野口弥太郎

没年月日:1976/03/23
分野:, (洋)

 洋画家、日本芸術院会員、独立美術協会会員野口弥太郎は、3月23日午前3時20分脳いっ血で入院中に肺炎を併発し東京千代田区の東京警察病院で死去した。享年76。明治32(1899)年10月1日当時の東京市本郷区に生まれ、大正9年関西学院中学部を卒業後翌10年川端画学校で油絵を学んだ。同11年二科展に「女」を初出品入選、その後も連続入選し頭角をあらわした。同15年1930年協会会員となり前田寛治に傾倒し、昭和4年渡仏、パリのグラン・ショミエールに学び、同6年サロン・ドートンヌに出品した「港のカフェー」は仏政府買上げとなった。同8年3月帰国、二科会会友を辞し、独立美術協会第2回展に滞欧作を出品、同会会員となり、以後林武高畠達四郎らとともに同会の主要な作家として活躍した。この間、同27年から45年まで日本大学芸術学部教授をつとめたほか、同35年5月から37年4月まで再渡欧し36年6月にはパリのマルセル・ベルネイム画廊で個展を開催、同37年国際形象展に同人として参加、同39年には「セビラの行列」(第31回独立展)および滞欧作品展(38年銀座松屋)の諸作に対して第5回毎日芸術賞を受賞、同47年国際形象展出品作「那智の滝」により芸術選奨文部大臣賞を受賞した。また同50年勲三等瑞宝章を受章するとともに同年11月日本芸術院会員に任命された。パリ留学で身につけた自在なフォーヴ的筆致を日本の風景に適合させ、完成度の高い日本的フォーヴィズムの作風を示した。
年譜
明治32年(1899) 10月1日東京市本郷区に、銀行家野口弥三の長男として生まれる。
明治39年 父の任地朝鮮仁川市の小学校に入学。その後東京市四谷第二小学校、錦華小学校などを経て、父の郷里長崎県諫早市の小野尋常小学校へ転校(明治44年7月~45年1月)、次いで神戸市の諏訪山小学校に転校。
大正3年 関西学院中学部入学。成績優秀で人気が高く、絵画に長じ学校の油絵グループ弦月会で活動す。上級生に大森啓助がいた。
大正6年 スポーツで身体をいため休学、その間さかんに油絵を試みる。
大正9年 関西学院中学部を卒業。父母よりドイツ製油絵具セットなどを与えられ、恵まれた環境のうちに画家となる決心を抱く。このころ澤野菊枝を知る。
大正10年 軽井沢に滞在して、画家たらんと強く決心す。この時の宿つる屋には芥川龍之介が同宿していた。のち東京原宿に居住、川端画塾に数週間通い油絵を学ぶ。この頃神田神保町の兜屋画堂で開かれた関根正二や村山槐多の展覧会を見て感心する。
大正11年 代々木にアトリエを新築す。近所の初台に児島善三郎が居て交遊した。9月第9回二科展に「女」を初出品入選す。
大正13年 9月第11回二科展に「少女と静物」「夏日夕景」「室内裸婦」の3点入選し注目さる。10月万鉄五郎が主宰する二科系新人グル-プ円鳥会第3回展に会員外として出品、万から個性的で近代的傾向の作品として高く評価さる。
大正14年 澤野菊枝と結婚し、東京府豊多摩郡に居住す。9月第12回二科展に「室内」を出品。10月第4回円鳥会展に「草上假睡」他4点を出品す。
大正15年 5月1930年協会第1回展が開かれたが、6月すすめられて古賀春江、林武らと共に会員となる。前田寛治を知り、その人と作品に深く感銘した。9月第13回二科展に「爪みがく女」「裸婦構図」「六月風景」「大山園風景」を出品。
昭和2年 6月1930年協会第2回展覧会に出品、以後出品を続けた。9月第14回二科
展に「室内裸婦」「坂の風景」を出品。
昭和3年 1930年協会洋画研究所(東京市外代々木山谷160 山谷小学校前)が設立され、里見勝蔵、前田寛治、林武らと数十名の研究生を指導、風景画を担当した。9月第15回二科展に「塔のある風景」「画室の静物」「S嬢肖像」を出品。
昭和4年 1月1930年協会第4回展に「男の肖像」「断崖」など7点出品す。大阪で渡欧記念の個展開催す。4月渡欧す。7月パリに到着、アレジアの塔やサクレ-ル寺院の見える部屋に落着く。グラン・ショミエ-ル画塾の自由な雰囲気を好み、自己の制作の方向をつかみ始めた。隣室に木下孝則がいた。ブルタ-ニュ地方に写生旅行す。9月第16回二科展に「水車」「奈良風景」「父母の肖像」を出品。
昭和5年 1月木下孝則と南仏旅行し、クロ・ド・カ-ニュに伊藤廉の訪問を受く。間もなくパリに帰る。この年から同7年までサロン・ド-トンヌ、アンデパンダン展に出品した。このころカンバスに代えて紙を使い、絵具は薄塗りで明るく冴えた色感と単純化された造形の近代的感覚を目指した。また一時期、すべての絵具に墨をまぜて色調をととのえ、瀟洒な効果をねらった。11月独立美術協会の創立に際し参加を求められたが態度を保留した。
昭和6年 2月リヨンに滞在し、夏ノルマンディに旅行す。この旅行に取材したサロン・ド-トンヌ出品の「ベルク-ル広場」「港のカフェ」は好評を博し、「港のカフェ」は政府買上となり、パリ市庁の美術館に納められた。その後イギリスに旅行す。9月二科会会友に推さる。
昭和7年 パリで海老原喜之助森田勝などと交遊する。富永惣一とロンドン、オランダ、ドイツに遊ぶ。板倉準三を加え、3人でイタリア、シシリ-およびギリシャを旅行す。また、スペインにも旅行し、グレコとヴエラスケスに感動す。サロン・ド-トンスに「巴里の眺」「門」など大作を出品。パリ、ヴィニヨン画廊での個展契約あり、大いに制作中、夏の終り頃左眼の故障を知り、治療す。個展制作を中止す。
昭和8年 3月第3回独立展開催中に帰国。二科会会友を辞し、独立美術協会会員となる。
昭和9年 3月第4回独立展に「カフェテラス」「門」「トレド風景」「青衣の女」「港のカフェ(下図)」「七月十四日祭(モンパルナス)」の滞欧作6点が特別陳列される。(独立美術15『野口弥太郎特集』以後毎回同展に出品を続ける。都新聞に挿絵を連載する。左眼の治療に専念する。
昭和10年 3月第5回独立展に「リヨンの橋」「巴里の眺」(ともに昭和6年作)「カーニュ風景」を出品。3月東京府美術館10周年記念現代総合美術展に「父母の肖像」(二科出品より自選)を出品。10月独立秋期展に「風」を出品する。
昭和11年 4月第6回独立展に「秋の風」「ギリシャ印象」を出品。6月個展を開催(20-24日、大阪・美術新論社画廊)。11月独立秋季展に「日光紅葉」を出品する。
昭和12年 3月第7回独立展に「夜のレストラン」「南方の庭」「I氏肖像」を出品。3月独立全会員小品展に「グレコの家」他を出品。4月明治、大正、昭和三聖代名作美術展に「港のキャッフェー(下絵)」を出品する。
昭和13年 3月第8回独立展に「スペインの子供達」「蕃人」「夜のレストラン」を出品。
昭和14年 3月第9回独立展に「東北の人々」を出品。10月独立秋季展に「静物」を出品する。
昭和15年 3月独立第10回記念展に「父の肖像」「港の朝」「札幌の屋根」「利尻富士」「青衣の女」を出品。5月個展を開催(18-21日、銀座資生堂、石原求龍堂、兜屋主催)、「南方の町」「巴里祭」など10余点を出品。10月紀元二千六百年奉祝美術展に委員として「アイヌの家族」を出品する。
昭和16年 3月第11回独立展に「婦人肖像」「山と家」「軍人肖像」を出品する。
昭和17年 3月第12回独立展に「上海」「Y氏肖像」「仏蘭西租界の眺」「婦人肖像」「黄浦江」を出品。上海に旅行し、7月上海風物個展(19-22日、銀座資生堂)を開催、「上海ガーデンブリッヂ」など25点を出品する。
昭和18年 3月第13回独立展に「北越漁村」「S氏肖像」「山村雪景」「街道雪景」「キリン山雪景」を出品。このころ満州に旅行す。
昭和19年 2月第14回独立展に「庄内の町」「働く人々」「海辺の神社」を出品。5月独立会員展に「海辺の喜び」を出品。11月個展を開催(20-26日、銀座美交社)。11月戦時特別文展に「田園小憩」を出品。12月川口軌外中川紀元児島善三郎らと6人展を開く(9-13日、銀座資生堂)。
昭和21年 3月第1回新興美術展に「リヨンの橋」「ベルクール広場」などを出品。4月内田巌福田豊四郎ら各派進歩的美術家らと日本美術会を創設し、委員となる。
昭和22年 4月第15回独立展に「漁村の家」「農家の女」を出品。5月第1回現代美術総合展に出品、以後出品を続ける。6月第1回美術団体連合展に「江の浦風景」「漁村」「農家の庭」などを出品、以後5回展(最終)まで毎回出品す。6月大河内信敏、川端実朝井閑右衛門らと洋画研究団体新樹会を結成、第1回展を日本橋三越で開催す。
昭和23年 3月個展開催(日動画廊)。10月第16回独立展に「函館港」「唐津港」「岩内風景」を出品。10月近作油絵個展を開催す。(丸善画廊)。
昭和24年 2月第1回アンデパンンダン展に「長崎の港」「若い女の肖像」などを出品、以後出品を続ける。5月水彩展開催(数寄屋画廊)。10月個展開催(丸善画廊)。
昭和25年 1月現代美術自選代表作15人展に出品。10月第18回独立展に「港の広場(釧路)」「上場と山(日鋼室蘭)」「アイヌ老夫婦」を出品。10月個展を開催す(資生堂)。
昭和27年 日本大学芸術学部教授となる。5月第1回日本国際美術展に「家と山」「黒ショールの女」などを出品す。以後毎回出品、7月熊谷守一伊藤彪らと友誼的研究団体の白鳥会を創立、10月第1回展を開催(日本橋白木屋)、「2人の肖像」「波止場」などを出品す。8月阪神風物展(大阪梅田画廊)を開催す。10月第20回独立展に「橋のある風景」「裸女」「海」を出品す。
昭和28年 第2回インド国際美術展に出品す。10月第21回独立展に「幼年像」「雲仙」を出品す。
昭和29年 5月第1回現代日本美術展に「オランダ坂にて」「国際大通り」など出品。滞欧中を除き毎回出品す。
昭和30年 日本橋高島屋で個展を開催、戦後10年の代表作(水彩を含め34点)を展観す。10月第23回独立展に「風景」「裸婦立像」を出品。
昭和31年 10月第24回独立展に「花のある静物」「黒と白の静物」を出品す。
昭和32年 10月第25回独立展に「アトサスプリ(硫黄山)」「オイナオシ浜」を出品す。
昭和33年 第2回国際具象派美術展に「教会のある風景」「硫黄山(黄)」を出品、以後出品を続ける。10月第26回独立展に「目鏡橋(諫早)」「港」を出品す。
昭和34年 10月第27回独立展に「諫早の目鏡橋」「日蓮上人像」を出品。11月神奈川県立近代美術館で鳥海青児との二人展開催さる。(美術手帖10月号「野口弥太郎」)。
昭和35年 5月再び渡欧。6月第30回ヴェ二ス・ビエンナーレを見てパリに赴く。
昭和36年 春スペインに旅行す。6月パリのマルセル・ベイネイム画廊で個展を開催、水彩を含め43点出品、レイモン・シャルメの推薦を受く。8月再びヴェニスに旅行。
昭和37年 4月帰国す。国際形象展組織され、同人として参加、「まひるのグラナダ」「カーニュの古城」を出品、以後毎回出品を続ける。
昭和38年 4月滞欧作品展および滞欧スケッチ展(銀座松屋)を開催。(画集『野口弥太郎滞欧作 1960-62』)。10月第31回独立展に「おまつり」を出品す。
昭和39年 1月第31回独立展出品の「セビラの行列(おまつり)」および滞欧作品展の諸作に対し、第5回毎日芸術賞が授与さる。3月野口弥太郎展(日本橋白木屋)が開催され、初期から第二次滞欧作まで56点が展示される。(三彩3月号「野口弥太郎特集」、美術グラフ5月号「野口弥太郎を語る」)。10月第32回独立展に「長崎の風」を出品す。
昭和42年 10月第35回独立展に「三人のアイヌ」を出品。
昭和44年 第一次渡欧以来の左眼が再び悪化し治療に専念す。
昭和45年 3月バリ島に写生旅行す。
昭和46年 4月「近代日本美術における1930年展」(東京国立近代美術館)に「夜のテラス」「ベルクール広場」「フレンチカンカン」が出品さる。10月第39回独立展に「シャトーと馬」を出品。
昭和47年 3月「那智の滝」で第23回芸術選奨文部大臣賞を受賞す。9月東京国立近代美術館開館20年記念「現代の眼―近代日本の美術から」展に「オランダ坂」「踏絵」「セビラの行列」が出品さる。10月第40回独立展に「那智の火祭」を出品す。
昭和50年 10月第43回独立展に「タンジ-ルにて」を出品。11月日本芸術院会員となる。
昭和51年 3月23日没
(この年譜は『野口弥太郎画集』(昭和54年5月刊行予定日動出版)所収年譜を参照した。)

出 典:『日本美術年鑑』昭和52年版(273-275頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
『日本美術年鑑』に収録されている以下の記事にも「野口弥太郎」が含まれます。
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