本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)





山岸堅二

没年月日:1968/12/30

染織工芸家で、日展評議員の山岸堅二は、12月28日心筋こうそくのため、東京都立川市中央病院で死去した。68歳。明治33年長野県に生まれ、洋画を太平洋画会研究所及び片多徳郎に学んだ。昭和10年頃より創作染色を専門とし、同11年新文展に「果園の家族」が初入選した。以後官展出品をつづけ、昭和18年には「防空人物譜」が特選になり、戦後は、昭和22年日展「迎火」(染壁掛)が特選になった。

佐々木素雲

没年月日:1968/12/23

彫刻家、日本彫塑会会員の佐々木素雲は、12月23日午前5時30分脳卒中のため秋田市の自宅で死去した。享年76歳。明治25年3月28日秋田に生まれた。本名、三之助。明治44年上京して米原雲海に師事、大正15年第7回帝展に木彫「安痒」が初入選、一方東京美術学校彫刻別科に入り朝倉文夫に塑造を学んだ。以来数回帝展に出品を続けた。昭和20年、東京牛込区の住居に空襲をうけ、郷里に疎開した。戦後も尚そのまま秋田市で製作活動を続け、随時、上野の日彫展に作品を送って発表した。かたわら地方美術の振興向上と文化財の保護に尽力し、秋田県総合美術連盟の設立や県文化財専門委員をつとめるなど、その功績のより、同県文化功労章を受ける程の晩年だった。諸展覧会出品以外の代表作に「満州国皇帝勅額」「曹洞宗大本山総持寺後醍醐天皇等身像」などがある。

北出塔次郎

没年月日:1968/12/12

日展評議員、金沢美術大学名誉教授の陶芸作家北出塔次郎は、12月12日、胃ガンのため療養先の富山県東砺波郡で死去した。享年70才。北出塔次郎は、明治31年(1898)兵庫県に生まれ、大正5年関西大学法科を中退し、大阪美術学校で矢野喬村に学び、昭和11年富本憲吉に師事した。その後、文展、日展に出品、しばしば特選となり、昭和21年金沢美術工芸専門学校講師、同24年教授となった。石川県の伝統工芸である九谷焼に新風を吹きこんだ陶芸作家として知られ、昭和23年には、第1回金沢文化賞、同26年には北国新聞文化賞を受賞した。昭和34年以降、石川県文化財専門委員、同38年石川県陶芸協会会長などをつとめ、毎年東京・和光で個展を開催、昭和44年5月、日本芸術院賞をうけた。主要作品:「色絵蓮池文磁飾皿」昭和14年3回文展、「色絵陶磁魚貝文平鉢」同15年2600年奉祝展、「悠久牛壁画パネル」同16年4回文展特選、「金魚紋盛器」同18年文展特選、「歳寒二雅瓢型花生」同21年日展特選、「水辺讃夏香炉」同27年日展、「駱駝図飾皿」同29年日展、「花鳥扇面二折屏風」同32年日展、「縞馬陶器モザイク額面」同35年日展、「陶製駱駝壁画装飾」同39年日展文部大臣賞、「陶製日本の美」同41年日展、「樹海の饗宴」同42年日展、「胡砂の旅陶製額面」同43年日展。『日本の焼物(九谷篇)』(昭和37年、淡交社刊)の著書がある。

多々羅義雄

没年月日:1968/12/10

光陽会々長、洋画家多々羅義雄は12月10日、心不全のため東京神田の同和病院で逝去した。享年74歳。多々羅義雄は明治27年9月18日福岡県能古ノ島に生まれた。同44年佐賀に出て青木繁に師事。45年上京、満谷国四郎に学び、また太平洋画会研究所に入った。そのご本郷研究所にも学んだ。大正2年第7回文展に「南の海」が初入選となり、第8回展に「夕陽の村」「伊豆の海辺」が入選、9回展で「海岸の山」が褒状となり、第12回展で「上総の海」が特選となった。文展から帝展へと出品をつづけ第11回帝展から無鑑査待遇となっている。昭和4年から太平洋美術学校教授として約4年間勤め25年太平洋画会代表となった。29年新に光陽会を創立、会長として晩年を送った。41年光陽会第14回展出品作に対し、文部大臣奨励賞、光陽会功労賞をうけている。昭和10年前後、毎年朝鮮、中国、満州、台湾方面に旅行、写生をつづけた。

熊谷登久平

没年月日:1968/11/24

独立美術協会会員の洋画家、熊谷登久平は、11月24日、午後4時45分、東京駿河台・日大病院で食道ガンのため死去した。享年67歳。熊谷登久平は、明治34年(1901)10月2日、岩手県東盤井郡に生まれ、大正14年中央大学商学部を卒業、学生時代に川端画学校に入り、大正13年修了、昭和元年、白日会展に入選、このころ長谷川利行を識り、親交を結ぶ。昭和2年、白日会会員に推されたが、昭和4年には「気仙沼風景」「赤松と水車小車」を二科展に出品入選、翌5年には「海」「落日」を出品した。昭和6年、独立美術展第1回展に入選、その後、毎回出品して、昭和8、10年の出品作で海南賞を受賞し、昭和11年独立美術協会会友に推薦され、同16年会員となった。昭和37年以後、41年まで毎年、東京日本橋三越で個展を開催し、同38年にはヨーロッパに旅行した。また、著書に「初等図画練習帳」(5巻)、「熊谷登久平画集(絵と文)」(昭和16年、美術巧芸社)などがある。作品略年譜昭和6年「教会堂」「噴水のある風景(浜町公園)」 同7年「風景」「秋」「夏山」「静物」 同8年「画架と雉子」「鳥離室」「月夜」「風景」 同9年「山百合と娘」「菜園」 同10年「夕月」「五月幟」「朝顔」 同11年「七夕」「風景」「雲雀」 同12年「港」「Ballet Cauhaval」「春の朝」 同13年「古都と噴水」「パラシュート」「美しき海」 同16年「太鼓」「笛」 同17年「母子」「鳩」 同22年「十字架のある風景」「修道女」 同23年「聖書頌歌」 同24年「朝の港」「裸婦」 同27年「寿美子の乳房」「うすれ日」 同29年「ふるさと」 同30年「白い町」 同31年「夏去りし海」 同34年「河口」「古き灯台」 同38年「ナイル河」「サワラ砂漠」 同39年「NICEの宿」「斗牛士」 同40年「ローマの碑」 同41年「愛も武力も十字架も(殉教)」 同42年「裸女」「木の間」

阿部金剛

没年月日:1968/11/20

二科会会員の洋画家、阿部金剛は、11月20日午後10時25分、心筋コウソクのため東京逓信病院で死去した。享年68歳。阿部金剛は、明治33年6月26日、岩手県盛岡市において、元東京府知事阿部浩の長男として生まれた。母は、梅花と号した書家であった。東京府第一中学校を卒業、慶応義塾大学文学部予科に入学したが、岡田三郎助に師事して絵画を学び、大学を中途退学して、大正15年(1926)フランスに留学、アカデミー・ジュリアン、アカデミー・ランソンに入って学び、専らビシェールの指導をうけた。そのほか、藤田嗣治、キスリングなどの影響をうけ、昭和2年(1927)に帰国、昭和4年16回二科展に「Girleen」「Rien」が初入選し、以後二科展に超現実主義風の作品を発表、昭和17年二科会会友に推挙された。その間に、「超現実主義絵画論」(天人社版)「阿部金剛画集」(第一書房)の著書を刊行した。戦後派、再建された二科会に参加、昭和22年会員となり、「Rein」の連作を発表したが、昭和35年(1960)から昭和42年(1967)までメキシコ、アメリカに滞在、帰国して前夫人三宅艶子のもとで病没した。寿延、寿廷散士の号がある。作品略年譜昭和4年「Girleen」「Rien」16回二科展、同5年「Amazonne」「Rien」(二科展)、同6年「P氏の修辞学第二」「スエズの碇泊」(二科展)、同8年「意志と肉体と化学」(二科展)、同9年「貿易風」「バビア・ブランカ」(二科展)、同10年「美しき音の世界」(二科展)、同15年「月夜」(二科展)、同16年「習作」「習作」(二科展)、同22年「イヴ」(二科展)、同24年「オダリスク」「美しき対立」、同25年「ネプチューン」「月」、同26年「Lady」、同27年「レダ」「シジフの神話」、同28年「Rein」2点、同29年「Rein」三部作、同30年「黒猫」、同32年「Rein1・2」、同33年「Rein H.J.G.I」、同34年「Rein A-1、B-1、C-1」、同35年「作品1・2・3」、同36年「作品603」「作品602」

水田黄牛

没年月日:1968/11/19

本名好治、南画家の水田黄牛は、11月19日直腸ガンのため、死去した。享年71歳。水越松南に師事し、竹圃、硯山、要樹平と南画家四兄弟として知られる。

川村信雄

没年月日:1968/11/18

太平洋美術会会員の川村信雄は、11月18日午前7時50分、横浜市立医大附属病院にて脳軟化症のため死去した。享年76才。川村信雄は、明治25年(1892)9月18日熊本市に生まれ、東京富士町小学校をへて、東京開成中学校に進んだが病気のため中退し、明治41年太平洋画会研究所に入り洋画を学ぶ。この頃、川上涼花ら『紫紅』という廻覧雑誌をつくり、約150号続け、また展覧会を開催した。大正元年、斎藤与里、高村光太郎、岸田劉生らとフュウザン会を結成、第1回展に「女と瓦斯の光」「真夏の日」「肖像」「トマトとバナナと」「静物」「別れ」「ダリヤ」「百合花」を出品、翌2年の第2回展に「伊豆の冬」「冬」「静物」「伊豆山」「自画像」「風景」を出品した。フュウザン会解散後は、大正5年斎藤与里、硲伊之助らと日本美術家協会をつくり展覧会を開催、また大正3年から文展、帝展に出品した。大正8年横浜美術協会創立に参加したが、大正12年大震災の直後、横浜貿易新報社長三宅磐の依頼をうけて、川端童子、石井柏亭、岡田三郎助らを招き、横浜桜木町駅前興産館(現、市民ギャラリー)で展覧会を開催した。大正14年横浜弘明寺に川村画塾を開設。昭和8年満州に旅行し、朝日新聞神奈川版に画報紀行を寄稿、同13年横浜市の使節として北中国地方の傷病兵を慰問旅行する。昭和13年太平洋画会会員となり、戦後も太平洋画会委員、神奈川県美術家協会会員として活躍し、昭和40年には横浜文化賞を受賞した。主要作品:「葡萄棚のある家」(帝展出品)「養蜂園」(帝展)、太平洋画展出品作品:「山村の春」昭和27年、「夏の静物」同28年、「芍薬」同29年、「塔」同32年、「奈良の家根」同35年、「浄瑠璃寺曼荼羅」同36年、「桜島」同38年、「早春の唐松」同40年など。

橘瑞超

没年月日:1968/11/04

浄土真宗本願寺派興善寺住職橘瑞超は、11月4日午後6時55分急性心臓衰弱のため、名古屋市中区西白山町の同寺で死去した。享年78歳。明治41年18歳で第2次大谷探検隊の隊員となり、トルファン、ローラン、ニヤ、コータン等の調査を行い、インドを経て英国に留学、43年帰国の途次第3次探険隊員として再度西域に入り、トルファン、ローラン、ミーラン、コータン等の調査を行った。その間タクラマカン砂漠の縦断を遂げ、アルチン山脈の登攀を試みるなど幾度も死線をさまよった末、辛苦をなめて敦煌に至っている。仏教東漸のルートを探る求道者の真摯な努力を物語るこの足跡は、我国が西欧諸国に伍して行った西域探険事業の成果として、同時に多くの貴重な収集品をも齎して、宗教、歴史、美術史の学界に大きく寄与した。昭和38年紫綬褒章、同41年勲三等瑞宝章をうけた。

金子九平次

没年月日:1968/10/29

彫刻家、元国画会会員の金子九平次は10月29日午前9時40分川崎市の関東労災病院で穿孔性胃かいようのため死去した。享年73歳。告別式は31日東京都港区、金光教御田教会で行なわれた。明治28年9月9日東京市芝区に生まれ、岡山県金光中学校を卒業、父金子吉蔵、長谷川栄作に彫刻を学び、大正10年第3回帝展に「春愁」入選、翌11年渡欧し、ブールデルに師事、サロン・ドートンヌ、サロン・デ・チュイレリー、サロン・ナショナル等に出品、大正15年秋帰国し、偶々同年国画創作協会に梅原龍三郎、川島理一郎を迎えて第二部が新設されており、滞仏中知己となった土田麦僊の紹介で、この第二部の彫刻を担当するよう会員に迎えられた。その後国画創作協会は昭和3年7月解散したが第二部は存続して国画会と改称し、金子はそのまま彫刻部の中心的存在となった。昭和7年、第7回国画会展への出品をきりに、同会を退き昭和12年新古典美術協会を創立主宰した。戦後は久しい間中央での活動はみられなかったが、38年11月初旬、日本橋・丸善画廊で「金子九平次彫刻展」を開いて新作を発表、多くの人々はその健在を知った。

湯川尚文

没年月日:1968/10/23

日本童画会会員、創造美術教育協会委員の美術教育家の湯川尚文は、10月23日、胆石のため死去した。湯川尚文は、明治37年(1904)5月22日、東京都に生まれ、東京豊島師範学校第二部を卒業、日本美術学校にも在学した。東京都文京区根津小学校に勤務し、20余年間にわたって児童の美術教育を担当して昭和29年退職した。以後、新宿区戸塚第1中学校美術科講師となった。この間に、日本水彩画会展、光風会展、日本童画会展にも出品したが、独立美術展には昭和7年第2回展から出品入選し、「卓上」(2回展)、「ギターその他」(4回展)、「機械を配せる風景」(5回展)、「樹木とオートバイ」(6回展)、「海浜と網」(7回展)、「建物」(8回展)、「廃墟」(12回展)、「画室の一隅」(17回展)などの作品を発表した。また、美術教育に関する評論、解説などを教育雑誌、美術雑誌に寄稿し、図工科教科書の編集にも従事し、国際学童水絵展(朝日新聞社主催)、「母と子」の児童展(森永製菓K.K.主催)、世界学生美術展(日本ユネスコ美術教育連盟)などの審査員をつとめた。著書に「児童と絵画」(綜合美術研究所)、「絵をかく子供」(誠文堂新光社)、「生きている児童画」(大蔵出版)、「図工科」(岩波教育講座・第6巻)などがある。

加藤土師萠

没年月日:1968/09/25

重要無形文化財保持者(人間国宝)の陶芸家、加藤土師萠(本名・一)は、9月25日午前11時半、肝臓がんのため東京・新宿区の国立第一病院で死去した。享年68歳。加藤土師萠は、明治33年(1900)、愛知県瀬戸市に生まれ、小学校を卒業後、伊藤四郎左衛門工場の陶画工となり、大倉陶園の初代技師長の陶芸家日野厚に師事し、愛知県立窯業学校の夜学に通い、図案、絵画、英語を学ぶ。大正6年瀬戸陶磁工商同業組合検査員、大正8年愛知県立窯業学校助手となる。大正9~11年兵役に服し、除隊後復職、同14年岐阜県商工技手となり、岐阜県陶磁器試験場に勤務した。昭和3~14年応召されて北支に従軍し、帰還後、商工技手を退官して陶磁工芸の創作に専念する。昭和2年8回帝展に「福寿文壺」を出品、以降毎回出品し、昭和10年に中国・朝鮮に旅行して各地の陶業を調査、同12年パリ万国博に出品し最高賞大賞を受賞した。昭和15年横浜市日吉に窯を築いて創作活動を続け、戦後は日本工芸会に所属し、中国明時代につくられた金襴手黄地紅彩など、現在中国で杜絶えている色絵磁器の技法を再現し、華麗な作品を伝統工芸展などに発表した。昭和28年、東京芸術大学美術学部非常勤講師、同30年教授となる。昭和36年、色絵磁器によって重要無形文化財の認定をうけた。昭和42年東京芸術大学教授を退官、名誉教授となり、また日本工芸会理事、文化財専門審議委員などをつとめ、皇居新宮殿の納める飾り壺を制作中であった。

高林和作

没年月日:1968/08/15

元京都美術大学教授の洋画家、高林和作は、8月15日午後9時、脳いっ血のため京都市上京区の自宅で死去した。享年68歳。高林和作は、堺市の出身で、大正12年、早稲田大学文学部英文学科を卒業、昭和2年フランスに渡り、アカデミー・スエドアのワロキエの教室に学び、サロン・デ・チュイレリーに出品。昭和5年帰国して京都絵画専門学校助教授、教授となり、昭和40年退官した。美術団体には所属せず、個展を開催して作品を発表し、すぐれた色彩画家として一部に注目されていた。

宮原明良

没年月日:1968/07/09

日本画家宮原明良は、心不全のため東京都世田谷区の自宅で死去した。享年64歳。線による抽象的水墨画を描いて知られた。41年には山水画が、パリ国立近代美術館に収蔵され、40年には紺綬褒章を受章した。

久保金平

没年月日:1968/07/03

漆芸家久保金平は7月3日慢性腎臓炎のため京都市の自宅で逝去した。65歳。明治35年12月15日に滋賀県大津市で生まれた。高等小学校卒業後大正6年に鈴木表朔(初代)に師事。昭和3年9回帝展に菓子盛器「波紋」を出品入選した。同12年第1回文展に「高雄蒔絵手筥」が入選、20年第1回京展で市長賞授与された。21年に創人社同人として活躍し、23年京都朝日画廊で個展を開催した。同30年11回日展で、「晨韻漆屏風」が特選となった。32年朱玄会より同人。33年社団法人日展に委嘱出品、35年3回日展で審査員となる。同40年8回展でも審査員に任ぜられた。主要作品は「晨韻漆屏風」(昭和30年)、「花器のあるスクリーン」(31年)、「連翔漆衝立」(33年)、および「鶴」屏風、乾漆花器「黒象」、パネル「明けわたる」などで、このうち京都市より数回買上げになった。

飯田実雄

没年月日:1968/06/30

独立美術協会会員の洋画家、飯田実雄は、6月3日、千葉県船橋市の自宅でのう胸のため死去した。享年63歳。飯田実雄は明治38年(1905)、福岡市に生まれ、大正14年大阪に出て信濃橋洋画研究所に入所し、小出楢重の指導を受けたが、昭和3年上京して新洋画研究所に入り、中山巍に学ぶ。この研究所は、その後独立淀橋研究所と合体したが、飯田は、その運営に従事した。独立美術展には、昭和6年第1回展から出品したが、昭和14年台湾に渡り、台湾美術研究所を開設した。昭和21年帰国。同28年第21回独立展、「天使」「石仏」によって独立賞を受賞し、同31年準会員に推され、同35年、会員に推挙された。41年ヨーロッパに旅行した。作品略年譜(独立展出品作)昭和6年「工場」 同7年「雪景」「窓と花」 同7年「北国の港」「地球儀のある静物」 同16年「紅頭嶼」「台湾家禽」 同17年「独木舟」「野食」 同21年「たそがれの女」「母子像」「喫食」 同22年「朝」「台湾を去る」 同23年「裸婦」 同27年「聖堂」 同28年「天使」「石仏」 同29年「浦上のマリア」 同30年「受難(原爆シリーズ)」「灰燼(原爆シリーズ)」同31年「マリアとキリスト」 同32年「聖像」 同34年「黒い十字架」 同35年「神々のオブジェA、B」 同36年「シジホスの神話A、B」 同37年「黙示録の騎士」 同38年「ロクロを廻す男」「考える男(升田幸三九段像)」 同39年「ヘラクレスの末裔A、B」「聖火」 同40年「裸婦A、B」 同42年「巴里のフーテンA、B」

新海竹蔵

没年月日:1968/06/13

彫刻家、国画会会員の新海竹蔵は、6月13日午前10時、心筋梗塞のため東京都北区の自宅で死去した。享年71歳。告別式が16日東京青山葬儀場で行なわれた。明治30年6月12日山形市の仏師の家に長子として生まれた。明治45年3月郷里の高等小学校を卒業し、10月上京、伯父の新海竹太郎のもとで彫塑を修業した。大正4年第9回文展に「母子」が初入選、以後文展、帝展に出品したが、大正13年第11回院展に木彫「姉妹」を初出品し、若手作家として嘱望され、昭和2年には日本美術院同人の推挙された。以来院展彫刻部の主要メンバーとして活躍、「出羽ケ岳等身像」(昭8)、「婦人像」(昭12)、「砧」(昭14)など、殊に木彫による秀作を発表、昭和17年には茨城県五浦に岡倉天心記念碑として天心像レリーフ(ブロンズ)の優品を作った。円熟期に入った戦後の製作活動は多くの識者の間で評価が高まり、わが伝統素材である乾漆の手法を工夫するなど、堅確質実な作風の多くの佳作を生んだ。「在田翁試作」(昭23)、「少年トルソー」(昭28)などその代表的なものであり、29年第1回現代美術展出品作「少年」が芸術選奨文部大臣賞の授賞となった。36年2月日本美術院彫塑部が解散となり、9月院展当時の同志や有望な後進と共に、彫刻家集団(S・A・S)を結成、11月銀座松屋にてS・A・S第1回展を開催した。出品作「三味線試作」「二つのトルソー」はまた好評を博した。38年10月国画会彫刻部新設に際し、S・A・Sの主要メンバーがそのまま迎えられ、国画会会員として参加した。同会彫刻部が漸く軌道にのりはじめた時、新海の急逝は誠に惜しまれる。年譜明治30年(1987) 6月12日山形市、父新海義蔵、母新海たけの長男に生まれる。新海家は竹蔵の曽祖父母の頃より仏師と称せられる業に従事したものである。明治37年 山形市立第二尋常小学校に入学明治45年 3月山形市立高等小学校を卒業。10月上京して本郷区彫刻家伯父新海竹太郎の家に寄居す。大正4年 第9回文展に「母子」を出品して初入選。大正6年 徴兵適齢となり甲種合格。第5回国民美術協会展に「凝視」を出品二等賞。第11回文展に「日向に立つ土工」を出品入選。12月東京中野通信隊に入隊。大正9年 ハルピン戦時逓信所に配属、その夏陸軍上等兵となる。12月内地に帰還。大正10年 正月中野通信隊除隊、再び新海竹太郎の下に寄居し彫刻に従う。第3回帝展に「木の実持つ女」出品入選。大正11年 7月9日竹太郎の助手として千駄木観潮楼にて森鴎外のデスマスクをとる。第4回帝展に「二人裸女」出品。大正12年 鶴見総持寺、大観音製作の助手をする。大正13年 第11回院展に木彫「姉妹」出品し入選(院展初出品)。大正14年 2月院展試作展に「二人裸女」鋳銅小品作品して試作賞。3月前年の大震災によって破損せる鎌倉長谷大仏の修理が始まり、伯父竹太郎に従ってこれに従事す。第12回院展に「S・Hの首」ブロンズを出品し、院友推挙。10月東京府北豊島郡に家を作り独立。大正15年 2月院試作展に「宮本重良氏像」を出品、試作賞。第1回聖徳太子奉讃展に「浴女」を出品。9月第13回院展に「浴女」2人群像を出品。昭和2年 第14回院展に「花」群像を出品。日本美術院同人推挙。昭和3年 3月院試作展に「大尉S」出品。第15回院展に「春」「秋」「若き母」出品(春秋は東大図書館装飾のもの)10月17日武井トミ次女幸野(明治40年3月23日生)と結婚す。昭和4年 3月院試作展に「父と子」出品。第16回院展に「春秋」「若き母」出品。昭和5年 3月府下に転居3月第2回聖徳太子奉讃会「道化役者」木彫出品。第17回院展に「菅原教造像」木彫と「羊」「松」出品。11月14日同年春より製作中の伯父、竹太郎の胸像を完成。昭和6年 3月院試作展に斎藤氏小銀像を完成。9月第18回院展に「排便」セメント作出品。昭和7年 3月試作展に「たらいと少女」木彫出品。昭和8年 2月馬越恭平氏立像を作る。3月東大図書館壁の装飾原形を作る。4月靖国神社に献納の狛犬(石彫)を作り13日、献納式。5月東大医学部附属外来患者診療所入口上の装飾レリーフを作り9月に完成。第20回院展に「出羽ケ嶽等身像」木彫出品。昭和9年 文部省美術研究所より依頼され、竹太郎伝記の資料蒐集に旅すること多し。昭和10年 3月院試作展に「S翁の首」出品。4月山形県護国神社社頭の狛犬成り24日献納式。東京府美術館10周年記念展に(昭和5年作)「道化役者」を出品する。9月樺太護国神社に建立の狛犬を製作する。昭和11年 4月改組帝展第1回に「結髪」木彫出品。9月第23回院展に「試作」泥漆を出品。昭和12年 第24回院展に「婦人像」三味線を持つ木彫出品。9月国立公衆衛生院に「羊」「芦鷺」レリーフ製作。昭和13年 第25回院展に「葦鷺」出品。昭和14年 第26回院展に「朝鮮にて、砧、老人」を出品。昭和16年 第28回院展に「兵士」セメント像出品。昭和17年 10月五浦にて岡倉天心記念碑を彫る。11月8日除幕式。昭和18年 第30回院展に「若鷺頭部」木彫出品。9月8日第6回満州国展開催につき彫刻部審査員を依嘱され渡満す。昭和22年 第32回院展に木彫乾漆「M・H翁頭部」を出品。昭和23年 3月第3回小品展に「控へ力士」出品。第33回院展に「在田翁試作」木彫乾漆を出品。昭和24年 第4回院小品展に「吉田氏頭部」出品。昭和24年度文部省主催日本現代美術展に「在田翁試作」を再度出品。第34回院展に「少年のトルソー」横臥木彫乾漆を出品。日本美術家連盟を結成のため創立委員となる。昭和25年 3月1949年度第1回選抜秀作美術展覧会(朝日新聞社主催)に昨年の「少年トルソー」を出陳。10月新潟県美術展に審査を依嘱される。12月美術出版社より「彫刻の技法」を出版、その中で木彫の部を執筆する。昭和26年 第36回院展に「少年トルソー」立像、木彫乾漆を出品。10月ブラジル・サンパウロ第1回国際ビエンナーレに「在田翁試作」を出品。10月山形県展審査を依嘱され山形に行く。昭和27年 1月第3回秀作美術展(朝日新聞社主催)に「少年のトルソー」出品。7月白樹会に「少女」木心乾漆出品。第37回院展に「半迦像試作」出品。10月東京教育大学教育学部彫塑専攻科非常勤講師を依嘱される。昭和28年 6月国立近代美術館にて近代彫塑展-日本と西洋-に「少年トルソー」出品。1月第4回秀作美術展(朝日新聞社主催)に「半迦像試作」出品。教育大学内芸術学会誌スクール・アートに「木彫の基本」を執筆。昭和29年 5月白樹会に「トルソー」テラコッタを出品。5月第1回日本現代美術展(毎日新聞社主催)に「少年」を出品する。昭和30年 1月第6回選抜秀作美術展(朝日新聞社主催)に「少年」出品。4月昭和29年度の作品「少年」に対し、芸術選奨(文部大臣賞)を受賞。8月山形県展審査のため山形に行く。第40回院展に「少女のトルソー」出品。11月9日山形市の有志の努力により、以前供出されたる新海竹太郎胸像の再建なる。昭和31年 第41回院展に「少年の首」木心乾漆を出品。国立近代美術館、日本の彫刻(上代と現代)展に「砧」出品。昭和32年 5月第8回選抜秀作美術展(朝日新聞社主催)に「少年の首」出品。7月現代美術10年の傑作展(毎日新聞社主催)に「少年」を招待出品。第42回院展に「K氏の顔」出品。9月文部省主催地方巡回10周年記念明治、大正、昭和名作展に「少年トルソー」出陳。昭和33年 1月第9回選抜秀作展(朝日新聞社主催)に「K翁の首」出品。5月第3回現代美術展(毎日新聞社主催)に「肩衣のトルソー」出品。8月山形市制70年記念日に際し、美術の指導と啓蒙の功により表彰と銀盃を受く。昭和34年 1月近代美術館戦後秀作展に「少年」出品。2月日本美術院監事に選ばれる。5月「砧」国立近代美術館の収蔵となる。第44回院展に「U・S博士」出品。9月文部省主催、明治、大正、昭和美術回顧展(日本芸術院会員と受賞作家の秀作展)に「少年の首」出品。昭和35年 5月第5回現代美術展(毎日新聞社主催)に「トルソー」を出品。5月玉川百科辞典造型の部木彫を執筆。7月文部省、明治、大正、昭和名作巡回展に「U・S博士」を出品。昭和36年 2月日本美術院彫塑部解散。5月現代美術展(毎日新聞社主催)に「半迦の女」を出品。9月文部省主催明治、大正、昭和名作展に「半迦の女」木彫出品。9月「S・A・S」彫刻家集団を結成し発会式。11月銀座松坂屋にてS・A・S第1回展「三味線試作」「二つのトルソー」出品。昭和37年 1月第13回選抜秀作美術展(朝日新聞社主催)に「三味線試作」を出品。2月文部省主催第1回全国県選抜展の賞選考委員を依頼さる。2月「三味線試作」文部省36年度優秀美術品買上げ。5月現代美術展に「D・H翁」出品。12月5日S・A・S第2回展を大丸に開く。「扇を持つ女」プラスチック出品。昭和38年 5月S・A・S春季展に「海人」レリーフ出品。5月国際美術展(毎日新聞社主催)に「海女」を出品。白樹会第10回展(白木屋)に「少年」「扇を持つ女」「メヂィチのヴィナス」出品。10月国画会とS・A・Sの合同宣言。国画会会員となる。10月文部省主催、明治、大正、昭和名作巡回展に「扇を持つ女」出品。昭和39年 1月第15回秀作美術展(朝日新聞社主催)に「少年のトルソー」を出陳。(山形の美術博物館建設と、伯父竹太郎の傑作である、大山元師像再建に努力する)。9月文部省主催、明治、大正、昭和名作美術展に「D・H翁頭部」を出品。昭和40年 39回国画会展に「海女」出品。5月国際美術展(毎日新聞社主催)に「三味線」出品。9月文部省主催、明治、大正、昭和名作巡回展に「M嬢」を出品。12月近代美術館に「砧」を寄贈せる件による紺綬褒章をうける。昭和41年 第40回国展に「少女」出品。5月阪大初代総長、長岡半太郎博士胸像完成。文部省主催、明治、大正、昭和名作展に「海女」小品鋳銅を出品。昭和43年(1968) 1月東京教育大学講師を辞任。42回国画展に「K・Sの首」出品。5月第8回現代日本美術展(毎日新聞社主催)に「海女」出品。5月山形美術博物館に伯父新海竹太郎遺作陳列室完成、陳列指導のため山形に行く。6月13日午前10時急激な心筋梗塞のため死去す。満71歳。勲4等瑞宝章授与される。9月山形美術博物館において代表作品37点による新海竹蔵遺作展が開催される。開催中平櫛田中翁「新海竹蔵の人と芸術」と題して講演。「新海竹蔵作品集」(44年4月、国画会彫刻部刊)年譜参照。

奥村紅稀

没年月日:1968/06/05

日本画家奥村紅稀は、6月5日脳いっ血のため、京都市左京区の自宅で死去した。享年71歳。愛知県に生まれ、京都絵画専門学校を卒業、西山翠嶂に師事した。大正11年帝展第4回展に「梅屋」を初出品以来、帝、文展に出品し、主として風景花鳥を描いた。

石黒宗麿

没年月日:1968/06/03

重要無形文化財保持者、日本工芸会理事、石黒宗麿は、6月3日、京都市左京区の自宅で死去した。享年75歳。石黒宗麿は、明治26年(1983)4月14日、富山県新湊の医師石黒伯の長男に生まれた。明治31年7月11日富山県立富山中学校を中退したが、大正8年ころ東京美術クラブにおいて、世界の名器として定評のある稲葉家から岩崎家に移った曜変天目茶碗、「稲葉天目」をみて感激し、陶芸に志すにいたった。大正10年5月に上京して渋谷区富ヶ谷に築窯して製陶研究にはいり、同12年8月埼玉県比企郡に築窯、同15年2月に金沢市に移り、昭和2年1月京都市東山に転じ、このころから小山富士夫氏らと中国、日本の古陶磁の研究に着手し、その再現に努力した。石黒宗麿は、特定の師につかず、専ら古陶磁を師として独学研究に従ったが、昭和9年6月からは1年間、佐賀県唐津市に滞在して古唐津とお茶碗窯復興に尽力し、同10年4月10日には京都市郊外八瀬に築窯した。昭和13年5月、中国、満州、朝鮮各地の陶磁業を視察し、同16年11月、柿天目、黒定窯、河南天目、木葉天目など曜変天目からの感動に発した宋窯の研究は一応その技法を解明して完成された。こうした鉄釉にかかわる宋磁研究をもとにして品格の高い作品を発表し、他の追従を許さない境地を開拓し、また唐三彩、均窯、絵高麗、三島、唐津などの作域においてもすぐれた技術を示し幅広い活動をおこなって、陶芸界に大きな影響を与えた。昭和30年2月、鉄釉陶器の重要無形文化財保持者(人間国宝)の認定を受けた。また同年設立された社団法人日本工芸会の理事に就任し、伝統工芸の振興に力を尽し、昭和31年2月には富山県新湊市名誉市民に推され、同年6月には陶芸研究家のために居住していた住居、工房を提供して財団法人八瀬窯を設立し、後継者の養成にあたった。昭和38年11月、紫綬褒章を受章。なお、晩年には社会福祉法人愛隣会を通じて、身体障害者、精神薄弱児、母子家庭、保育園などの福祉活動にも献身的に協力していた。

山口薫

没年月日:1968/05/19

モダンアート協会会員、東京芸術大学教授、山口薫は、5月19日午前1時10分、胃ガンのため東京・新宿区の東京女子医大病院で死去した。享年60歳であった。山口薫は、群馬県榛名山麓の旧家の11人兄弟の末子として生まれ、県立高崎中学卒業後、東京美術学校西洋画科に入学した。中学時代には、絵日記をかき残しており(没後に出版された)、また川端学校でデッサンを勉強した。美術学校在学中の大正15年(1926)には帝展に入選、早くから才能を発揮したが、昭和5年、美術学校を卒業して渡欧し、ヨーロッパ諸国を歴遊、帰国した翌年の昭和9年には、既成の団体から脱会して、村井正誠、矢橋六郎、長谷川三郎らの同志とともに昭和10年代前半に簇生した青年画家グループの先駆けとなった「新時代」社を設立し、近代的な絵画の創作運動を展開した。新時代社は、やがて「フォルム」「黒色」など他の青年画家グループを糾合して自由美術家協会に発展し、戦後は、自由美術協会となり、山口薫はその中心的な作家のひとりとして活躍したが、昭和25年(1950)には、村井正誠、矢橋六郎、長谷川三郎の旧同志とともに自由美術協会を離脱して「モダンアート協会」を設立している。以後、この会に主要な作品発表を続けると同時に、国内で開催された国際美術展や、サンパウロ、ヴェネツィアの各ビエンナーレ展にも出品した。また、文化学院、武蔵野美術学校の講師、昭和28年以降は東京芸術大学において美術教育に従事した。終始、詩情にとんだ清新で造型的な作品を発表し、毎日美術賞(昭和34)、芸術選奨文部大臣賞(昭和35)などを受賞し、高く評価された。なお、詩人集団「歴程」同人でもあった。年譜明治40年(1907)8月13日群馬県群馬郡に生まれる。大正9~14年 群馬県立高崎中学に学ぶ。在学中、何冊かの絵日記をかいており、没後に出版されている。大正14年 東京美術学校西洋画科に入学。大正15年 帝国美術院展に「静物」入選。昭和2年 帝国美術院展に「卓上静物」入選。昭和4年 第4回国画会展に「静物」入選。昭和5年 第17回二科展に「風景」入選。東京美術学校卒業。9月渡欧しフランス、イタリー、スイス、スペイン、エジプトなどを歴訪して美術の研究につとめた。(1933年まで)昭和8年 パリより国画会展に「マルチック風景」「緑衣の女」などを出品し、国画会々友に推薦される。8月、帰国した。昭和9年 4月、矢橋六郎、村井正誠、長谷川三郎、津田正周、大津田正豊と共に新時代展を創立し、5月に第1回展を開始、「巴里近郊の農家」などを出品、以来殆ど毎月紀伊国屋画廊(銀座)で展覧会を開催した(1936年まで継続)。この年、国画会には出品したが、5月に退会した。昭和12年 2月、山口ら新時代展の同人が中心になり「フォルム」「黒色」などの同人をともなって自由美術家協会を結成した。7月、日本美術協会(上野)でその第1回展を開催、「黒耀石」「鏡」「紐」「夢」「森」「花ノ像」「古羅馬の旅」「花」などを出品した。昭和13年 5月、自由美術家協会第2回展へ「山脈」「桃」「夏山(榛名)」「リンゴの曲」「壺A」「壺B」「形体」を出品した。8月、大阪、大和書房において個展を開催した。昭和14年 5月、自由美術家協会第3回展に「蛸壺など」「南風」「泉」「紐」を出品した。昭和15年 5月、自由美術家協会第4回展に「風景」「立像」「新緑」「顔」「人」「壺と鳩」を出品した。7月、自由美術家協会を美術創作家協会に改めた。昭和16年 4月、美術創作家協会第5回展を開催した。昭和17年 1月、資生堂(銀座)において矢橋六郎、森芳雄と3人展を開催し、「流水」「髪」などを出品した。4月、美術創作家協会第6回展に「驟雨」などを出品した。昭和18年 3月、美術創作家協会第7回展に「銃」などを出品した。昭和19年 5月、美術創作家協会第8回展を開催した。11月、戦時特別文部省展に「苔むす巌」を出品した。昭和20年 郷里に帰っていたが、終戦となり上京した。昭和21年 6月、大阪、大丸において自由美術家協会再建の展覧会を開催した。昭和22年 6月、毎日新聞社主催の第1回美術団体連合展に「杉」ほか2点を出品した。7月、自由美術家協会第11回展に「ブルターニュの追憶」などを出品した。昭和23年 5月、第2回美術団体連合展に「ユーロップとゼウス神牛」を出品した。7月、村井正誠、矢橋六郎と3人展を開催した(日動画廊)。10月、自由美術家協会第12回展に「十和田紀行」「保谷クリスタル」「裸婦と風景」を出品した。昭和24年 5月、第3回美術団体連合展に「残雪の木々」を出品した。10月、自由美術家協会第13回展に「画室の森」を出品した。北荘画廊(日本橋)で個展を開催した。昭和25年 9月、長谷川三郎、矢橋六郎、村井正誠らとモダンアート協会を設立した。10月、フォルム画廊において植木茂と2人展を開催した。この年、文化学院教官となる。昭和26年 1月、朝日新聞社主催秀作美術展に「少女の像」を出品した。2月、第1回モダンアート協会展に「夜の宿」「幻想」などを出品した。10月、第2回檀会展に「しののめの馬」「母子」「紐と紙箱」を出品、「しののめの馬」はロックフェラー近代美術館の収蔵となった。この年、フォルム画廊で個展を開催、「幻想の行方」などを出品した。武蔵野美術学校講師となる。昭和27年 1月、1952年サロン・ド・メエ出品発表展に「花子誕生」「手」「子供の遊び場」を出品した。第3回秀作美術展に「母子」を出品した。3月、第2回モダンアート展に「子供のための楽曲“田園”」「クレタのユーロップ」「月光の顔」などを出品した。「母子」は文部省買上げに決定した。5月、毎日新聞社主催第1回日本国際美術展に「木と紐」「春の鳥」を出品した。12月、フォルム画廊において山口薫1952年作品展を開催した。国立近代美術館の開館記念、近代日本美術展-近代絵画の回顧と展望-に「母子」「杉」「木と紐」が陳列された。昭和28年 1月、第4回秀作美術展に「クレタのユーロップ」を出品した。2月、第3回モダンアート協会展に「林の幻影」「ボタン雪と騎手」などを出品した。3月、インド国際美術展に「花子誕生」が出品推薦され、国内展示会が催された。5月、第2回日本国際美術展に「季節の哀歓“田甫と鳥”」「エリザベートの戴冠」を出品した。この年、東京、サエグサ画廊及び大阪、梅田画廊で個展を開催した。この年、東京芸術大学講師となる。昭和29年 1月、第5回秀作美術展に「広場の十字架」「季節の哀歓」「水に映った2匹の馬」「林の幻影」「月光の顔」を出品した。2月、第4回モダンアート協会展に「雪と少女」などを出品した。5月、第1回現代日本美術展に「牛の頭」「顔」を出品した。サエグサ画廊で山口薫巴里留学中の作品鑑賞展が開催された。昭和30年 1月、第6回秀作美術展に「銅色の月」を出品した。2月、国立近代美術館の戦後の絵画・彫刻、19人の作家展に「クレタのユーロップ」「季節の哀歓」「ダム・エリザベートの戴冠」「雪と少女」「少女の像」を出品した。第5回モダンアート協会展に「歌う鳥と壺」「季節の鳥」「雪山好日」を出品した。5月、第3回日本国際美術展に「孤独者のすまい」「白痴の愛」を出品した。昭和31年 2月、第6回モダンアート協会展に「水田を拓く」などを出品した。5月、第2回現代日本美術展に「田園詩」「歳月の記録」を出品し、佳作賞を受けた。9月、日本橋画廊の現代作家8人自選展に出品した。昭和32年 1月、第8回秀作美術展に「水田を拓く」を出品した。2月、第7回モダンアート協会展に「森の二重像」「水質の像」を出品した。第4回サンパウロビエンナーレ展出品国内展示が催された、これには「季節の哀歓」「ボタン雪と騎手」「聖母(ノートルダム)」「雪と少女」「孤独者のすまい」「田園詩」「歳月の記録」「広場の十字架」「水田を拓く」が陳列された。5月、第4回国際美術展に「千手像-“黒夫人”」が出品された。7月、現代美術10年の傑作展(東京渋谷、東横)に「花子誕生」が陳列された。11月、東京銀座、松坂屋において橋本明治・山口薫2人展を開催した。昭和33年 1月、ヨーロッパ巡回日本現代絵画展に「千手像-“黒夫人”」「牛頭」「アラブの月」を出品、その国内展示が催された。国立近代美術館(朝日新聞社と共催)の戦後の秀作展に「水田を拓く」が陳列された。2月、モダンアート協会展に「道化の馬」「船のような風景」を出品した。5月、第3回現代日本美術展に「林と動物」を出品した。山口薫・橋本明治2人展を東京銀座、松坂屋で開催した。6月、「林と動物」によりグッゲンハイム日本国内賞を受けた。昭和34年 1月、第10回(昭和33年度)毎日美術賞が「林と動物」その他に対して与えられた。第10回秀作美術展には「林と動物」が選ばれたが、グッゲンハイム国際美術展に出品中のため不出品。4月、第9回モダンアート協会展に「水と小舎」「幻想矢羽根と牛」「牛の親子」を出品した。5月、第5回日本国際美術展に「矢羽根とぶ」を出品した。7月、山口薫・村井正誠展が神奈川県立近代美術館において開催され、70点あまりが陳列された。12月、ピッツバーグ国際絵画彫刻展に招待され「道化の馬」を出品した。昭和35年 1月、第11回秀作美術展に「矢羽根とぶ」を出品した。第30回ヴェネツィア・ビエンナーレ国際美術展への日本側出品作家に選ばれる。出品作品は「田園詩」「森の二重像」「林と動物」「矢羽根とぶ」「荒寥・焼野のきじ」「霧の沼」「娘の肖像おぼえがき」であった(国内展示は3月)3月、「矢羽根とぶ」その他一連の制作活動に対して昭和34年度芸術選奨文部大臣賞が与えられた。4月、第10回モダンアート協会展に「葬送」「沼面春の雨(乾拓地)」を出品した。5月、第4回現代日本美術展に「サラサラ粉雪ふる」「氷湖の鳥」を出品した。昭和36年 1月、第12回秀作美術展に「沼面春の雨」を出品した。サエグサ画廊で山口薫・牛の主題展が開催された。4月、第11回モダンアート協会展に「しろとちび」「しののめの木」を出品した。5月、第6回日本国際美術展に「白い雨」を出品した。この年、蓼科高原と保田に別荘をつくった。昭和37年 2月、朝日新聞社主催により松屋(東京銀座)において山口薫デッサン展が開催された。4月、第12回モダンアート協会展に「荒れた小さい菱形の沼」「甲斐虎のクマ」を出品した。第4回国際具象派美術展に「牛と娘と猫」「丸沼の火山弾」を出品した。5月、第5回現代日本美術展に「小さい氷湖」「五つの沼」を出品した。昭和38年 1月、第14回秀作美術展に「荒れた小さい菱形の沼」を出品した。4月、第13回モダンアート展に「廃船と菜の花畑」「晴れた日の林」を出品した。5月、第7回日本国際美術展に「竹の園生」を出品した。10月、第2回国際形象展に「ある都」「冠と顔の彫刻」「刀と矢と娘の顔など」を出品した。12月、鎌倉近代美術館の昭和初期洋画展に「古羅馬の旅」「緑衣の女」が出品された。この年、東京芸術大学教授となる。昭和39年 1月、第15回秀作美術展は秀作美術展の回顧展で「銅色の月」を出品した。国立近代美術館の滞欧作とその後展に「クルニー美術館の裏庭」「緑衣の女」「紐」「母の葬送」「残雪の木々」「母子」が陳列された。4月、第14回モダンアート展「矢筒と牛の顔」などを出品した。5月、第6回現代日本美術展に「シンフォニー・ランドスケープー沼の樹」「丸い沼と春の雪」を出品した。9月、第3回国際形象展に「水田を飛ぶカーチス式軽飛行機」を出品した。昭和40年 4月、第15回モダンアート展に「春の滝」「弾けない楽器」を出品した。5月、第8回日本国際美術展に「滝壺とやどりぎ」を出品した。8月、ギャルリ・アルカンシェルで山口薫淡彩展を開催した。12月、国立近代美術館京都分館において開催された、具象絵画の新たなる展開展に「十和田紀行「草原をとぶ翼」「ある都」「雪山好日」「水門の裏と表」が陳列された。昭和41年 4月、第16回モダンアート協会展に「ある春の唄」「牛と幼き娘」を出品した。5月、第7回現代日本美術展に「竹の林と娘の顔」を出品した。10月、第5回国際形象展に「鱒池のほとり」を出品した。昭和42年 1月、群馬県美術ファンデーション・ギャラリーで山口薫展が開催された。4月、第17回モダンアート協会展に「月と道産子」「夜間飛行」を出品した。5月、第9回日本国際美術展に「春駒寄せと楽譜」を出品した。6月、東京銀座、松屋で山口薫画業40年の回顧展を開催、この展観には各期にわたる代表的な作品など60点あまりが陳列された。昭和43年 1月、群馬県美術館ファンデーション・ギャラリーで山口薫展が開催された。4月、第18回モダンアート協会展に「若い月の踊り」を出品した。5月、第8回現代日本美術展に「おぼろ月に輪舞する子供達」を出品した。5月19日死去9月、東京芸術大学陳列館において山口薫教授追悼展が開催された。昭和44年 4月8日~5月11日、京都国立近代美術館において山口薫回顧展が開催され、素描、版画を含めて261点が展観された。

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