小堀進

没年月日:1975/03/16
分野:, (洋)

水彩画家、日本芸術院会員の小堀進は、3月16日午後零時2分、ガン性胸膜炎のため東京都北区の大蔵省印刷局東京病院で死去した。享年71歳。明治37年1月22日茨城県に生れた。大正11年3月千葉県立佐原中学校を卒業。翌年上京して葵橋洋画研究所に入り晩年の黒田清輝に洋画の基礎を学んだ。中学時代から土地柄の水郷風景などを水彩で描いていたが、昭和7年の第9回白日会展「うすれ日」、第19回日本水彩画会展「画室の一隅」「盛夏の海」などの公募団体展への初入選は共に水彩画で始まっている。以後、終始一貫して水彩画家として大成したことは周知の通りである。昭和9年1月の第11回白日会展では受賞して会友に推せんされ、同年2月の第21回日本水彩展ではキング賞を受けて会員に推挙された。同じく昭和11年第13回白日会展では新会員となった。一方同時期には二科展にも作品を発表し、昭和8年第20回展に「高原」が初入選以来昭和14年第26回展「遊覧船」まで毎年出品した。その間の出品作の画題は、「蒼原」(21回展)、「斜陽」(22回展)、「山麓」(23回展)、「海」(24回展)、「陶業の町」(25回展)である。
 昭和15年5月には、洋画界の中に占める水彩画の位置の極めて不安なこと、しかも日本水彩画会のような保守的な行き方に慊らず、故に水彩画の向上発展を期して、荒谷直之介、春日部たすくら同志8名とともに水彩連盟を結成、同年12月、第1回展を東京・銀座三越で開催した。以後第5回展まで東京・大阪の三越で開催。戦後22年2月の第6回展からは一般公募展となし東京者美術館で開催、現在に及んでいるが、彼はその水彩画新開拓運動に挺身してきた中軸的存在であった。戦中の第5回文展(昭和17年)に「初秋水郷」、第6回文展に「水が咲く」が入選した。同19年より郷里へ疎開したが、同22年に再上京、第3回日展に「驟雨」が入選した。日本芸術院・日展運営会の共同主催となった昭和24年第5回日展に無鑑査で「湖畔」を出品、以来死去前年(同49年)の改組第6回日展「晨」にいたるまで1回も休むことなく連続出品、精力的な発表を重ねた。その間、第7回展(26年)・第11回展(30年)・第2回新日展(34年)・第5回展(37年)・第8回展(40年)・第11回展(43年)に審査員を歴任した。同32年には、日展が社団法人と改組されその評議員となり、更に同44年再改組日展理事に就任した。この改組日展第1回展の出品作品「初秋」によって、昭和44年度(第26回)の日本芸術院賞を受賞した。その授賞理由として、「氏は、その表現技法の洗練とともに、内面描写の領域にまで深厚な観照を加え、昭和水彩の一典型ともいうべき新技法の画風を確立して、広く後進に影響を与えてきた。この作品は、その集大成ともいえる独得の賦彩処理と水郷風景の把握にその充実した力量を示した優作であると認める」と発表されたが、殊に戦後の四半世紀をこの画家が、すぐれた現代感覚と創意・工夫を重ねて樹立した独自な作風の特色を正に語り得て妙というべきであろう。昭和49年11月、水彩画家として初めて日本芸術院会員に選ばれたが、その後数ヶ月を経ずして病魔に倒れたことは誠に惜しまれる。他に、同36年に結成された日展水彩作家協会の顧問や、同45年来名古屋芸術大学教授をつとめていた。

出 典:『日本美術年鑑』昭和51年版(293-294頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「小堀進」『日本美術年鑑』昭和51年版(293-294頁)
例)「小堀進 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9721.html(閲覧日 2024-04-20)

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