伊藤弥太

没年月日:1975/05/31
分野:, (洋)

国画会会員の洋画家、伊藤弥太は、5月31日午前0時5分、秋田県大館市で死去した。享年83歳。伊藤弥太は、明治25年(1892)4月6日秋田県大館市に生まれ、秋田県立大館中学校を卒業後、明治44年(1911)に上京した。明治45年ころ友人らと美術雑誌『美の廃墟』を発行、6号までつづいたが、その後、岸田劉生に師事し、大正3年二科第1回展に入選、大正4年(1915)、現代の美術社主催第1回美術展(草土社第1回展にあたる)に「自画像」「風景1」「風景2」を出品した。劉生筆鉛筆デッサン「若き男の頭」(“Head of ayoung man, Riusei Kishida, 16th Feburuary 1915” の記入がある)のあることが知らされている。このころ、家財道具一切を盗難にあい、それが原因となって岸田劉生とのあいだに誤解が生じ、絵画を放棄して静岡県三島市に隠棲した。昭和2年(1927)若山牧水らにうながされて再出発を決意し、上京、国分寺村に住み、同年の第8回帝展に「秋景」入選、翌3年9回帝展「山村風景」入選、同4年には千葉県に転居、さらに同5年には秋田市に転じ、同年11回帝展に「フォートイユによりて」を入選となった。昭和6年郷里の大館市に転じ、翌7年第2回独立美術展に「少女と金魚鉢」「室内裸婦(意匠風なる)」「窓に椅る人」入選、以後、3回展「紫姿」、4回展「肖像」「裸婦」、5回展「婦人像」、6回展「ピアノ」を出品入選となった。昭和14年(1939)からは国画会展に出品し、昭和33年32回展のとき会友、同39年に会員に推挙された。昭和44年(1969)秋田県文化功労賞をうけた。また、昭和24,25年ころから水墨画を描きはじめ、昭和46年には『伊藤弥太郎水墨画集』が出版されている。
国展出品作品年譜
昭和14年(1939)13回展「窓辺婦人」、14回展「楽人(夕映の部屋にて)」、15回展「裸婦花模様」、16回展「秋庭」、17回展「山」、18回展「駿河の春」、19回展「鶏」、昭和21年20回展「雪の森吉山を望む」「農夫」、21回展「炉辺」、24回展「梟」「村のNさん」、25回展「壜と枯向日葵」、26回展「梟と女」、27回展「画家と梟」、28回展「作品A、C」、29回展「絵画」、30回展「作品」、31回展「作品」、32回展「昆虫」「魔鳥」、33回展「作品1、2」、34回展「作品」「わが幼き日」、35回展「舞楽」、36回展「伝説の岩」「白い座」、37回展「考える木立ち」「石」、38回展「絵画」、明治40年39回展「ある天体」「作品」、40回展「男鹿夕瀬崎」、41回展「口野漁港」、42回展「北国の街」、43回展「松と岩」、44回展「長津呂港」、45回展「北国の街その2」。

出 典:『日本美術年鑑』昭和51年版(301頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「伊藤弥太」『日本美術年鑑』昭和51年版(301頁)
例)「伊藤弥太 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9717.html(閲覧日 2024-03-29)

外部サイトを探す
to page top