岩田正巳

没年月日:1988/03/09
分野:, (日)

日本芸術院会員の日本画家岩田正巳は、3月9日午前5時30分、脳出血のため東京都世田谷区の自宅で死去した。享年94。明治26(1893)年8月11日新潟県三條市の眼科医岩田屯、えつの長男として生まれる。本名同じ。父も愛山と号し日本画を描いた。三条中学校在学中、美術教員秋保親美の影響を受け、44年同校卒業後、翌45年川端画学校で寺崎広業の指導により夜間日本画を学ぶ。大正2年東京美術学校日本画科に入学。小堀鞆音、松岡映丘らに学び、仏画模写に励む。7年卒業後、同校研究科に進み、映丘に師事、10年同科を修了した。同10年映丘、川路柳虹を顧問に、映丘門下の狩野光雄、遠藤教三、穴山勝堂とともに新興大和絵会を結成、同年の第1回展に「写真」を出品する。以後同会を舞台に大和絵の新しい表現を研究、昭和6年の同会解散まで毎回出品した。この間、大正15年には、映丘一門による夏目漱石作「草枕」の絵巻制作に参加している。一方、大正13年第5回帝展に「手向の花」が初入選し、15年同第7回「十六夜日記」、昭和3年第9回「比叡の峯」など、古典や歴史に取材した作品を発表。昭和5年第11回帝展「高野草創」、9年同第15回「大和路の西行」がともに特選となる。その後、新文展にも出品する一方、昭和10年映丘を盟主として結成された国画院の結成に参加、同人となり、12年の第1回展に「聖僧日蓮」を出品した。13年映丘の死去に伴い、国画院は研究会として存続することとなった。が、一方旧同人を中心に翌14年日本画院を結成、会員となり29年まで同会に出品した。この間、11年映丘、服部有恒吉村忠夫とともに帝室博物館壁画「藤原時代風俗画」を制作している。戦後は日展を中心に活動し、仏教などにも取材し西域に思いを馳せた作品を制作。35年第3回新日展出品作「石仏」により、翌年日本芸術院賞を受賞、37年にはインドに取材旅行している。27年日展参事となって以後、33年同評議員、47年監事、48年参与、54年顧問を歴任した。また戦後間もない24年頃より2年間東劇、27年頃より2年間歌舞伎座の舞台装置や衣裳の時代考証などもつとめた。52年日本芸術院会員となる。

年譜
明治26年 8月11日、三条市の眼科医の家に長男として生まれる。
明治33年 三条裏館尋常小学校に入学。
明治37年 三条裏館尋常小学校を卒業。三条尋常小学校高等科に入学。
明治39年 三条尋常小学校高等科を卒業。三条中学校に入学。
明治44年 三条中学校を卒業。
明治45年 夜間、川端画学校で日本画を学び、寺崎廣業に指導をうける。
大正2年 東京美術学校日本画科に入学する。
大正3年 第三教室(大和絵)を選び、主任教授小堀鞆音、助教授松岡映丘の指導をうける。この年頃から多くの仏画を模写する。
大正5年 「木蘭往戎図」を描く。
大正7年 東京美術学校日本画科を卒業する。双幅の「魏の節乳母」を卒業制作する。東京美術学校日本画研究科に入学し、松岡映丘に師事。松岡映丘の指導のもと、東京美術学校倶楽部で月並研究会が開かれる。
大正8年 月並研究会の会場が、松岡映丘宅(常夏荘)に移される。
大正10年 映丘塾常夏荘同人の狩野光雅らと、四人で新興大和絵会を結成。東京美術学校日本画研究科を終了。第1回新興大和絵会展に「写真」を出品。
大正11年 第2回新興大和絵会展「初夏のさえずり」。
大正12年 第3回新興大和絵会展「霧たつころ」。石田ミヨと結婚。関東大震災を機に常夏会は一旦解散。
大正13年 第5回帝展に「手向の花」が初入選。
大正14年 第5回新興大和絵会展「武蔵野の秋」。
大正15年 第6回新興大和絵会展「早春浜辺」。映丘一門で夏目漱石作「草枕」の絵巻を制作し、参加。第7回帝展「十六夜日記」。
昭和2年 第7回新興大和絵会展「比叡の峯」「金色夜叉」。第8回帝展「春日垂跡」。
昭和3年 第8回新興大和絵会展「かげる比叡」「備後の海」「狭井川のほとり」。第9回帝展「比叡の峯」。
昭和5年 第10回新興大和絵会展「尾津の一ッ松」、同展はこの回をもって終了。第11回帝展で「高野草創」が特選受賞。
昭和6年 新興大和絵会解散。第12回帝展に「神功皇后」を無鑑査出品。
昭和7年 第13回帝展「役小角」。
昭和8年 第14回帝展「高野維盛」。
昭和9年 第15回帝展に「大和路の西行」で特選となる。
昭和10年 松岡映丘を盟主とする国画院の結成に参加し、同人となる。
昭和11年 松岡映丘らと帝室博物館壁画の「藤原時代風俗画」(4点)のうち1点を制作。新文展招待展に「浜名を渡る源九郎義経」を出品。
昭和12年 国画院第1回展に「聖僧日蓮」を出品。第1回新文展に「富士の聖僧日蓮」を無鑑査出品。
昭和13年 第2回新文展に「山に住む公時」を無鑑査出品。
昭和14年 川崎小虎らと日本画院を創設し、会員となる。第3回新文展に「木下藤吉郎」を無鑑査出品。
昭和15年 第2回日本画院展「忠犬獅子」。この年頃から講談社の雑誌を中心に挿絵を描く。
昭和16年 第3回日本画院展「忠盛」。
昭和17年 第4回日本画院展「降盛出陣」。第5回新文展に「月に躍る」を無鑑査出品。
昭和18年 第5回日本画院展「日蓮」。第6回新文展に「上杉謙信」を招待出品。
昭和19年 戦時特別文展「吉田松陰」。新潟県加茂市に疎開。
昭和22年 第3回日展に「愛犬」を招待出品。
昭和23年 第8回日本画院展「初夏」。第4回日展「第一歩」。東京へ帰る。
昭和24年 第5回日展の審査員をつとめ「少女」を出品。この年頃から2年間、東劇の舞台装置、衣装などの考証にあたる。
昭和25年 第6回日展に「花さす人」を依嘱出品。
昭和26年 第11回日本画院展「あみもの」。第7回日展の審査員をつとめ「鳩」を出品。
昭和27年 第12回日本画院展「猫」。第8回日展の運営会参事をつとめ「秋好中宮」を出品。この年頃から2年間位、歌舞伎座の舞台装置、衣装などの考証にあたる。
昭和28年 第13回日本画院展「牡丹と光琳」。第9回日展「鏡」。
昭和29年 第14回日本画院展「幸若」。第10回日展の審査員をつとめ「夢の姫君」を出品。
昭和30年 第11回日展「いかづち」。
昭和31年 第12回日展「禽舎」。
昭和32年 第13回日展の審査員をつとめ「青夜」を出品。
昭和33年 社団法人第1回日展の評議員をつとめ「秋苑石仏」を出品。
昭和34年 第2回日展「南風舞曲」。
昭和35年 第3回日展の審査員をつとめ「石仏」を出品。
昭和36年 日展出品作「石仏」により第17回日本芸術院賞を受ける。第4回日展「仁王」。
昭和37年 第5回日展「俑4」。インドに取材旅行。
昭和38年 第6回日展の審査員をつとめ「黒い服の李さん」を出品。
昭和39年 第7回日展「紅床」。
昭和40年 第8回日展「熄む」。
昭和41年 第9回日展「李さんと七面鳥」。
昭和42年 第10回日展「架」。
昭和43年 第11回日展「春昼」。
昭和44年 改組第1回日展「緑扇」。
昭和45年 第2回日展「浴(印度・ベナレス水浴)」。
昭和46年 第3回日展「女神」。勲四等旭日小綬章を受ける。
昭和47年 第4回日展の監事をつとめ「神祀」を出品する。
昭和48年 第5回日展の参与をつとめ「漢拓(漢画像石拓本)」を出品。
昭和49年 第6回日展「群飛」。
昭和50年 第7回日展「印度新月」。
昭和51年 第8回日展「花と漢拓」。
昭和52年 日本芸術院会員に推せんされる。第9回日展「宵」。BSN新潟美術館主催で岩田正巳展が開催される。
昭和54年 第11回日展の顧問をつとめ「鴬-一将愛鳥鴬の美聲をよろこぶ」を出品。勲三等瑞宝章を受ける。
昭和55年 第12回日展「晨」。
昭和57年 第14回日展「夢」。
昭和58年 第15回日展「供養の女達」。新潟県美術博物館主催で岩田正巳三輪晁勢展が開催される。(株)美術出版協会から画集刊行記念としてオリジナル石版画「爽」が刊行される。
(『岩田正巳画集』美術出版協会より抜粋)

出 典:『日本美術年鑑』平成元年版(256-258頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「岩田正巳」『日本美術年鑑』平成元年版(256-258頁)
例)「岩田正巳 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9981.html(閲覧日 2024-04-25)

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