神津港人

没年月日:1978/04/07
分野:, (洋)

洋画家神津港人は、4月7日老衰のため、杉並の自宅で死去した。享年88。本名港人。明治22年12月、21日長野県北佐久郡に生れた。同35年長野県野沢中学に入学し、休日に丸山晩霞に絵を学んだ。同40年東京美術学校西洋画科に入学し、黒田清輝、藤島武二和田英作の指導をうけ、45年に卒業した。大正4年第9回文展に「電車」が初入選し、以後「信濃路」(12回文)、「凩」(4回帝)等を官展に発表した。大正9年農商務省商業美術研究生となり、英国に留学し、ロイヤル・アカデミー・スクールに学び、翌年パリ、アカデミー・ジュリアンに学んだ。フランス、ドイツ、スイス、イタリーに写生旅行をして大正11年帰国品を発表した。昭和3年官展出品を辞め、友人齋藤素巖の創立した構造社に加盟して絵画部を創設、絵画部主任となり、「雁来紅」(第2回展)、「百合花」「裸体習作」「豊穣」(第3回展)などを発表した。昭和7年にはロスアンゼルス第10回オリンピック大会に日本最初の芸術競技役員として渡米した。昭和10年松田改組に際して、盟友と意見を異にしたことから構造社を脱退し、個展によって発表したが、同14年には緑巷会を創立主宰した。毎年公募展を開催したが、戦後は緑巷会を創芸協会と改称し、昭和32年にはこれを第一美術協会と合併して副委員長となった。第一美術協会名誉会員、日本山林美術協会名誉会員、信州美術会顧問。

出 典:『日本美術年鑑』昭和54年版(287頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「神津港人」『日本美術年鑑』昭和54年版(287頁)
例)「神津港人 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9669.html(閲覧日 2024-03-29)

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