硲伊之助

没年月日:1977/08/16
分野:, , , (洋,工芸)

 洋画家で陶芸家・日本美術会会員の硲伊之助は、8月11日午後10時42分、心臓性ゼンソクのため、石川県加賀市の自宅で死去した。享年81。硲伊之助は、明治28年(1895)東京に生まれ、慶応義塾普通部を中退して、大下藤次郎の日本水彩画研究所に学び、大正元年(1912)のヒュウザン会に参加、会員中最年少者であった。その後、二科会に出品、第1回展で二科賞を受賞。大正10~昭和4年(1921-29)フランス滞在、帰国後は春陽会、ついで二科会に出品、昭和8~10年(1933-35)再渡欧し、マティスに師事した。帰国後は、一水会の創立に参加し、戦後は美術界の民主化を唱えて日本美術会委員長に就任、また、昭和24~25年東京芸術大学助教授をつとめた。昭和28・30年と日展審査員となったが、翌32年には審査方針を批判して日展を脱退した。明るい色彩と知的な構図の近代的な作風で知られたが、昭和26年(1951)ころから陶芸に関心をいだき、三彩亭と号して陶器制作にあたり、とくに晩年は加賀市吸坂に九谷焼の制作に打ちこんでいた。
略年譜
明治28年(1895) 11月14日、東京市本所区に、硲文六、八重の三男として生まれる。両親は和歌山県出身、父は日本橋木村漆器店に勤務。
明治42年 慶応義塾普通部入学。
明治44年 慶応義塾普通部を中退する。この年、大下藤次郎の日本水彩画研究所に入所、夜間は暁星学園でフランス語を学ぶ。
大正1年 10月、第1回ヒュウザン会展に「雨」(水彩)、「夕暮」「顔」「鈍き太陽」を出品。
大正2年 3月、第2回フュウザン会展に「風景」(1~8)、「静物」、「デッサン」2点を出品。
大正3年 10月、第1回二科展に「女の習作」を出品、二科賞を受賞。
大正4年 第2回二科展「崖」「風景」。
大正5年 第3回二科展「水浴」「風景」「男の顔」
大正7年 第5回二科展「晴れた日(水彩)」「枯木と家」「冬の竹籔(水彩)」「鵠沼の白い橋」「池袋附近にて」「田舎」「曇り日」「エビス附近」「黄金水仙」「我孫子附近」「男の顔」「冬の田」「春」「湿れる土」「中川堤防附近」「寄りかかれる男の習作」「鵠沼風景」「畔道」「立てる男の前向」「黒い土の畑」「女の背」「竹籔」「林君の横顔(鉛筆)」「男の横顔(コンテ)」「沼に寄れる一本の樹」「冬」の26点を出品、再度二科賞をうける。
大正8年 9月、第6回二科展「池袋附近(秋)」「沼の岸」「山路」「目黒にて」、二科会会友に推挙される。
大正9年 9月、第7回二科展「大森近く」」「田と畑」「生麦」「肖像」「原釜にて」。
大正10年 6月、父文七死去。7月、クライスト丸にて渡欧、坂本繁次郎、小出楢重、林倭衛らと同船。9月、第8回二科展「立って居る男」。パリにてアカデミー・グラン・ド・ショミエールに通う。
大正12年 5月、春陽会客員となる。在仏。
大正13年 ブザンソンに6カ月滞在、「村の入口(ブザンソン風景)」らを制作。
大正15年 春陽会会員となる。
昭和2年 4月、第5回春陽会展「ローマ時代の橋」「萎れた薔薇」「村の入口」「キャニュの秋」「マルティギュの煙突と塔」「玉葱の花」「新聞を読む女」出品。
昭和3年 1月、第8回創作版画協会展に出品、4月、第6回春陽会展に、「朝着」「小みち」「松と海」「田舎娘」「マルセイユ近郊」「室内」「丘の家」「夜の祭」「巴里の一隅」などを出品。5月、フランス人ロゾラン・アデリア・エルビラと結婚。
昭和4年 4月、第7回春陽会展「アデリア」「フラヴィアン橋(2)」「菲沃斯」「赤い着物」「フラヴィアン橋(1)」「南仏の台所」「青縞の前懸」「黒鴨」「サロン町の時計台」「カタラン水泳場」。この年帰国、東京・本郷区駒込浅嘉町49番地に画室を新築する。
昭和5年 4月、第8回春陽会展に滞欧作品を特別陳列、「南佛の農家(1)」「ニース別荘町」「松」「初夏」「アルルの女」「豌豆を剥く」「水車小屋」「南仏の星」「肉屋」「南仏の農家(2)」「少女」「サント・ヴィクトワル山」「曇り日」「露台」「篠懸の蔭」「羅馬時代の橋」「マントンの回教寺(版画)」など。11月、雑誌『セレクト』に「東洋の伝統」を執筆。
昭和6年 4月、第9回春陽会展「ヴァンサンヌ公園」「金鳳花」「支那壺の花」「田舎娘」。春陽会委員となり財務を担当する。8月、伊伏鱒二著『仕事部屋』(春陽堂)を装幀。9月第1回日本版画協会展に会員として出品。
昭和7年 4月、第10回春陽会展「アヴィニヨン街道」「横たわる少女」。
7月、南紀芸術社刊雑誌『南紀芸術』6号の表紙を描く。10月、『コロ画集』(アトリエ社)の解説執筆。
昭和8年 春陽会を退会し、8月二科会会員に推挙される。9月、第20回二科展に「金魚」出品。再渡仏し、パリにおける<日本版画展>開催に尽力し「かえる」を出品。マティスと接触し、師事する。
昭和9年 9月、第12回二科展「花つくりの家」。
昭和10年 春、帰国する。9月、第22回二科展に滞欧作を特別陳列、「室より」「港」「海水浴場」「望遠鏡」「尼寺」「荷物船」「鐘樓」「漁船」「ニース海岸通り」「夕暮れ」「伊太利の労働者(石版)」「提防(石版)」「大きなパルミエ(石版)」「尼寺(石版)」「台所(石版)」「ニース海岸通り(石版)」「南佛の村(石版)」
昭和11年 5月、木下孝則木下義謙、浜地青松、川口軌外、園部香邦、硲伊之助の6名による<伏虎美術協会展>を和歌山市と新宮市で開催。8月、ベルリン・オリンピック芸術部門部員となる。石版画「船を漕く若者」ヒットラーの買上げとなる。9月、第23回二科展「芍菜」「夏の午後」「薄日さす地中海」「南仏の秋」。10月、二科会を退会し、12月、一水会創立に参加。
昭和12年 11月、第1回一水会展「砂丘」「少憩」「鵠沼の想い出」
昭和13年 11月、第2回一水会展「清宴舫(昆明湖)」「モデルと壺」「あぢさゐ」。『マチス』(アトリエ社)を出版。
昭和14年 11月、第3回一水会展「閨秀画家」「鱒釣り」「磯崎」「なの花」「カーネーション」。この年、日本版画協会を退会。
昭和15年 10月、2600年奉祝展「I令嬢」。同月、陸軍省嘱託として中支方面に従軍、「臨安攻略」を制作。11月、第4回一水会展「黒い帽子」「ガーベラ」。
昭和16年 4月、文化学院美術部長となる。7月『ギュスタヴ・クールベ』(アトリエ社)刊。9月、第5回一水会展「燈火」。
昭和17年 9月、第6回一水会展「六月の庭」。10月第5回文展に審査員として「黒服のI令嬢」。この年銀座資生堂において個展。三彩亭の号を用いはじめる。
昭和18年 9月、第7回一水会展「ひまわり」。10月、第6回文展「菜園の隅」。この頃、「PIED DE VEAU」「藤」を制作。
昭和19年 6月、東京美術学校油画科講師、8月、助教授となる。12月『硲伊之助近作画集』(十一組出版部)刊。
昭和20年 東京大空襲により本郷のアトリエ焼失
昭和21年 第1回日展「黄八丈のI令嬢」。9月、第8回一水会展「A LA CAMPAGNE」。10月、第2回日展「P氏とI令嬢」
昭和22年 6月、第1回美術団体連合展「Monsieur BONATI」。12月、日本美術会委員長に就任。
昭和23年 5月、第2回美術団体連合展「ビアチェンティニ氏」。9月、第10回一水会展「水仙」。第2回日本アンデパンデン展「午後のひととき」。
昭和24年 5月、第3回美術団体連合展「アンゴラのセーター」。6月、新制東京芸術大学助教授と認定される。9月、第11回一水会展「O女史之像」
昭和25年 7月、東京芸術大学助教授を辞任して渡仏、11月「マチス会見記」(芸術新潮)を発表、マティス展、ピカソ展、ブラック展など開催のため折衝にあたる。
昭和26年 帰国、千代田区麹町1番地に移転。5月、第5回美術団体連合展「芝居がえり(春信模写)」。
昭和27年 2月、第5回アンデパンダン展「九谷染付上絵羅馬サンタンジェロ城」。9月、第14回一水会展「パウロ君」。同月、『パリの窓』(読売新聞社)刊。
昭和28年 10月、第9回日展「湖来」(木版)、文部省買上げとなる。
昭和29年 9月、第16回一水会展「釉裏紅瑠璃桃絵皿」「呉須飴釉黍之絵皿」「九谷上絵五位鷺皿」「呉須飴釉白菊皿」「呉須色絵秋景色皿」「九谷上絵雛罌粟皿」「呉須あやめ皿」「九谷上絵双鶴松竹梅皿」「九谷上雛粟皿(黒つぶし)」「九谷上絵鳥之角鉢」「釉裏紅瑠璃絵付飴釉花見皿」「九谷上絵猿猴角鉢」。10月、国慶節出席のため中国訪問。この年三鷹にアトリエを設ける。
昭和30年 9月、第17回一水会展「田の草取り」「菜の花」「草花」「箒を持つ女」(以上、陶器)。10月、第11回日展「あやめ」(木版)。『ゴッホの手紙・上』(岩波書店)刊。
昭和31年 9月、第18回一水会展「染付中皿みのりの秋」「九谷上絵狗透彫菓子皿」「九谷上絵梅花香炉」「九谷上絵木蓮とふくろ図大皿」「染付飴釉木蓮図九角皿」
昭和32年 9月、第19回一水会展「飛青磁角形水滴」「九谷上絵麻の菊」「吸坂手熊」「九谷上絵桜草」「九谷上絵大皿夜」「九谷上絵とくさ」「トルコ青の女」。10月、日展を脱退。
昭和33年 9月、第20回一水会展「九谷上絵野草小皿五客」「九谷上絵月見草九角平鉢」「九谷上絵紅梅中皿五客」「青磁熊絵線彫中皿」「九谷染付月見草大皿」、委員回顧室に「燈火」「栗」。この年、港区麻布に移転。
昭和34年 9月、第21回一水会展「山吹(九谷染付皿)」。この年、木下義謙、酒井田柿右衛門、今泉今右衛門らと一水会陶芸部を創設。世田谷区岡本町へ移転。
昭和35年 9月、第22回一水会展「九谷染付中皿くちなし」「九谷染付皿の桂」「九谷染付中皿南方の島」。この年、「頬杖をつく公子」「箱根」(以上、素描)、「菊」、「レモンとガーベラ」、「黄色のオーバー」「山つつじ」(以上、油絵)などを制作。
昭和36年 3月、渋谷東横百貨店にて<小林徳三郎展>を開催。5月、岡山天満屋において<硲伊之助・大倉昌造・海部公子3人展>開催し「緑のマフラー」「スヰトピー(青の背景)」「スヰトピー」「早春の丘」「河口湖夕照」「馬酔木」「渓流(その1)」「渓流(その2)」。9月、第23回一水会展「九谷染付木蓮大皿」。『ゴッホの手紙・中』(岩波書店)刊。
昭和37年 9月、第24回一水会展「けしの矢車草」「つばめの魚」「茄子」「菊」「新聞」(以上、陶器)。
昭和38年 7月、中国へ旅行。9月、第25回一水会展「九谷上絵牡丹大皿」「九谷本窯月見草大皿」「吸坂手五位鷺皿」「頬杖する公子」(以上、陶器)。
昭和39年 9月、第26回一水会展「麦秋」。11月、ヨーロッパ各地を旅行。
昭和40年 4月、アルバニアに3カ月滞在、7月帰国。9月、日動画廊で<アルバニア展-硲伊之助・海部公子>を開催、「メッシ橋」「アルバニアの老人」「ポリクセニ嬢とムカイ氏の会話」「サランダの港」「ジロカステロの古い家」「糸を紡む女」「ドゥルスの眺め」「煙草畑の耕作者たち」「アルバニアの花嫁」「ドゥルスの農家」を出品。第27回一水会展「九谷上絵茄子皿」「九谷染付椿中皿」「九谷染付五位鷺角皿五客」
昭和41年 9月、第28回一水会展「九谷上絵大皿農家之内部」「九谷染付大皿渓流之詩人」「九谷上絵大皿麦畑之道」
昭和42年 9月、第29回一水会展「吸坂窯大皿砂丘の公子」「九谷染付上絵入大皿アルバニアの老夫人」「吸坂窯台鉢漢代石馬」「吸坂窯台鉢石牛」「吸坂窯瓢形小皿赤いブラウスの公子五客」「吸坂窯瓢形小皿もろこしとえんどう五客」「吸坂窯瓢形小皿夫婦鶴五客」「吸坂窯小判形小皿眠れるチビ公五客」「九谷上絵吸坂釉額皿閨秀画家」「九谷染付絵入額皿備前主窯趾」。11月心臓喘息の発作で入院。
昭和43年 9月、第30回一水会展「吸坂窯瓢形空豆之小皿五客」「九谷呉須上絵大皿アルバニアの案山子」「九谷上絵大皿天の橋立之老松」「九谷上絵夜の椿中皿五客」「九谷上絵大皿奇妙な枝ぶりの松」「吸坂窯瓢形白菊之小皿五客」「吸坂窯小判型くちなし皿小客」。
昭和44年 9月、第31回一水会展「吸坂焼九谷絵附懐石用銚子」「吸坂焼朝顔手鉢」「九谷上絵大皿長崎港の渡船場」「九谷黒釉花瓶」「九谷上絵紺青夜の月見草大皿」。『浮世絵-春信と歌麿』(日本経済新聞社)刊。
昭和45年 9月、第32回一水会展「九谷上絵陶板ドウルスの農家」「九谷染付柿紅葉大皿」。『ゴッホの手紙・下』(岩波書店)刊。
昭和46年 9月、第33回一水会展「九谷染付上絵富士と麦畑之陶板」「吸坂象嵌あやめ大鉢」「九谷上絵天橋立老大皿」「九谷瑠璃釉山吹大皿」。『九谷焼』(集英社)刊。
昭和47年 10月、第34回一水会展「呉須上絵大皿松の幹(与謝の海を見て)」「吸坂手大皿新緑のなかのひと」「呉須上絵大皿逆光の老松」。この年、外務省主催ヨーロッパ巡回<日本色絵磁器展>出品。
昭和48年 10月、第35回一水会展「九谷上絵呉須男鹿半島ほにょ大皿」「九谷上絵奥入瀬の紅葉大皿」「九谷上絵小皿新聞五客」「吸坂手九谷上絵小菊皿」。この年、中日文化賞を受賞。
昭和49年 3月、高岡市立美術館において<硲三彩亭色絵陶磁器展-ヨーロッパ巡回展より>開催され、陶磁器40点、油彩画19点、版画3点出品される。10月、和歌山県立近代美術館において<硲伊之助展>開催され、陶磁器42点、油彩画45点、水彩画2点、版画17点、素描1点、ほか資料類が展示される。11月、第36回一水会展「吸坂手朝顔八寸皿」。
昭和50年 10月、加賀市立図書館において<硲三彩亭美術展>開かれ、陶器29点、油彩画14点、版画3点が出品される。11月、第37回一水会展「九谷上絵鳥越村採石場大皿」「九谷上絵利根之水門角皿五客」「九谷上絵茄子之扇面皿」「九谷上絵朝之北潟扇面皿」「吸坂手栗扇面皿」「吸坂手葉紋瓢形皿五客」。
昭和51年 1月、和歌山県文化功労賞を受ける。東京を引きあげて加賀市在住となる。10月、第38回一水会展「九谷上絵月見早黒釉大皿」「九谷呉須上絵老松之大皿」。『硲伊之助画集』(三彩社)刊。
昭和52年 10月、第38回一水会展に遺作「室内」(1928)「Monsieur BONATI」(1947)「黄八丈のI令嬢」(1946)が展観される。

出 典:『日本美術年鑑』昭和53年版(271-274頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
『日本美術年鑑』に収録されている以下の記事にも「硲伊之助」が含まれます。
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