武者小路実篤

没年月日:1976/04/09
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 文学者で画家、日本芸術院会員、文化勲章受章者の武者小路実篤は、4月9日、東京・狛江の慈恵医大第三病院で脳卒中に尿毒症を併発し死去した。享年90。武者小路実篤は、明治18(1885)年5月12日、東京市麹町区(現・千代田区)に生まれ、明治39(1906)年7月学習院高等科を卒業し、9月東京帝国大学社会科に入学したが、翌40年中途退学し、志賀直哉、木下利玄、正親町公正らと「十四日会」をつくり文学創作を始める。明治43(1910)年4月、上記の同志のほか、有島武郎、里見弴、郡虎彦、柳宗悦児島喜久雄有島生馬ら学習院同窓生と雑誌『白樺』を創刊した。『白樺』は、文学雑誌であったと同時に美術雑誌でもあり、ベックリン、クリンガー、ロダンからゴッホ、クールベ、マネー、セザンヌ、ついでフラ・アンジェリコ、エル・グレコ、ゴヤなど西洋絵画、彫刻の図版、評伝や評論を掲載した。第1巻8号(明治43年11月)ではロダン特集号、第2巻3号(明治44年3月)はルノアール特集、第2巻4号はマネー特集号等々と西洋美術の紹介につとめ、また一方、明治43年7月の南薫造有島生馬滞欧記念絵画展を初めとして展覧会を開催、特に明治45(1912)年2月の白樺社主催第4回展では、ロダンから贈られたロダンの彫刻3点が出陳された。こうした白樺社の運動の中心人物として活躍し、その間、文学作品発表のほか、木下杢太郎と論争を交わしたり、後期印象派についての評論を発表したりもしている。画家たちとの交友のなかでは、特に岸田劉生との関係が濃密で相互に影響をもった。大正7年、宮崎県に「新しき村」を建設し、大正15年まで同地に住んだ。大正12年ころから絵画を描きはじめ、昭和2年新宿紀伊国屋で第1回「新しき村」展を開催している。昭和4年(1929)には第4回国画会展に「千家元麿氏肖像」他2点を出品、同6年12月には室内社で油絵の個展を開催、同10年第10回国画会展に「女の肖像」他4点を出品して国画会会友となった。昭和11年4月から12月ヨーロッパに旅行し各地の美術館を訪れ、「レンブラント其他」「名画の感激」など、さらに帰国した翌年には「巴里絵画雑誌」「マチス、ルオー、ドラン、ピカソ訪問記」などを発表した。その後のものでは、『画集と画論』(昭和17年)、『岸田劉生』『レンブラント』(昭和23年)などがある。個展は、昭和30年3月「10年間の作を集めた個展」(壺中居)、9月銀座サエグサで個展、31年1月「日本画個展」(新宿伊勢丹)、36年3月喜寿記念展(日本橋三越)、38年4月油絵個展(三越)、39年5月個展(壺中居)、41年2月「我が愛する書画展」(三越)、47年6月米寿記念展「福寿開」(吉井画廊)、50年個展(上野松坂屋)をそれぞれ開催した。

出 典:『日本美術年鑑』昭和52年版(276頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2016年11月29日 (更新履歴)
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