中里無庵

没年月日:1985/01/05
分野:, (工,陶)

 唐津焼の国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)の中里無庵(12代中里太郎右衛門)は、1月5日急性肺炎のため佐賀県唐津市の済生会唐津病院で死去した。享年89。明治から大正にかけて疲弊した唐津焼の中興の祖とも目された中里は、明治28(1895)年4月11日唐津市に、旧唐津藩御用窯の窯の伝統を持つ「御茶盌窯」窯元11代中里太郎右衛門(天祐)の次男として生まれた。幼名重雄。大正3年佐賀県立有田工業学校を卒業後、父天祐について学び、同13年父の死去を受けて昭和2年12代中里太郎右衛門を襲名する。同4年から佐賀・長崎両県下の古唐津窯跡発掘調査に着手し、唐津焼特有の「タタキの技法」を研究、古唐津焼の復興に努めるとともに、自らの作陶にも研究の成果を生かし、同6年「刷毛目鉢」を商工省主催18回工芸美術展に発表した。この間、大正11年に材木商無呂津忠七の養嗣子となっていたが、昭和27年には無呂津重雄から中里太郎右衛門に改名した。同30年文部省文化財保護委員会から唐津焼の無形文化財に選択される。翌31年3回日本伝統工芸展に初入選、翌年の4回展出品作「叩き壷」あたりから、独自の「タタキ技法」を軸にした作風を築いていった。以後、伝統工芸展に連続出品し、「叩き青唐津水指」(5回、文化財保護委員会買上)、「叩き黄唐津壷」(13回、文化庁買上)などを発表した。また、同40年には韓国各地を訪問し、同年、岸岳飯洞甕下窯を参考にし御茶盌窯の一隅に割竹式登窯を築窯した。同41年紫綬褒章を受章する。同44年京都紫野大徳寺本山で得度し、法名洞翁宗白、号無庵を受け、同年長男忠夫に13代中里太郎右衛門を襲名させた。同48年韓国ソウル市国立近代美術館で父子展を開催したのをはじめ、同54年には西ドイツ、スイス、オランダ巡回の「唐津展」に出品するなどしばしば海外でも作品を発表した。同51年国の重要無形文化財保持者として認定された。同55年、読売新聞社主催で「人間国宝中里無庵展」を開催、同59年には、東京大阪他で「御茶盌窯開窯二五〇年」を記念して父子展を開催する。

出 典:『日本美術年鑑』昭和61年版(245頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2016年11月11日 (更新履歴)
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