加藤唐九郎

没年月日:1985/12/24
分野:, (工,陶)

 現代陶芸の第一人者で数々の話題を残した加藤唐九郎は、12月24日午前10時5分、心筋梗塞のため名古屋市の自宅で死去した。享年87。10月末より心臓病のため名古屋大学医学部附属病院に入院、退院後自宅で静養していた。明治30(1897)年7月19日(戸籍では31年1月17日)愛知県東春日井郡の半農半陶の窯屋に生まれ、初名加納庄九郎。幼い頃よりロクロや土で遊び、44年中根塾に入門、中根聞天に私淑する。大正3年父の窯を譲り受け、製陶業を開始した。また20歳の時加藤きぬと結婚し、加藤唐九郎と名を改める。当時陶業界は第一次世界大戦後の好景気で大量生産時代に入ったため、経営に失敗、一時実業家や文学を志したこともあったが、一方で瀬戸や美濃地方の古窯を発掘調査。志野、織部、黄瀬戸などの桃山古陶に出会い、自らもその復元研究に努める。昭和4年瀬戸市祖母懐町に窯を築き本格的に志野、織部に挑戦。また同年瀬戸古窯調査保存会を設立し理事長に就任する一方、美濃古窯の窯下窯で「文祿二年銘」の黄瀬戸陶片を発見する。5年志野茶碗「氷柱」で注目され、6年第12回帝展に「魚文花瓶」が初入選。8年桃山期美濃陶芸に対する新見解の原点となった著書『黄瀬戸』(宝雲舎)の中で、いわゆる瀬戸焼が瀬戸より美濃で古く焼かれたことを主張、瀬戸市民の反発を買い“焚書騒動”に発展する。これを機に瀬戸を離れ、10年小幡翠松園に窯を移した。以後、安土桃山期の古窯発掘を通じて織部焼が真の日本焼であると考え、その復活に努力する。17年頃初の個展「志野・織部新作展」を開催し、18年には西加茂郡猿投村(現豊田市猿投町)に越戸窯(古志戸窯)を再興。戦後23年芸術陶磁器認定委員会、25年日本陶磁器協会を設立する。26年パリ・チェルヌスキ博物館で開催された日本陶芸展に「織部向付」6点を出品し、これを機縁にピカソと作品を交換、話題となった。27年織部の技法で第1回無形文化財記録保持者に選定される。31年文化芸術使節団一員としてアジア・ヨーロッパを歴訪、33年ソ連国立東洋博物館で日本工芸美術展を開催するなど、海外文化交流にも尽力した。しかし35年、鎌倉時代の古陶として重要文化財に指定されていた「瀬戸飴釉永仁銘瓶子」が偽作ではないかとの疑問が瀬戸の古陶器研究家などから出され、自作の模倣作であることを表明、重文指定が取り消された「永仁の壷」事件が起こる。これを機に日本陶磁協会、日本工芸会理事など一切の公職から離れ、以後制作に専念する。39年「一無斎加藤唐九郎個展」(九栄百貨店)、「東京オリンピック記念陶芸展」(伊勢丹)、59年「志野・黄瀬戸・織部-桃山と加茂唐九郎展」を開催し、40年毎日芸術賞を受賞。志野、織部のほか、黄瀬戸、高麗、唐津、伊賀、信楽と幅広いジャンルに精通し、豪放な作風で現代日本の代表的陶芸家として活躍した。一ム歳、陶玄、野陶などの号を用い、代表作に前記「志野茶碗・銘氷柱」(昭和5年)のほか、「鼠志野茶碗・銘鬼ケ島」(44年)「志野茶碗・銘紫匂」(54年)「黄瀬戸輪花鉢」(58年)など。また昭和5年以降建築と陶芸の融合を目指した陶壁を制作し、主なものに加山又造との共同制作になる富士宮市大石寺大宮殿陶壁、愛知県労働者研究センター陶壁「野竜共に吠く」、愛知県公館玄関「八ツ橋」などがある。陶磁研究者としても造詣が深く、16年『陶磁大辞典』(全6巻、宝雲舎)をはじめ、『やきもの随筆』、54年『紫匂ひ』(立原正秋と共著)、56年『私の履歴書』等の著書、36年『加藤唐九郎作品集』、52年『陶藝唐九郎』等の作品集、47年『原色陶器大辞典』編纂などがある。その作品は、54年に落成した翠松園陶芸記念館に多く所蔵される。

出 典:『日本美術年鑑』昭和61年版(262-263頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
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