加守田章二

没年月日:1983/02/26
分野:, (工,陶)

 益子焼に近代的に造形をとり入れ注目された陶芸家加守田章二は、2月26日肺炎のため栃木県河内郡の自治医大付属病院で死去した。享年49。昭和8(1933)年4月16日大阪府岸和田市に生まれ、府立岸和田高校在学中から油絵に興味を抱き、卒業後上京して本格的に油絵を学ぶ志をもったがこれを断念し、同27年京都市立美術大学工芸科陶磁器専攻に入学、教授富本憲吉、助教授近藤悠三の指導を受ける。在学中の同30年の夏、茨城県日立市の大甕窯へ実習へ赴き、この時はじめて益子を訪れ作陶者が個々に窯を持っていることに強く心を惹かれた。同年、新匠会に「鳥文灰釉皿」が入選し佳作賞を受ける。翌31年京都市美大を卒業、学長長崎太郎と富本の勧めで日立市の日立製作所大甕陶苑の技術員となったが、同33年にはこれを辞し、日立製作所の派遣研究生となって益子に移り、塚本製陶所で作陶の研究を始める。翌年、日立製作所を退社し自立、当初は石灰釉、飴釉、灰釉を手がけ、益子の民芸調とは異質の文様、意匠、器形が不評を買ったりしたが、浜田庄司には注目された。同36年日本伝統工芸展に初入選、以後同展には連続入選し、同39年日本工芸会正会員に推挙される。同40年日本伝統工芸展出品の灰釉平鉢が注目され、翌年日本陶磁協会賞を受賞。同42年、東京日本橋高島屋で個展を開催、この時から同38年以来の須恵器風灰釉が本焼土器風のものに変り作風は第二期と呼ぶべき本格的な創作の段階に入った。また、同年第10回高村光太郎賞を受賞し、暮れには東北地方を旅行して岩手県遠野の地形、風土に魅せられ、翌43年の個展(ギャラリー・手、日本橋高島屋)からは遠野の土による面取りの形体の作品を発表する。同43年日本工芸会正会員を辞退して無所属となり、翌44年6月からは遠野市青笹町糠前字踊鹿に窯場と住居を設け弟子と二人での制作に没頭する。その後、制作発表は主に年2・3回開催した個展でなされ、激しい制作意欲にかられながらその作風はほとんど半年毎に変貌を見せた。即ち、同45年の日本橋高島屋での個展における波状曲線文様の器形から、翌年の彩陶波文、さらに同47年の現代陶芸選抜展(日本橋三越)で示した灰緑色の地に施された白の不定形文様を経て、翌48年の個展(日本橋高島屋)では中国・殷の銅器を思わせる重厚な器形に白い色面による不定形な波頭状文様を示すといった展開である。この間、同49年に昭和48年度芸術選奨文部大臣賞を受ける。同54年には東京・久留米に画家の家を購入し陶房とし、同年遠野からは引き揚げた。同55年からは白血病により体力の消耗甚しく、翌年からは専ら入院生活による療養を余儀なくされたが、体調のよい時にはなお、釉付け、窯焼きも行っていた。没後、『加守田章二作品集』(昭和59年)が弥生画廊から刊行された。

出 典:『日本美術年鑑』昭和59年版(298-299頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
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