石田茂作

没年月日:1977/08/10
分野:, (学)

 元奈良国立博物館長、文化功労者、文学博士石田茂作は、8月10日、肺炎のため東京都千代田区神田淡路町の同和病院で死去。享年82歳。明治27年11月10日、愛知県碧海郡に生まれ、愛知県立岡崎中学校を経て、大正7年東京高等師範学校国語漢文科、同12年同校専攻科卒業。卒業後、仏教教理を島地大等、歴史学を三宅末吉、考古学を高橋健自、美術史を中川忠順、建築史を関野貞、宗教学を姉崎正治に学んだ。同14年1月東京帝室博物館鑑査官補、同15年秋、同館歴史課長高橋健自と朝鮮、満州に旅行し翌年2月帰国、昭和10年12月東京帝室博物館鑑査官となり、同12・13・14年に各1ヶ月満州に旅行、同16年7月、東京帝国大学より文学博士の学位を授けられた。同22年5月国立博物館陳列課長、同26年2月東京国立博物館学芸部長に就任、同32年3月より同40年3月まで奈良国立博物館長、ついで文化財保護委員会委員、同42年勲二等瑞宝章授章、同43年6月より同49年6月まで文化財保護審議会委員、同45年11月より東京国立博物館評議員、昭和49年11月文化功労者に選ばれた。そのほか中日文化賞、奈良県文化賞、朝日文化賞を受賞し、岡崎市名誉市民になる。また大正13年4月より立正大学において日本仏教文化史を講じてより、東京文理科大学、竜谷大学、同志社大学、九州大学等へ出講した。雅号は瓦礫洞人。
 仏教考古学の先駆者であり、その体系樹立に寄与した。その研究範囲は、古瓦と寺院址、塔婆、経塚、仏教法具、写経、正倉院宝物等、多岐に亙る。昭和5年刊行の『古瓦図鑑』は、明治以来の研究の総決算であり、また氏の古瓦研究の出発点であった。その後生涯を通じて収集した古瓦拓本資料は2万点を越える。寺院址発掘調査は、まず昭和10・11年の朝鮮扶余軍守里廃寺、同13年の扶余東南里廃寺・佳塔里廃寺があり、ついで同14年の若草伽藍址の発掘は、明治以来久しきにわたる法隆寺再建非再建論争に決着をつけた画期的業績であり、飛鳥時代古瓦の編年にも修正を加えることになった。戦後の寺院址発掘調査としては、丹波周辺山廃寺(22年)、静岡県庁片山廃寺=駿河国分寺(24・31年)、下総長熊廃寺(26年)、武蔵国分寺(30年)、出雲国分寺(31年)、法輪寺講堂址(33年)、法隆寺聖徳会館建設に伴う事前調査(34年)、法起寺(35年)、中宮寺址(38年)、愛知県北野廃寺(39年)、徳島県立光寺址(43年)等を挙げることができる。これらの現状調査の成果が、『飛鳥時代寺院址の研究』(昭和11年)、『総説飛鳥寺院址の研究』(19年)、『伽藍論攷』(23年)、『東大寺と国分寺』(34年)である。塔婆を総合的に概説したものには、「塔」(『日本考古図録大成10、昭和6年)があり、研究の集大成は『日本仏塔の研究』(44年)に見ることができる。
 経塚全般についての業績には、大正15年より昭和2年にかけて刊行された『考古学講座』に執筆したものがあり、「経塚」(4年)、「経塚(続編)」につづく。個々の経塚については、『那智発掘仏教遺物の研究』(帝室博物館学報5、昭和2年)、『金峯山経塚遺物の研究』(同8・12年)があり、戦後の調査には、昭和33年の岡山県安養寺瓦経塚、同37・38年度に行われた三重県朝熊山経塚群があり、その概要は『伊勢朝熊小経塚遺跡と石塔婆』として金剛証寺より刊行された。『新版仏教考古学講座』第6巻の「経典・経塚」が経塚に関する最終稿である。仏教法具については、早く『仏教考古学講座』13巻に「密教法具概説」(昭和12年)があり、『密教法具』(40年)に集大成された。写経に関する調査は極めて広範囲に至り、まとまった研究成果としては『写経より見たる奈良朝仏教の研究』(昭和5年)の大著がある。正倉院宝物調査は昭和2年に始まり同26年に終ったが、その成果が『正倉院御物図録』18冊(昭和3~30年)である。その他の著作に『天平地宝』(昭和12年)、『中尊寺大鏡』(3冊、16年)、『校倉の研究』(26年)、『仏教美術の基本』(42年)がある。
参考:考古学新誌62巻2号、月刊考古学ジャーナル昭和52年12月号

出 典:『日本美術年鑑』昭和53年版(269-270頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
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