生田勉

没年月日:1980/08/04
分野:, (建)

東京大学名誉教授、建築家の生田勉は、8月4日肺ガンのため東京府中市の都立府中病院で死去した。享年68。1912(大正元)年2月20日北海道小樽に生まれ、第一高等学校理科甲類を経て、36年東京大学工学部建築科に入学、39年に卒業する。一高在学中三木清に師事し、一高文芸部委員をつとめ、また立原道造と親交しその没後、41年に堀辰雄編纂の立原道造全集に参加する。卒業の年逓信省営繕課航空局に就職するが、44年第一高等学校教授に就任。46年、雑誌「国際建築」の再刊に参画する。50年、東京大学教養学部助教授となり、同年からアメリカの文明批評家ルイス・マンフォードの翻訳をはじめ交際する。51年、ノースカロライナ大学建築学科客員教授として渡米、オレゴン大学夏季講師をつとめ、同年日本建築学会委員となる。55年日本建築学会意匠研究部幹事、また、この頃より生田建築研究室を設置し建築設計にとりくむ。61年、東京大学教授に就任、大学院建築課程を兼任、同年、日本建築学会からイタリー、フランス、スエーデン、デンマークの建築視察に派遣される。65年、東京大学工学部都市工学科大学院講義を担当。67年には渋谷区神宮前に槐建築研究所を開設する。72年東京大学を停年退官し、同年東京大学名誉教授の称号を受け、また、槐建築研究所を生田勉都市建築研究所と改称する。76年には、アメリカ合衆国建国二百年記念学術会議に招かれ出席する。多くの建築作品とともに、建築評論家としても活躍し、ことにルイス・マンフォードの紹介者として著名で、訳書に『技術と文明』『歴史の都市・明日の都市』などがある。
主要作品
1956 栗の木のある家
1960 芝立電気汁器本館
1962 千葉県立館山ユースホステル
1964 新渡戸記念館、上高地五千尺ロッジ
1966 横浜市農業指導所
1969 日本万国博覧会生活産業館
1970 天竜市民体育館、同農林センター
1977 桐生市文化センター
1979 横浜市日吉地区センター、天竜市立中央公民館
1981 盛岡市立武道館

出 典:『日本美術年鑑』昭和56年版(258頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「生田勉」『日本美術年鑑』昭和56年版(258頁)
例)「生田勉 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9907.html(閲覧日 2024-04-26)

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