荒川豊蔵

没年月日:1985/08/11
分野:, (工,陶)

 志野焼の人間国宝で文化勲章受章者荒川豊蔵は、8月11日午後2時10分、急性肺炎のため岐阜県多治見市の安藤病院で死去した。享年91。明治27(1894)年3月17日岐阜県土岐郡に生まれる。小学校卒業後、多治見や神戸の貿易商店に勤めるが、向学の志強く、42年京都市丸太町三本木の塾に入り、諸学を学ぶ。大正2年神戸で陶磁器の販売や行商に従事、4年名古屋の愛岐商会に入社する。この頃上絵付の仕事から宮永東山を知り、12年には京都伏見の宮永東山窯の工場長となる。この頃より陶芸の道に入り、13年東山窯に寄宿した北大路魯山人を知る。また毎月開催された古陶器研究会に出席し、15年叔父清右衛門の案内で岐阜県可児郡久々利村大平の古窯跡を発掘、帰途青織部の陶片を拾う。昭和2年魯山人が北鎌倉に築窯していた星ケ岡窯に招かれ、同地に移住。翌3年には魯山人らと朝鮮半島南部の古窯跡を調査する。5年志野・織部が瀬戸で焼かれたという従来の定説に疑問を抱き、魯山人と美濃の大平、大萱の古窯跡を調査、大萱の牟田洞窯跡で志野筍絵茶碗と同じ模様の陶片や鼠志野の鉢の破片を発掘する。続いて大萱、大平、久尻一帯の古窯跡を発掘調査し、志野や織部、黄瀬戸、瀬戸黒などの桃山茶陶が美濃で焼かれたことを確信。陶芸史上でも重要な発見となるとともに、以後古陶の復元に情然を傾ける。昭和7年大萱の牟田洞窯近くに陶房を作り始め、翌年魯山人の星ケ岡窯を正式にやめて大萱に桃山時代そのままの古式の窯を築く。16年大阪梅田の阪急百貨店で初の個展「荒川豊蔵作陶並びに絵画展覧会」を開催。戦後21年多治見市虎溪山裏に薪焚き連房式登り窯の水月窯を開き、また同年設立された日本農村工芸振興会の陶磁器部門指導員、翌22年同部門を受けて新発足した日本陶磁振興会の指導員となる。また文化財保護委員会が27年志野工芸技術、28年瀬戸黒をそれぞれ無形文化財に認定、30年新たに設定された重要無形文化財技術指定制度の第一次指定により、荒川豊蔵は志野と瀬戸黒の技術保持者として人間国宝に指定される。一方、29年第1回日本伝統工芸展に「紅志野茶碗」「瀬戸黒茶碗」「志野菊香合」を出品以後同展に出品を続け、30年日本工芸会の結成に参加、加藤唐九郎と共に同会の長老として活躍する。36年皇居吹上御苑用に「志野タイル」2000余板を焼き、38年チェコ、プラハで開催された第3回国際現代陶芸展で「志野花入」が金賞を受賞。個展も数多く、39年「大萱築窯三十年記念展」(東京日本橋三越)、55年美濃大萱古窯発見50年記念「緑に随う・荒川豊蔵展」(名古屋丸栄)等を開催している。47年頃より「斗出庵」の号を多く用いた。温厚実直な人柄そのままに、重厚で温雅な作風をよくし、淡雪のような白さは、「志野の荒川」の名をとった。代表作に、志野茶碗「随緑」(36年)、同「耶登能烏梅」(51年)、瀬戸黒金彩木葉文茶碗(40年)などがある。46年文化勲章を受章し、同年文化功労者、47年多治見市名誉市民となった。また著書に『日本のやきもの・美濃』(小川富士夫と共著。38年)、長年の研究をまとめた『志野』(42年)、『緑に随う』(52年)、作品集に『荒川豊蔵自選作品集』(51年)などがある。59年自宅近くに荒川豊蔵資料館を開き、古陶器片や自作品2300点を収蔵、一般公開した。

出 典:『日本美術年鑑』昭和61年版(255頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
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