鷲田新太

没年月日:1977/12/25
分野:, (洋)

 洋画家、光陽会元代表鷲田新太は、12月25日心筋こうそくのため東京都三鷹市武蔵境の日赤病院で死去した。享年77。明治33(1900)年9月19日、滋賀県野洲郡に生まれる。本名新一。大正8年兵庫県豊岡中学校を卒業し、同13年上京、川端洋画研究所で初めて木炭デッサンを学ぶ。昭和2年第5回春陽会展で「冬枯れ」が初入選、同4年東京美術学校師範科受験のため同舟社研究所に通ったが受験に失敗、同8年伊藤快彦の紹介で安井曾太郎に師事、この年新世紀美術協会展に出品、また第21回二科展に「冬日風景」が入選。同10年、美術雑誌『美之国』の編集員(筆名篠原巣一郎)となり編集に携わる。同11年川端龍子の知遇を受け、龍子主宰の「青龍社」の運営事務にあたった。同13年安井曾太郎門下生による「連袖会」第1回展に出品以後作品発表を断念した。戦後、同31年に光陽会に所属(翌年会員)、同年の第4回展から毎年出品を続けた。同43年第16回光陽会展に「河童不動」で文部大臣奨励賞、美術報知賞を受賞、また同年光陽会代表となった。同47年、71歳で初の個展を東京下村画廊、大阪フジヰ画廊で開催、独自のグワッシュによる「工場風景」や「俑人像」で注目された。翌年5月から約1年間パリに渡り制作に打込む。同50年「ピエロとその妻」等3点が東京国立近代美術館に所蔵され、翌51年東京フジヰ画廊で「サンハイトウ風景」「モンマルトルの坂道」「パリの裏通り」など60余点による「鷲田新太滞欧作品展」が開催された。

出 典:『日本美術年鑑』昭和53年版(287頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
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