入一位を記録。その後は寡作ながら、『ホーホケキョとなりの山田くん』(1999年)、『かぐや姫の物語』(2013年)の監督・脚本を担当し、手書きの水彩画風のタッチや、ラフな線描、余白を残し省略された背景描写など、見る者の想像に広がりを持たせる手法や表現を探り、『かぐや姫の物語』では毎日映画コンクール・アニメーション映画賞、米・ロサンゼルス映画批評家協会賞(アニメーション映画部門)等を受賞、米・アカデミー賞長編アニメーション部門賞にノミネートされた。 98年に紫綬褒章を受章。スイス・ロカルノ国際映画祭で名誉豹賞(2009年)、仏・アヌシー国際アニメーション映画祭(2014年)では名誉功労賞、15年に仏・芸術文化勲章オフィシエが贈られ、16年に国際アニメーション協会の生涯功労賞にあたるウィンザー・マッケイ賞を受賞した。 著作としては『「ホルス」の映像表現』(徳間書店 アニメージュ文庫、1983年)、『話の話―映像詩の世界』(徳間書店 アニメージュ文庫、1984年)、『映画を作りながら考えたこと1955~1991』(徳間書店、1991年)、『十二世紀のアニメーション 国宝絵巻物に見る映画的・アニメ的なるもの』(徳間書店、1999年)など。また翻訳として『木を植えた男を読む』(訳著、徳間書店、1990年)、ジャック・プレヴェール詩集「ことばたち」(訳、ぴあ、2004年)等があり、12年には米・ロードアイランド・スクール・オブ・デザイン名誉博士号が授与された。

森永純

没年月日:2018/04/05

読み:もりながじゅん  写真家の森永純は4月5日、心不全のため埼玉県内の病院で死去した。享年80。 1937(昭和12)年11月11日、長崎市に生まれる。本名・純雄(すみお)。44年佐賀県に移住、同地で育ち56年龍谷高等学校を卒業。同年上京して日本大学芸術学部写真学科に入学、60年に卒業した。61年1月、岩波映画製作所写真部に暗室マンとして入社するが、同年11月に退社、日立製作所の委嘱で同社を撮影するために長期滞在していた写真家W.ユージン・スミスの助手となり、スミスが離日するまで約一年間暗室作業などを担当。その後フリーランスとなる。 60年代半ばには写真雑誌などに作品を発表するようになり、60年代末には渡米、ニューヨークに約一年半滞在。帰国後の69年、ニューヨークで撮影した作品による個展「モーメント・モニュメント」(ニコンサロン、東京)を開催、この展覧会により同年の第13回日本写真批評家協会賞新人賞を受賞する。その後「オリジナルプリント’60~’71」(画廊春秋、東京、1971年)、「都市の眺め」(ニコンサロン、東京、1978年)などの個展を開催。78年に写真集『河―累影』(邑元舎)を出版。大学を卒業した60年から63年にかけ、都内の河川の水面を撮影したモノクローム作品により構成され、ブックデザインは杉浦康平が担当。同作により80年、第30回日本写真協会賞年度賞を受賞した。 70年代後半には、海外に日本の現代写真を紹介する「Neue Fotografie aus Japan」(グラーツ市立美術館、1976年、以後オーストリア、ドイツを巡回)や「Japan:A Self―Portrait」(国際写真センター、ニューヨーク、1979年)などの展覧会にも選ばれるなど、都市風景や海の波などモティーフとする独自の作風により評価を確立し、以降も寡作ながら一貫した作家活動を展開した。 『河―累影』は、川面にレンズを向けた最初期の作品を、撮影から十数年を経て写真集にまとめたものであり、また晩年に刊行された二冊目の写真集『Wave:all things change』(かぜたび舎、2014年)も、前作のテーマを引き継ぎ、70年代から長くとりくんだ海面の波を被写体としている。長く森永がとりくんだこの二つの代表作は、いずれも水面という、つねに流動し形を変える被写体をモノクロームの画面にとらえたイメージの累積によって構成されており、生々しい物質感と抽象性を併せ持ち、深遠な世界観を映像化した仕事として高く評価された。また助手時代にスミスのプリントへの高い要求に応えるべく暗室技術を磨き、その後渡米し、現地でオリジナルプリントの概念に触れた森永は、作品世界の基盤としてのプリントのクオリティを徹底して追究したことでも知られる。こうした森永の写真観の一端は、松岡正剛、佐々木渉との鼎談による『写真論と写心論』(工作舎、1979年)においても語られている。

長澤英俊

没年月日:2018/03/24

読み:ながさわひでとし  彫刻家の長澤英俊は3月24日、死去した。享年77。 1940(昭和15)年10月30日に旧満州東寧(現、黒竜江省牡丹江市東寧県)に生まれる。45年、母の実家のある埼玉県三保谷村(現、埼玉県比企郡川島町)に移り、埼玉県立川越高等学校を卒業。63年に多摩美術大学インテリアデザイン科を卒業する。 同校卒業後、東横百貨店家具設計室に就職するが、66年に東南アジア、中近東、ヨーロッパを自転車で横断する旅に出る。その中で訪れたイタリアのミラノで自転車の盗難に遭い、旅は中断。同地に滞在するようになった。以後、ミラノで制作活動を行い、海外で評価を受けることとなる。 67年には、ミラノ郊外のセスト・サン・ジョヴァンニのアトリエに移り、同地で「貧しい芸術」を意味する前衛美術運動「アルテ・ポーヴェラ」の一員とされていたルチアーノ・ファブロなどと交流を持つ。彼らとの交流の中でイタリア現代美術の動向について学ぶこととなった。翌年、アンフォ国際芸術祭にマルサ・メルツらと共に参加し、「落差」を発表する。この作品は、湖畔に浮かんだ、プラスチック製の筒の中の汽水域を表したものであった。このように、当初はコンセプチュアルな作品や、オブジェなどを手掛けていたという。また、70年にはヴィデオ・アートを制作する他、パフォーマンス作品「風」を発表するなど、前衛的な表現を用いた作品を発表していた。また、同年5月には初の個展も開催する。 71年、先述した「アルテ・ポーヴェラ」のメンバーとの議論に触発され、最初の彫刻作品、「オフィールの金」を制作した。この作品を機に、木、金属、石などの材料を駆使した詩的な彫刻作品を数多く手掛けるようになり、数々の国際美術展に出品を重ねた。72年の第36回ヴェネツィア・ビエンナーレ(同展には76年、82年、88年、93年にも出品)、73年の第8回パリ・ビエンナーレ、75年の第13回ミデルハイム・ビエンナーレ「日本の彫刻家20人」、77年の第10回ローマ・クワドリエンナーレ、1989(平成元)年の第20回ミデルハイム・ビエンナーレ 現代日本彫刻展、同年の第4回彫刻国際展、92年の第9回ドクメンタ、94年のミラノ・トリエンナーレ、98年の第9回カッラーラ彫刻ビエンナーレ(2006年にも出品)などで作品を発表した。 また、国際美術展への出品の一方で、イタリアをはじめとするヨーロッパでの個展やグループ展、そして日本での発表も積極的に行った。国内では、72年の「第5回現代の造形」(京都市美術館)や、「ヨーロッパの日本作家展」(東京国立近代美術館他)、79年の「近代イタリア美術と日本」(国立国際美術館)、84年の第4回平行芸術展(小原流会館)、同年の「現代美術の動向III」(東京都美術館)、87年の「現代のイコン」(埼玉県立近代美術館)、89年の「かめ座のしるし」(横浜市民ギャラリー)、91年の「現代日本美術の動勢」(富山県立近代美術館)など多数のグループ展に作品を出品した。そして93年の個展、「天使の影」(水戸芸術館現代美術センター)では、旧作と新作を含む17点を発表し、その多様な表現とスケール感が大きな話題となった。 その後も、95年の「日本の現代美術」(東京都現代美術館)、99年の「彫刻の理想郷」(神奈川県立近代美術館他)で作品を出品。そして、イタリアにおいても、2000年にブリジゲッラ市立美術館および市内各所で個展を開催し、インスタレーション作品を発表。05年の第21回現代日本彫刻展では、「メリッサの部屋」が大賞を受賞した。また、09年には川越市立美術館、埼玉県立近代美術館(同時開催)他3館を巡回した個展「長澤英俊―オーロラの向かう所」を開催し、翌年同展で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞した。 長澤は先述のように、イタリアを軸に国外で活動を展開したが、日本国内においても野外彫刻で作品をみることができる。つくばセンタービルの「樹」(1983年)、新宿アイランドの「Pleiades」(1995年)、東京ビッグサイトの「七つの泉」(1995年)、南長野運動公園の「稲妻」(2004年)、多摩美術大学の「TINDARI」(2007年)が現在でも設置されている。 2000年代からは教育者としても活動し、04年からミラノ国立ブレラ美術アカデミーと多摩美術大学において教鞭を執った。客員教授として後進を指導した多摩美術大学では、歿後、その功績を顕彰し、長澤の意思を次世代に継ぐことを目的とした追悼シンポジウム「NAGASAWA芸術の種子を語る」が八王子キャンパスで開催された。 長澤の圧倒的なスケールと哲学的な思想に支えられた詩的な雰囲気を持つ作品は、国際美術展を中心に評価され、国内外で後進に影響を与えた。

宇野茂樹

没年月日:2018/03/23

読み:うのしげき  彫刻史研究者・滋賀県立短期大学名誉教授の宇野茂樹は、癌のため3月23日に死去した。享年97。 1921(大正10)年3月9日、滋賀県栗太郡栗東町に生まれる。滋賀県立膳所中学校(現、滋賀県立膳所高等学校)を経て1944(昭和19)年9月、國學院大学神道部本科を卒業。応召によって敦賀歩兵連隊に入隊し中国へ出征する。46年8月に復員し、9月より京都帝国大学文学部国史研究室に学ぶ。48年3月に滋賀県重要美術品等調査事務取扱嘱託となり、12月に滋賀県技術吏員(技師)として滋賀県立産業文化館(後の琵琶湖文化館)に勤務する。61年4月、学芸員として滋賀県立琵琶湖文化館勤務。65年4月、滋賀県立短期大学に助教授として着任、71年4月、教授に昇進。86年3月、同大学を定年退職し、名誉教授の称号を授与される。同年4月、大阪商業大学商経学部教授に着任。1990(平成2)年7月、栗東歴史民俗博物館館長となる。94年3月、大阪商業大学を定年退職。2000年4月、栗東歴史民俗博物館名誉館長。滋賀大学、同志社大学で非常勤講師として教鞭を執ったほか、滋賀県文化財保護審議会委員、滋賀県文化財保護協会理事、野洲町立歴史民俗資料館運営審議会委員など、滋賀県内の文化財・博物館行政の要職を歴任した。91年に滋賀県文化賞を受賞。96年に勲三等に叙され瑞宝章を授与される。小槻大社宮司・五百井神社宮司を務めた。 宇野は小槻大社宮司職を務める家に生まれ、國學院大学で考古学者・大場磐雄の指導を仰いだ。滋賀県庁に奉職後は県内各地の寺院調査を行い、近江地域の彫刻史研究に精力的に取り組んだ。58年には滋賀県内の在銘彫刻63点にコロタイプ写真を付した『近江造像銘』(山本湖舟写真工芸部)を、74年には近江地域の古代から中世へと至る彫刻史を論じた『近江路の彫像』を刊行する。77年、論文「近江宗教彫刻論」を國學院大学に提出し、博士号を授与される。多年にわたる実地調査に基づき、天台宗や神仏習合といった複雑な信仰背景を持つ近江の仏像・神像彫刻を数多く紹介し、当該地域における彫刻史研究の発展に大きく寄与した。大学では博物館での勤務や豊富な調査経験を踏まえて後進の指導と育成に努め、とりわけ同志社大学では長く博物館実習を受け持っていたため、その薫陶を受けた者は多い。 著作に『日本の仏像と仏師たち』(雄山閣、1982年)、『近江の美術と民俗』(思文閣出版、1994年)、『仏教東漸の旅:はるかなるブッダの道』(思文閣出版、1999年)など。論文に「近江常楽寺二十八部衆について」(『日本歴史』148、1960年)、「石山寺本尊考」(『文化史研究』17、1965年)、「園城寺新羅明神像」(『史跡と美術』384、1968年)、「近江の白鳳彫刻―韓国古代彫刻を中心として」(『文化史学』27、1971年)、「比叡山常行堂の阿弥陀像―近江国梵釈寺像を中心として―」(『佛教藝術』96、1974年)、「鎌倉時代初期の延暦寺における仏師動静」(『史跡と美術』465、1976年)、「熊野信仰と園城寺」(『神道及び神道史(西田長男博士追悼号1)』37・38、1982年)、「神像彫刻の展開」(『栗東歴史民俗博物館紀要』2、1996年)ほか多数。

山岸享子

没年月日:2018/03/15

読み:やまぎしきょうこ  写真キュレーターの山岸享子は3月15日、大腸がんのため死去した。享年78。 1940(昭和15)年2月8日神奈川県三浦郡三崎町(現、三浦市三崎)に生まれる。旧姓洞外(とうがい)。61年東洋女子短期大学英語科卒業。写真家中村正也のスタジオスタッフを経て、64年より67年まで『カメラ毎日』の編集部に勤務、取材や執筆も含む編集作業に携わる。68年同誌の編集者であった山岸章二と結婚。60年代末より語学力を活かして山岸章二の海外での活動をサポートするようになる。特に「New Japanese Photography」(ニューヨーク近代美術館、1974年)や「Japan:A Self―Portrait」(国際写真センター、ニューヨーク、1979年)など、山岸章二が企画に関わった展覧会に携わることで、美術館がコレクションするなど、写真が芸術の一ジャンルとして扱われ、質の高いオリジナル・プリントによる展示が開催されていたアメリカ写真界の実情に触れるとともに、現地の写真家や写真関係者に広く知遇を得る。 独立して写真プロデューサーとして活動していた山岸章二が79年に死去した後は、その事務所を引き継ぐかたちで、写真展や写真集の企画などを手がけた。中でもアメリカを中心とした海外の写真を紹介する展覧会に数多く携わり、その主なものとして、「20世紀の写真:ニューヨーク近代美術館コレクション展」(西武美術館、東京、1982年)、「リー・フリードランダー展」(有楽町アート・フォーラム、1987年)、「表現としての写真150年の歴史」(セゾン美術館、東京、1990年)などがある。また写真集のプロデュースにおいては、質の高い海外の写真集の出版事情に通じ、その見識を活かした高いクオリティの写真印刷による出版を実現したことで知られる。その代表的なものに江成常夫『まぼろし国・満洲』(新潮社、1995年)、新正卓『沈黙の大地/シベリア』(筑摩書房、1995年)がある。 1990(平成2)年にはJ.ポール・ゲティ美術館より助成を受け、同館にて滞在研究するとともに日本の現代写真に関する講演を行った。93年から武蔵野美術大学映像学科で非常勤講師として現代写真論の講義などを担当(2008年まで)。93年から2008年まで写真の町東川賞審査員を務めた。 多年にわたり日本の写真の海外への発信や海外の同時代の写真の国内への紹介などを通じて日本の写真文化の発展に貢献した功績に対して、12年、第62回日本写真協会賞国際賞を受賞した。

金関恕

没年月日:2018/03/13

読み:かなせきひろし  弥生時代研究の第一人者で天理大学名誉教授、大阪府弥生文化博物館名誉館長の金関恕は3月13日、心不全のため死去した。享年90。 1927(昭和2)年11月19日、京都市で医学博士の父金関丈夫・母みどりの次男として出生。36年、丈夫の京都帝国大学から台北帝国大学への赴任に伴い、台湾へ転居し青年期までを過ごした。丈夫は赴任前、考古学者濱田耕作の研究室座談会の常連で、第2次世界大戦後に弥生時代出土人骨の研究から弥生人渡来説を核とした日本民族起源論を唱えた高名な人類学者・解剖学者である。幼少年期に父の書斎に並ぶ歴史書・美術書・文芸書の中で育ち、石器採集をはじめ、父の遺跡発掘調査を手伝うことで、考古学に深い関心をもつ。なお、台北帝国大学(医科大学)予科在学時の従軍体験はプロパガンダ・連呼による命令を嫌う氏の思想の根幹をなしたと長女ふき子が回想している。 45年帰国後、旧制松江高等学校を経て、49年に京都大学文学部(考古学専攻)に入学。考古学者の梅原末治・小林行雄に師事し、遺跡・遺物(考古資料)の調査研究方法をそれぞれから徹底的に学び、先輩坪井清足らと考古学研究に打ち込む。53年京都大学大学院入学、同時に坪井が所長を務める奈良国立文化財研究所臨時筆生となり、奈良県飛鳥寺や大阪府四天王寺の発掘調査に従事、飛鳥寺塔心礎の発掘調査では舎利容器に接した感動は忘れ難いと述懐している。また49年、丈夫の九州大学(医学部)赴任に伴い始まった山口県土井ヶ浜遺跡や鹿児島県広田遺跡等の発掘調査に参加した。59年に、師梅原末治が勤める天理大学に赴任。61年から奈良県東大寺山古墳の発掘調査に携わる(副葬品は1972年重要文化財、2016年国宝指定)。また、同調査で知遇を得た三笠宮殿下他の推挙で、日本オリエント学会10周年記念「西アジア文化遺跡発掘調査団(聖書遺跡調査団)」のイスラエル発掘調査に65年第2次調査から測量兼写真担当として参加。同年帰国後、大阪万国博覧会のための国道新設に伴う大阪府池上・曽根遺跡の発掘調査に際し、部分的に西アジア調査で学んだ組織的な大規模分業調査方式を提案、今日の大規模緊急調査の先駆的事例となった。同調査では遺跡の重要性から現地保存運動が興り、70年発掘調査報告書『池上・四ツ池』(第二阪和国道遺跡調査会)刊行、75年国史跡指定や1991(平成3)年大阪府立弥生文化博物館建設等に尽力した。このほか、山口県綾羅木郷遺跡、佐賀県吉野ケ里遺跡、鳥取県妻木晩田遺跡等の代表的弥生集落遺跡の保存・活用活動にも貢献した。 一方、60年頃から文化人類学・民俗学による神話・祭儀等の宗教史的な視点から分析を加えた論考を発表し、75年『稲作の始まり』(古代史発掘4 弥生時代1:佐原真と共編)(講談社)を刊行、当時最新の発掘調査成果と斬新な視点から新たな弥生時代像を提示した。その後も、『日本考古学を学ぶ』(有斐閣、1978年)・『岩波講座 日本考古学』(岩波書店、1985年)などの叢書を中心に、西アジア調査・米国インディアナ大学交換教授の経験を踏まえた欧米考古学との比較研究や、東アジアにおける弥生文化の位置づけ等の弥生時代史像に関する論考を重ねた。85年からは『弥生文化の研究』(全10巻:佐原真と共編、雄山閣)を刊行(~1988年)、全国の研究者を編制して弥生文化研究の現代的水準を示した。86年『宇宙への祈り 古代人の心を読む』(日本古代史3:責任編集・総論、集英社)では先史時代から奈良時代までの研究成果を俯瞰し、2004年『弥生の習俗と宗教』(学生社)で宗教史的視点による弥生時代研究の方法的展望を示した。17年『弥生の木の鳥の歌―習俗と宗教の考古学―』(雄山閣)、『考古学と精神文化』(桑原久男編、雄山閣)を刊行した。 また、91年から大阪府立弥生文化博物館館長(~2013年)に就任し、年2回の特別展監修と図録巻頭論文の執筆を続け、弥生時代研究の成果を広く普及・啓発する活動に尽力する一方、95年『弥生文化の成立 大変革の主体は「縄紋人」だった』(同博物館と共編、角川書店)等で、従来の弥生時代像の転換を促して大きな影響を及ぼした。ほかにも、99年からユネスコ・アジア文化センター遺産保護協力事務所長(~2003年)、2000年から財団法人辰馬考古資料館館長(~2011年)、06年世界考古学会議(WAC)中間会議大阪大会実行委員長、山口県史等の編纂事業や各地の文化財関係国公立機関の座長・審議員等を歴任した。96年天理大学退任。03年大阪文化賞受賞・文部科学大臣地域文化功労者表彰、14年イスラエル考古局功労者表彰。 なお、遺言により骨格標本として献体。これは父丈夫の学術研究のために祖父喜三郎(1943年逝去)が献体を申し出たことに始まり、丈夫(1983年逝去)が遺言で九州大学医学部に献体され、その遺志を継いだ長男毅(2015年逝去:佐賀医科大学名誉教授)に続いたものである。遺伝学史上、生前記録や親族関係が残る男子直系3代の骨格標本は世界的にも類がなく、心身共に学問に生涯を捧げた一族を象徴する事績であろう。

中島宏

没年月日:2018/03/07

読み:なかじまひろし  青磁の美と技術を究めた「中島青磁」「中島ブルー」を確立し、青磁の重要無形文化財保持者であった中島宏は、3月7日肺炎のため死去した。享年76。 1941(昭和16)年10月1日、佐賀県杵島郡西川登村大字小田志字弓野(現、武雄市西川登町弓野)生まれ。磁器の窯元に育ち、古窯跡の調査を通して青磁へ傾倒した。69年第16回日本伝統工芸展に初入選。70年、独立し、弓野古窯跡に半地下式穴窯を築窯。73年には第2回日本陶芸展に初入選。77年第24回日本伝統工芸展で「〓白磁壺」奨励賞受賞、文化庁買い上げとなる。81年、第1回西日本陶芸美術展で「粉青瓷線彫文壺」陶芸大賞(内閣総理大臣賞)受賞。83年日本陶磁協会賞を受賞。「中島青磁」と呼ばれる独創的な作品は高い評価を受け、1990(平成2)年佐賀県重要無形文化財認定。96年にはMOA岡田茂吉賞工芸部門大賞を受賞。2005年、第52回日本伝統工芸展に「青瓷線文平鉢」を出品、NHK会長賞を受賞。06年、第65回西日本文化賞受賞、日本陶磁協会創立60周年記念日本陶磁協会賞金賞受賞。07年、青磁で重要無形文化財保持者の認定を受ける。10年、日本工芸会常任理事参与、12年日本工芸会副理事長就任(―2016年)、旭日小綬章を受章するなど、陶芸界の第一線で活躍した。 10代より、佐賀県、肥前地域の古窯跡を歩き物原(割れた焼き物の捨て場)で青磁の陶片に触れ青磁に魅了された。84年には、中国古陶磁研究者訪中団(日中文化交流協会主催)の一員として各地の古窯跡及び博物館を視察。青銅器の造形に感銘を受ける。翌年日本人として初めて、中国官窯の青磁がつくられた浙江省龍泉古窯跡を訪問し陶片調査を実施。自己の青磁創作への姿勢を強く意識し、唯一無二の「中島青磁」へと昇華。他に陶板作品も手がけ、92年NHK福岡放送センターロビーに青瓷釉彩磁器壁画「躍動する自然」、95年国際医療福祉大学(栃木県)に青磁「四季釉彩」磁器壁画を制作する。 また、陶磁研究家であった小山冨士夫を師と仰ぎ、生涯陶磁器の研究と収集を行う。生誕の地である武雄市弓野地区をはじめ、武雄地域の陶器収集を熱心に行った。江戸時代の佐賀藩武雄領で焼かれた古陶磁を「古武雄」と名付けて再評価を行い、収集した作品約600点を佐賀県立九州陶磁文化館に寄贈した。 80年西日本新聞社『中島宏作陶集』、97年日本経済新聞出版『中島宏作陶集―無窮なる青磁』を刊行。作品集のほか、95年には日本経済新聞社より随筆集『弓野[四季釉彩]陶芸家中島宏の世界』を刊行。

倉田公裕

没年月日:2018/02/26

読み:くらたきみひろ  元北海道立近代美術館長の倉田公裕は2月26日、偽膜性腸炎のため死去した。享年94。 1924(大正13)年1月10日、三重県に生まれる。関西大学文学部を卒業後、1959(昭和34)年よりサントリー美術館の設立準備に学芸員として当たり、63年からは山種美術館の設立準備に従事。山種美術館の学芸部長を務めた後、73年より北海道立近代美術館の設立準備室長となり、地域性と国際性を重視した本格的な美術館作りに尽力、また展示に複製や映像を積極的に導入するなど新たな美術館像を示した。同館副館長を経て78年から86年まで北海道立近代美術館館長(非常勤)を務め、また78年に明治大学文学部教授となり、1995(平成7)年に定年退任するまで教鞭をとる。一方でサントリー美術館勤務時代より縁のあった日本画家鏑木清方の遺族から、土地・建物・作品の鎌倉市への寄贈の相談を受けて記念美術館の設立に協力、98年に鎌倉市鏑木清方記念美術館として開館すると、その専門委員を2004年まで務めた。 その業績は近代日本画に関するものが多く、『日本の名画15 竹内栖鳳』(講談社、1973年)、『近代の美術14 小林古径』(至文堂、1973年)、『森田曠平画集』(駸々堂出版、1993年)といった画集の編集に携わる。一方でサントリー美術館、山種美術館、北海道立近代美術館の設立に関わった経験から博物館学についての著述も多数あり、著書としては『博物館学』(東京堂出版、1979年)、『博物館の風景』(六興出版、1988年)、また新聞に発表したコラム等をまとめた『曲臍庵随記』(私家版、1986年)、その続編として編集され、博物館学関係の著作目録も収載した『続曲臍庵随記』(明治大学博物館学研究会、1994年)がある。鎌倉市鏑木清方記念美術館が清方の基礎資料集として継続的に刊行する『鏑木清方記念美術館叢書』についても、晩年に至るまでその監修を務めている。

加藤好弘

没年月日:2018/02/09

読み:かとうよしひろ  1960年代に過激なパフォーマンスを展開した前衛芸術集団「ゼロ次元」を主導した加藤好弘は2月9日に膀胱がんのため死去した。享年81。 1936(昭和11)年名古屋生まれ。生家は名古屋市南外堀町で食堂「好乃屋」を営み、父親は軍隊に2度招集され中国東北部に赴任したという。加藤も幼少期を1年ほど中国東北部で過ごし、終戦の3年ほど前に名古屋に戻り、母親の家に疎開。終戦後、中学のころに北川民次の塾に行き、絵を学ぶ。愛知県立明和高等学校に入学後、マルクス主義に傾倒。高校卒業後、多摩美術大学に進学、59年に同大学美術学部絵画科を卒業。大学時代に教員であった田中一松に歴史に向き合う姿勢についての影響を受け、また同大学と同じ世田谷区上野毛にアトリエを構えた岡本太郎の石版画制作のアシスタントをしたという。卒業後、名古屋に戻り教員として勤務。60年、岩田信市らが結成した絵画グループ「0次現」に、加藤らが合流し、というコンセプトで「ゼロ次元」を結成、同年1月の公開儀式「はいつくばり行進」を皮切りに数々のパフォーマンスを行う。64年に拠点を東京に移した加藤と、名古屋にとどまった岩田を中心に、都市空間のなかで数々のパフォーマンスを行った。同年、日本超芸術見本市(愛知県文化会館美術館、平和公園他)で、のちの「全裸儀式」の原型となるパフォーマンスを実施。65年、アンデパンダン・アート・フェスティバル(現代美術の祭典、通称岐阜アンパン)にてゼロ次元として河川敷に見世物小屋風テントを設営し儀式を行う。日本万国博覧会(大阪万博)が行われる前年69年には、秋山祐徳太子、告陰、ビタミン・アート、クロハタなどとともに反万博団体「万博破壊共闘派」を立ち上げ、各地で反万博運動を展開、加藤を含む数名が猥褻物陳列罪で逮捕されるなど社会を賑わせた。翌70年、パフォーマンス記録映画『いなばの白うさぎ』を製作したのち、加藤は次第にインドのタントラ研究に没頭し、グループとしての活動は減少することとなる。 ヨシダ・ヨシエ、針生一郎など一部の批評家を除き、美術界では永く言及されてこなかったが、三頭谷鷹史、椹木野衣、黒ダライ児らによって再評価が進んでいる。黒ダ『肉体のアナーキズム』(グラムブックス、2010年)では、ゼロ次元の活動がなければ、この時代における「反芸術パフォーマンス史」そのものが成立しなかったほど大きな存在といわれる。2006年には、写真家・平田実の作品集として『ゼロ次元 加藤好弘と六十年代』(河出書房新社、2006年)が刊行。15年に日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴとAsia Culture Center(韓国・光州)との共同事業として加藤の聞き取り調査を行った(聞き手は細谷修平、黒ダ、黒川典是)。

永田生慈

没年月日:2018/02/06

読み:ながたせいじ  浮世絵研究者で美術評論家の永田生慈は肺癌のため2月6日に死去した。享年66。 1951(昭和26)年、島根県津和野町生まれ、その後東京都世田谷区で育つ。幼少の頃から骨董など古いものに興味をもち、初めてのコレクションは小学校3年の頃、〓飾北斎の絵手本『画本早引』であったといい、以後、生涯にわたり北斎作品の収集、研究に身を捧げた。高校卒業後、浮世絵研究の泰斗、〓崎宗重が教鞭を執っていた立正大学に進学し、師の薫陶を受ける。処女論文は「学生レポート 広重進出後の北斎」(『浮世絵芸術』30、1971年)、大学在籍中に仲間と東京北斎会を発足し、72年に『北斎研究』を創刊し(2017年、第57号をもって終刊)、精力的に北斎の調査研究を進めた。生涯に著した論文は200本余、専門的な学術書から一般向けの解説書や啓蒙書まで多数の著作を残した。大学卒業後、書店経営なども経て、太田記念美術館の設立に尽力し、学芸員から副館長兼学芸部長を務め、2008(平成20)年に退任するまで、同館の展覧会や調査研究活動に従事した。なかでも05年に太田記念美術館の開館25周年を記念し、初の海外展としてパリのギメ東洋美術館で開催された「太田記念美術館所蔵浮世絵名品展」の際、クーリエとして赴いていた永田の調査によって、ギメ東洋美術館に所蔵されている北斎の「龍図」が、太田記念美術館の所蔵品であった「虎図」と本来対をなす作品であることが発見されたことは大きな反響を呼んだ。この「龍図」は07年1月から太田記念美術館と大阪市立美術館でおこなわれた「ギメ東洋美術館所蔵浮世絵名品展」で里帰りを果たし、虎図とともに展示され、北斎の絶筆に近い時期の大作として注目された。永田が研究を始めた頃は、フランスやアメリカでは高く評価されている北斎が、日本国内では過小評価されていたといい、永田は『〓飾北斎年譜』(1985年)など基礎研究を基盤に、膨大な数の作品論を積み重ね、画風展開を論じた。国内外の数々の北斎展に関わったが、その最大級のものがゲストキュレーターとして企画した2005年の東京国立博物館での「北斎展」で、作品総数約500点が出陳された。また14年にパリのグラン・パレで開催された「北斎展」でも主導的役割を果たして大きな反響を呼び、この功績により16年にフランスの芸術文化勲章オフィシエが贈られている。一方、自らも北斎やその門人の作品の収集活動を続け、90年、北斎の命日である4月18日に郷里の津和野町に自らの私財を投じて〓飾北斎美術館を開館した。同館は15年に閉館したが、散逸することを避けるため永田のコレクション約2000点は17年に島根県立美術館に寄贈された。19年2月に島根県立美術館で「開館20周年記念展 北斎―永田コレクションの全貌公開」が開催され、『永田生慈 北斎コレクション100選』が刊行されている。

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