熊谷守一

没年月日:1977/08/01
分野:, (洋)

 画壇の最長老で、もと二科会、二紀会委員の洋画家、熊谷守一は、8月1日、午前4時35分、肺炎のため東京都豊島区の自宅で死去した。享年97。岐阜県の小村に生まれ、明治37年東京美術学校西洋画科を卒業、同期に青木繁、和田三造山下新太郎などがいたが、卒業後、政府の樺太調査隊に参加したり、その後は郷里の木曾山中で5年間にわたり樵夫の生活をおくるなど特異な経歴をもち、友人のすすめで上京、大正中期から昭和前期にかけては(1915~20)二科会に所属し、その間、画家の有島生馬、音楽家の信時潔、颯田琴次、山田耕作らと親交し、『陽の死んだ日』(1928)、『有島生馬像』(1935)などの作品を発表した。戦後は、二科会再建にはくわわらず、第二紀会の結成に参加したが、昭和26年(1951)には脱会し、以後、俗界から離れた自由な生活と制作を楽しみ、晩年は“画壇の仙人”などとも称されたが、昭和39年(1964)には、パリのタヴィト・エ・ガルニエ画廊で個展が開催された。作風も、初期の暗欝な色調から、フォーヴィスム的な表現をへて、晩年は、自然の形象を簡潔な形体に抽象化した素朴で格調ある独自の様式をつくりだした。昭和42年(1967)には文化勲章を辞退し、同47年(1972)には叙勲も拒否して話題となった。
略年譜
明治13年(1880) 4月2日岐阜県恵那郡に生まれる。父は岐阜市で生糸商を営み、同市の初代市長となった熊谷孫六郎。その第7子で、三男であった。
明治16年 生母と死別し、岐阜市で幼少年時代をおくる。
明治30年 岐阜中学校3年生のとき上京、正則中学校に転校、その後慶應義塾にも一学期間在学する。このころ画家になることを決意する。
明治31年 東京・本郷寿川町にあった共立美術学校に入り、日本画を研修する。
明治33年(1900) 4月、東京美術学校西洋画科選科に入学し、黒田清輝、長原孝太郎、藤島武二の指導をうける。同級生に、青木繁、児島虎次郎、山下新太郎和田三造、高木巌らがいた。
明治37年 7月、東京美術学校を卒業。卒業制作<自画像>。
明治38年 農商務省の岸本謙吉博士を首班とする樺太調査隊に参加し、この年の夏から2カ年にわたり漁場調査のため北海の島々をまわり、風景、地形、海産物などを記録し写生する(この時の作品は関東大震災のために消失)。
明治40年 樺太から帰り、日暮里、上野桜木町、駒込千駄木町の下宿を転々とする。
明治41年 10月、第2回文展に〈肖像〉を出品、入選。
明治42年 10月、第3回文展に〈ローソク〉を出品、褒状をうける。
明治43年 6月、第13回白馬会展に〈轢死〉を出品。実母の死去をきっかけに郷里へ帰り、その後5年間にわたり樵夫、鍛冶工などの生活をおくる。
大正4年(1915) 友人斎藤豊作らのすすめで上京、10月、第2回二科展に〈女〉を出品。
大正5年 10月、3回二科展に〈習作〉〈赤城の雪〉を出品、会員に推挙される。
大正6年 4回二科展〈風〉
大正7年 5回二科展〈某婦人像〉
大正8年 6回二科展〈裸体〉
大正9年 7回二科展〈人物〉
大正11年 9回二科展〈草人〉〈向日葵〉。この年、和歌山県日高郡南部町の素封家大江為次郎次女秀子と結婚する。
大正12年 7月、長男黄生まれる(その後、次男陽、長女萬、次女榧、三女茜が生まれている)。10回二科展〈夏〉。
大正14年 12回二科展〈婦人像〉(パステル)〈松〉。
大正15年 13回二科展〈人物〉〈ハルシャ菊に百合〉。
昭和2年(1927) 6月、明治大正名作展出品予定〈ローソク〉は所在不明、〈轢死〉は変色甚しいため出品不能、卒業制作〈自画像〉のみ出品。9月、14回二科展〈人物(一)〉〈人物(二)〉〈トウモロコシ〉
昭和3年 2月28日、次男陽死亡、〈陽の死んだ日〉を描く。9月、15回二科展〈陽の死んだ日〉〈裸〉〈向日葵〉。このころから二科会研究所で教える。
昭和4年 9月、16回二科展〈裸(一)〉〈裸(二)〉〈百合〉〈婦人像〉
昭和5年 3月、2回聖徳太子奉讃展〈冬〉。9月、17回二科展〈坐った裸〉〈横の裸〉
昭和6年 9月、18回二科展〈肖像(有島生馬像)〉〈女の顔〉
昭和7年 9月、19回二科展〈顔〉〈子供〉。この年、三女茜死亡。東京、豊島区千早町に自宅を新築し、晩年まで過すことになる。
昭和8年 20回二科展〈裸〉
昭和9年 21回二科展〈裸〉
昭和10年 22回二科展〈富士山〉〈雨〉
昭和11年 23回二科展〈最上川上流〉〈山形風景〉〈牡丹〉〈雨乞山〉〈長良川〉
昭和12年 24回二科展〈裸(一)〉〈裸(二)〉〈牡丹〉
昭和13年 25回二科展〈仔馬〉〈裸〉〈杉林〉〈顔〉。このころから、日本画を描き始め、4回奈良美術家連盟作品展に水墨画30点を出品。
昭和14年 26回二科展〈岩殿山〉〈麦畑〉〈桑畑〉
昭和15年 27回二科展〈湯檜會の朝〉〈ハルシャ菊〉、同時に熊谷守一生誕60年記念陳列とし油彩画41点が特別陳列される。
昭和16年 9月、28回二科展〈桃〉
昭和17年 8月、長谷川仁編『熊谷守一画集』刊行される。9月、29回二科展〈山躑躅〉〈渓流〉
昭和22年 9月、第二紀会の結成に参加し、1回展に<海><農家>出品
昭和23年 2回二紀展<佛前>
昭和24年 3二紀展<縁側>
昭和25年 4回二紀展<萬の像>
昭和26年 5月、16回清光会展<牡丹><猫>10月、5回二紀展記念室に<裸>、この年二紀会を脱退、後藤真太郎の主宰する清光会同人となる。
昭和27年 5月、1回日本国際美術展<野天風呂>、17回清光会展<椿><老鶏>
昭和28年 5月、2回日本国際美術展<山中湖畔平野村>、18回清光会展<砂丘><冬の海>
昭和29年 5月、1回日本現代美術展<土饅頭>、19回清光会展<牛><桃>。この年、後藤真太郎の死去により清光会は解散し以後、いっさいの団体展から離れる。
昭和31年 5月、2回日本現代美術展<ヤキバノカエリ>
昭和34年 5月、5回日本国際美術展<はだか立像>
昭和36年 熊谷守一画集刊行会『熊谷守一』刊行される。
昭和37年 1月、洋画商展<ねこ>、以後毎年、洋画商展に出品。4月、白木屋にて回顧展(日本経済新聞社主催)。10月、1回国際形象展<はつなり>。<斑猫>出品、以後毎年出品。11月、「大正期の洋画展」(神奈川県立近代美術館)<裸婦><女の顔>出品される。
昭和38年 1月、洋画商展<薔薇>。9月「近代日本美術における1914年展」(東京国立近代美術館)<赤城の雪>出品される。10月、2回国際形象展<少女>
昭和39年 1月、洋画商展<鶏頭>。9月、3回国際形象展<鬼百合>。パリ、ダヴィト・エ・ガルニエ画廊で個展が開催される。
昭和40年 4月、「近代における文人画とその影響展」(東京国立近代美術館)<蝦蟇
><蝶><寒山拾得>出品される。10月、国際形象展<夏水仙>
昭和41年 1月、洋画商展<ばら>。6月「近代洋画の150年展」(神奈川県立近代美術館)<ローソク>出品される。
昭和42年 1月、洋画商展<裸婦>。秋、文化勲章受章者に内定したが、「これ以上人が来るのは困る」といって辞退。
昭和43年 1月、洋画商展<赤城の雪>
昭和44年 1月、洋画商展<月>
昭和45年 1月、洋画商展<蛇目蝶>。10月、神奈川県立近代美術館において、熊谷守一展開催される。
昭和46年 2月、洋画商展<梨>。9月、国際形象展<昼顔>。11月、著書『へたも絵のうち』(日本経済新聞社)刊行される。
昭和47年 1月、西武渋谷店において、熊谷守一大回顧展(日本経済新聞社主催)2月、洋画商展<ざくろ>。9月、国際形象展<西日>。この年、文化庁より勲三等叙勲の内示があったが、辞退。
昭和48年 2月、洋画商展<朝日>。12月、『熊谷守一の書』(求竜堂)刊。
昭和49年 12月、『熊谷守一』(日本経済新聞社)刊。
昭和50年 3月、洋画商展<牡丹>。伊勢丹において「日本の心・熊谷守一九十五歳記念展(毎日新聞社主催)11月、洋画商展<のりうつぎ>。
昭和51年 2月、著書『蒼蠅』刊。11月、洋画商展<あげ羽蝶>
昭和52年 6月末、呼吸困難を訴える。8月1日午前4時35分死去。8月7日、青山葬儀所において葬儀告別式おこなわれる。
(本年譜は、ギャラリ・ムカイ「追悼 熊谷守一展」目録に収載の福井淳子編熊谷守一年譜を参考に作成したものである。)

出 典:『日本美術年鑑』昭和53年版(267-269頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
『日本美術年鑑』に収録されている以下の記事にも「熊谷守一」が含まれます。
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