伊原宇三郎

没年月日:1976/01/05
分野:, (洋)

 日本美術家連盟名誉会員の洋画家伊原宇三郎は、1月5日午前9時5分、糖尿病、肺炎のため東京都狛江市の東京慈恵医大病院で死去した。享年81。伊原宇三郎は、明治27(1894)年10月26日、徳島市に生まれ、大正4年大阪府立今宮中学校を卒業、藤島武ニに師事して、大正10(1921)年3月東京美術学校西洋画科を卒業した。在学中の大正9年第2回帝展に「明装」が初入選、翌10年第3回帝展に「よろこびの曲」が入選した。大正14(1925)年の春に渡欧、フランスに4年半ほど滞在し、帰国後、昭和4(1929)年に第4回1930年協会展に出品、また第10回帝展に出品した「椅子によれる」、第11回展「二人」、第12回展「榻上ニ裸婦」が連続特選となった。昭和9年以降は帝展文展審査員を十数回にわたりつとめた。また昭和5年から7年まで帝国美術学校教授、昭和7年から19年まで、東京美術学校油画科の助教授として後進の指導にあたったが、一方、昭和13年には貴族院に依頼されて「憲法発布50年祝賀式典」の制作、また報道画家として昭和13年には北中国に従軍して「圧倒」、14年中部中国、15年から16年には南中国から東南アジヤの各地に従軍し「サイゴンに於ける艦上の停戦協定」、17年にはマライ、ジャワ、ビルマに従軍し、「マンダレー入城とビルマ人の協力」を制作、18年には香港で「酒井・キングの会見」、同年ビルマの「バーモ長官像」を制作した。戦後は、昭和23年から3年間多摩造形芸術専門学校教授をつとめ、翌24年日本美術家連盟の設立に尽力し、設立後は代表理事、委員長などをつとめ、日本著作権協議会委員としても美術家の権利擁護のために、また昭和26年には国立近代美術館設置準備委員としても活躍した。その後も日本ユネスコ国内委員会、28年には国際造型美術家連盟日本委員会委員長となり、29年ヴェニス・ビエンナーレ日本館建設につくし、ビエンナーレ日本代表として渡欧、約1年間ヨーロッパに滞在した。そのほか、ブリヂストン美術館運営委員、美術家会館建設委員などをもつとめた。昭和35年フランス政府よりオルドル・デザール・エ・レトル勲章をおくられている。戦後の作品には「由利子とミミ」(昭和27年)「丘」(昭和33年)などがある。

出 典:『日本美術年鑑』昭和52年版(268-269頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
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