楠部彌弌

没年月日:1984/12/18
分野:, (工,陶)

陶芸界の重鎮として活躍した文化勲章受章者、日本芸術院会員の楠部彌弌は、12月18日午後7時、慢性ジン不全のため京都市中京区の大沢病院で死去した。享年87。明治30(1897)年9月10日京都市東山区に、楠部貿易陶器工場を経営する父千之助の四男として生まれる。本名彌一。父はかつて幸野楳嶺に日本画を学び僊山と号した。明治45年京都市立陶磁器試験場付属伝習所に入所、同期生に八木一艸がいた。大正4年卒業、家業を継がせたい父の意志に反し、東山の粟田山にアトリエを構え創作陶芸を始める。7年粟田口の古窯元跡の工房に移り本格的に陶芸を始めると共に河井寛次郎黒田辰秋川上拙以池田遥邨向井潤吉らと交流を深める。国画創作協会の活動にも刺激され、9年八木一艸、河村己多良(喜多郎)ら5人と「赤土」を結成、陶芸を生活工芸から芸術へ高めるべく運動を始める。第1回展を大阪で開催し4回まで続けるが、12年同会は自然消滅。13年パリ万博に「百仏飾壷」を出品し受賞、一方木喰の展覧会準備を通じて柳宗悦を知り、「劃華兎文小皿」(13年)「鉄絵牡丹花瓶」(14年)など民芸運動の影響を示す作品を作る。しかしまもなくこの運動からも離れ、昭和2年八木一艸らと新たに「耀々会」を結成、また同年工芸部が新設された第8回帝展に「葡萄文花瓶」が入選する。8年第14回帝展で「青華甜瓜文繍文菱花式龍耳花瓶」が特選を受賞しこの年彌一を彌弌と改名。翌年帝展無鑑査となり、この頃朝鮮の古陶磁や仁清などの研究に没頭する。12年パリ万博で「色絵飾壷」が受賞、この年の第1回新文展に後年楠部芸術を特色づける「彩埏」の技法を用いた「黄磁堆埏群鹿花瓶」を出品する。彩埏は釉薬を磁土に混ぜ何度も塗り重ねることで独特の深い色あいを生むものである。戦後一時日展改革要求が容れられず京都工芸作家団体連合展を組織(23年)、日展をボイコットしたことがあったが、26年第7回日展「白磁四方花瓶」が芸術選奨文部大臣賞を受賞した。28年京都の若手陶芸家達を中心に青陶会を結成し指導にあたると共に伊東陶山らと搏埴会を結成する。同年の第9回日展出品作「慶夏花瓶」により翌29年日本芸術院賞を受賞、37年日本芸術院会員となる。また中国古来の彩色法を研究しながら早蕨釉、蒼釉(碧玉釉)などの発色法を考案し、「早蕨釉花瓶」(37年第1回現代工芸美術家協会展)「萼花瓶」(44年第1回改組日展)などを発表する。27年日展参事となって以後33年評議員、37年理事、44年常務理事、48年顧問、また54年日本新工芸家連盟を結成した。44年京都市文化功労者、47年毎日芸術賞、文化功労者、50年京都市名誉市民、53年文化勲章を受章。晩年は彩埏に一層の洗練を加え、52年パリ装飾美術館で「日本の美・彩埏の至芸楠部彌弌展」が開催された。『楠部彌弌作品集』(43年中央公論美術出版)『楠部彌弌展』(46年毎日新聞社)『楠部彌弌展』(52年講談社)『楠部彌弌』(56年集英社)などがある。なお、詳しい年譜は「楠部彌弌遺作展」(京都市美術館、同61年)等を参照。

出 典:『日本美術年鑑』昭和60年版(261頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「楠部彌弌」『日本美術年鑑』昭和60年版(261頁)
例)「楠部彌弌 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9868.html(閲覧日 2024-03-28)

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