中島清之

没年月日:1989/07/07
分野:, (日)

日本美術院理事の日本画家中島清之は、7月7日午前8時55分、急性肺炎のため東京都渋谷区の石山病院で死去した。享年90。明治32(1899)年3月8日、京都山科に生まれ、本名清。別号御龍。大正5年横浜に移り、翌6年から昭和2年まで横浜火災保険会社に勤務した。大正5年松本楓湖の安雅堂画塾に入門し、同13年第11回院展に「桃の木」が初入選、昭和3年第15回院展に「秋」が再入選し、日本美術院院友となる。以後院展に出品し、また昭和元年より山村耕花、18年より安田靫彦に師事した。この間、昭和12年第24回院展の「古画」、14年同第26回「黄街(歌手、曲芸、門、露台、床屋、八卦、室内)」、17年第29回「おん祭(春日若宮、献鳥、御間道御神幸、馬長稚児、射手稚児、細男舞、大太鼓)」が、いずれも日本美術院賞を受賞。戦後も連年出品し、25年第35回院展「方広会の夜」が再び日本美術院賞を受賞、27年同人に推挙された。また16年より東京高等工芸学校で教え、27年には東京芸術大学講師となり、31年退官した。37年渡欧し、インド、中近東、エジプト、モロッコなどを巡遊。翌年帰国し、同年の第48回院展にその旅行に取材した「石の町」「チグリス河畔」を出品、同年日本美術院評議員となる。さらに43年第53回院展で「天草灘」が文部大臣賞を受賞し、53年には日本美術院の理事に就任した。また44年横浜市民ギャラリーで回顧記念展を開催し、45年横浜市文化賞、51年神奈川県文化賞を受賞。このほか、現代日本美術展、日本国際美術展などにも出品し、52年から翌年にかけて、横浜の三渓園臨春閣の襖絵31面を制作している。

院展出品歴
大正13年 第11回 桃の木
昭和3年 第15回 秋
昭和5年 第17回 夏畑/庫裏
昭和6年 第18回 京の店(其1・其2・其3)
昭和7年 第19回 春日野
昭和9年 第21回 花に寄るフランス猫
昭和12年 第24回 古画(日本美術院賞第2賞)
昭和13年 第25回 ゆあみ
昭和14年 第26回 黄街(1歌手)(2曲芸)(3門)(4露台)(5床屋)(6八卦)(7室内)(日本美術院賞第3賞)
昭和15年 第27回 初夏の花(1菖蒲)(2牡丹)(3芍薬)
昭和16年 第28回 演舞
昭和17年 第29回 おん祭(1春日若宮)(2献鳥)(3御間道御神幸)(4馬長稚児)(5射手稚児)(6細男舞)(7大太鼓)(日本美術院賞第3賞)
昭和18年 第30回 平城宮の或日
昭和21年 第31回 晴雪
昭和22年 第32回 和春
昭和23年 第33回 残照
昭和24年 第34回 茶室(1)(2)
昭和25年 第35回 方広会の夜(日本美術院賞(白寿賞))
昭和26年 第36回 明けの街・暮るゝ里
昭和27年 第37回 古代より(1)(2) 同人推挙
昭和28年 第38回 雲
昭和29年 第39回 内海
昭和30年 第40回 流れ(A)(B)
昭和31年 第41回 浄瑠璃
昭和33年 第43回 賢者
昭和34年 第44回 梅川
昭和35年 第45回 顔
昭和36年 第46回 山湖
昭和38年 第48回 石の町/チグリス河畔
昭和39年 第49回 川風
昭和40年 第50回 当麻寺中之坊
昭和41年 第51回 朝のしゞま
昭和42年 第52回 奥山三題(A)(B)(C)
昭和43年 第53回 天草灘(文部大臣賞)
昭和44年 第54回 早苗
昭和45年 第55回 椿笑園の主人達
昭和46年 第56回 足摺
昭和47年 第57回 阿波土産
昭和48年 第58回 喝釆
昭和49年 第59回 塑像
昭和50年 第60回 緑扇
昭和51年 第61回 凍夜
昭和52年 第62回 雷神
昭和53年 第63回 若草
昭和54年 第64回 薮
昭和55年 第65回 二人(左)(右)
昭和56年 第66回 富士

出 典:『日本美術年鑑』平成2年版(247頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「中島清之」『日本美術年鑑』平成2年版(247頁)
例)「中島清之 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9975.html(閲覧日 2024-04-19)

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