山崎覚太郎

没年月日:1984/03/01
分野:, (工,漆工)

 文化功労者で元日展理事の漆芸家山崎覚太郎は、3月1日午後0時45分心不全のため東京都杉並区のロイヤル病院で死去した。享年84。明治32(1899)年6月29日富山市に生まれる。「北堂」の雅号をもつ。大正4(1915)年高岡工芸学校(現富山県立高岡工芸高等学校)漆工科★漆部に入学し、8年同校卒業と共に東京美術学校漆工科に入学する。在学中いずれも特待生となり、13年卒業。大正14年日本美術協会展に「衣裳盆」を出品し推奨、同年のパリ装飾美術博覧会で「柘榴の硯箱」が金賞を受賞する。また美術団体「无型」の結成に参加し、昭和2年美術工芸部門が加えられた第8回帝展に「化粧台」が初入選した。3年第9回帝展「衝立」、4年第10回帝展「蒔絵ストーブ前立」、6年第12回帝展「サイドボード」といずれも特選を受賞し、7年推薦、以後無鑑査となる。11年より翌年にかけて1年間、商工省、文部省の研究員として渡欧、帰国後『巴里漆芸家訪問録』を出版した。13年第2回新文展に「漆器奔放屏風」、14年第3回新文展に「(蒔絵屏風)猿」と現代的なデザインの作品を発表し、14年よりたびたび審査員もつとめる。この間大正14年東京美術学校助手、15年講師、昭和3年助教授、18年教授(21年依願退職)となった。戦後も日展に出品を続け、27年参事就任、28年第9回日展出品作「三曲衝立猿」により翌年日本芸術院賞を受賞し32年日本芸術院会員となる。一方、26年日本漆工協会初代理事長となり、36年には日展工芸部門の新傾向の作家を糾合して現代工芸美術家協会を結成し委員長に就任、翌年より日本現代工芸美術展を開催すると共に、40年同協会が社団法人となるに際し初代会長となる。また同協会は39年より48年まで北米、中南米、東南アジア、ヨーロッパなど各地で毎年海外展を開催し、日本工芸の海外への紹介につとめた。33年社団法人日展の発足と共に常務理事、44年理事長となるに及んで若返りをはかり日展の改革を敢行、49年会長、53年顧問となる。色漆の技法を開拓し漆芸に絵画的表現を導入、用の枠内にとどまっていた漆芸の近代化を進めて芸術表現の領域まで高めると共に、工芸界の現代派の総帥として大きな指導力を発揮した。代表作に上記作品のほか「群鹿」(昭和28年)、「(漆額面)疾風」(40年第8回日展)、「駛」(52年第9回改組日展)など、躍動する動物を描いた豪快な作風を得意とした。41年文化功労者、45年勲二等瑞宝章、52年勲二等旭日重光章受章。なお、詳しい年譜に関しては、「漆芸65年山崎覚太郎回顧展」(57年、銀座松屋)図録等を参照されたい。

出 典:『日本美術年鑑』昭和60年版(242-243頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
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