藤原啓

没年月日:1983/11/12
分野:, (工,陶)

 伝統工芸、備前焼の人間国宝である陶芸作家藤原啓は、11月12日肝臓ガンのため岡山市の岡山大学医学部付属病院で死去した。享年84。本名敬二。古金重陶陽による古備前焼復興を受けて、備前焼に新風をもたらした藤原啓は、明治32(1899)年2月28日岡山県和気郡に農家の三男として生まれた。はじめ文学を志し、私立閑谷黌中退後、大正8年上京し博文館編集部に勤める。同15年までの博文館時代は、「文章世界」の編集に従事する側ら西條八十ら詩人との交友を深め、自らも二冊の詩集『夕の哀しみ』(大正11年)『壊滅の都市』(同13年)を刊行した。また、早稲田大学英文科の聴講生に入り坪内逍遥に教えを受け、藤島武二が指導する川端洋画研究所でデッサンを学んだりしたが、同12年に片山哲、河上丈太郎らとの交際が始まり、荒畑寒村にマルクス思想を学ぶに及んで社会主義運動に身を投じた。その後、日活映画脚本部、新潮社「婦人之国」編集、博文館「新青年」編集などに携わったが、昭和12年、文学・思想両面における自己の才能に悲嘆して強度の神経衰弱に陥り、静養のため帰郷した。翌13年、穂浪在住で正宗白鳥の弟正宗敦夫に勧められて作陶に手を染め、はじめ正宗の紹介による陶工三村梅景に基礎的な指導を受けた。同16年には金重陶陽を知り、その指導下に技術上の進展を見せ、金重にはその後ながく兄事する。戦後の同23年、国の指定による丸技作家の資格を得て自信を深め、以後本格的に作陶生活に入る。同28年、東京での初の個展を開催し、翌年には北大路魯山人の斡旋により東京・日本橋の高島屋で個展を開催した。同31年第3回日本伝統工芸に「備前平水指」を出品、以後同展への出品を続け、また同年日本工芸会正会員に推挙される。同32年、岡山県指定無形文化財「備前焼」保持者に認定され、翌33年日本工芸会理事となる。同33年プラハ国際陶芸展に「備前壷」で受賞。伝統工芸展をはじめ、現代国際陶芸展(国立近代美術館、朝日新聞社 同39年)、日本陶芸展(毎日新聞社、同46年第1回)などに出品した他、しばしば個展を開催した。また、同38年山陽新聞賞、岡山県文化賞、中国文化賞(中国新聞)、同48年三木記念賞(岡山県)をそれぞれ受賞、同45年には国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された。同51年備前市初の名誉市民となり、同年郷里に財団法人藤原啓記念館が設立され、同56年には岡山県初の名誉県民の称号を受けた。同56年には朝日新聞社主催で「藤原啓のすべて展」が東京、大阪他で開催され、同年『藤原啓自選作品集』(朝日新聞社)を刊行する。陶陽が旧窯元の家に生まれ桃山時代の作風を目指したのに対し、より素朴な鎌倉時代の作風を追求し、文人的気質に根ざした豪放で重量感あふれる「無作為」の作陶に自己の領域を拓いた。長男雄も陶芸作家。

出 典:『日本美術年鑑』昭和59年版(319頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
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