東郷青児

没年月日:1978/04/25
分野:, (洋)

 日本芸術院会員、二科会会長の洋画家東郷青児は、4月25日午後2時8分、急性心不全のため旅行中入院先の熊本市熊本大附属病院で死去した。享年80であった。東郷青児は、本名を鉄春、明治30年(1897)に鹿児島市の旧島津藩士の家に生まれ、幼年時代に上京、青山学院中学部を卒業した。中学時代から絵画の勉強をはじめたが、中学4年ころか、竹久夢二展をみて感激し夢二宅にも出入りしたが、大正3年にベルリンから帰国した作曲家山田耕作を知り、翌年(大正4年)山田の東京フィルハーモー赤坂研究所の一隅を借用して制作、同年9月日比谷美術館で個展を開催「コントラバスを弾く」など前衛的な作品を発表した。山田は、ベルリン滞在時に『シュトルム』と接触があり、帰国のときドイツ表現派の版画などを持ち帰っていた。この個展のとき有島生馬の知遇をえ、以後、有島に師事することとなり、翌大正5年第3回二科展に「パラソルさせる女」が入選、直に二科賞をうけて画壇に登場した。以後、滞欧期をはさんで戦前、さらに戦後と終始二科会にあって活躍することになる。大正10年(1921)、第1次大戦後のフランスに留学して、タダイスムに接し、同年イタリアに未来派マリネッティを訪ね、翌11年にはリヨン美術学校に学び、その後再びパリに移って制作、昭和3年(1928)に帰国した。帰国後は二科会のなかで藤田嗣治らと親交、昭和13年には二科会内の前衛グループ九室会が結成され、藤田と共に顧問となった。東郷の華々しい活躍は戦後で、昭和20年敗戦直後に二科会再建に尽力し、美術団体のなかでもっとも早く再建に成功、以後、二科会の中心的画家となり、会長もつとめ、毎年、秋の美術シーズンの幕開けに二科展開会の祭典を演出して話題を集めた。作風は、初期の表現主義から未来派、キュービスム、さらにシュール・レアリスムの影響をうけた作風へとすすみ、戦後は甘美なロマンティンズムと幻想をただよわせた独特の女性像で知られた。昭和32年には日本芸術院賞をうけ、同35年日本芸術院会員となった。フランス、ブラジルなどとの美術による国際交流にも尽力し、昭和47年にはブラジル政府から、同51年にはフランス政府からそれぞれ勲章を授与された。昭和53年4月24日、熊本県立美術館での第62回二科展巡回展のために熊本に入り、翌日ホテルで倒れ呼吸困難に陥り、熊本大附属病院に収容され、午後2時8分死去した。 
明治30年 4月28日、父鉄造、母はるの長男として鹿児島市に生まれる。本名鉄春。
明治35年 5月、東京へ一家移住。
明治37年 東京牛込余丁町小学校に入学。同級に林武が居た。
大正3年 青山学院中学部を卒業。
大正4年 山田耕筰の東京フィルハーモニー赤坂研究所の一室をアトリエに提供され、「コントラバスを弾く」その他の制作に励む。9月23日より29日まで日比谷美術館で個展を開く。「我が邦最初のキュービストとして多少の注目を引けり。出品20点」と「中央美術」(第1巻第2号、同年11月号)に記載される。これを機会に有島生馬の知遇を得る。
大正5年 第3回二科展に「パラソルさせる女」を出品、初入選、二科賞を受賞。これにより有島生馬を師と仰ぐ。
大正6年 第4回二科展に「彼女のすべて」「狂ほしき自我の跳躍」「自画像」「静けき町の律動」を出品。
大正7年 第5回二科展に「拒絶されたる観念への持続」「Joide Vivre<石井氏の舞踊>(水彩)」「梳る(水彩)」を出品。
大正8年 第6回二科展に「日傘の陰」「ウォターポロ(水彩)」「エチュード幻覚(ペン画)」を出品。
大正9年 第7回二科展に「工場」「パントマイム」「諏訪の風景」を出品。
大正10年 4月東京発し、6月パリ着。詩人でダダイストのトリスタン・ツァーラ、フィリップ・スーポール等を知る。未来派の主唱者マリネッティをトリノに尋ねて、約1カ月間、未来派運動に参加。しかし、絵画不在の未来派の理論にあきたらず、失意の状態でパリに帰る。
大正11年 リヨンの美術学校に学ぶ。
大正12年 「窓辺」を制作。9月関東大震災。リヨンより南仏ニース郊外、ビルヌーブ・ルーベに移り自活生活を始めた。風景「ビルヌーブ・ルーベ」を制作。
大正14年 パリに帰る。「青いエシャルブ」を描く。
大正15年 「サルタンバンク」「ピエロ」を制作。第13回二科展に「木かげ」「少女」「静物」「少女」「習作」「デッサン」を出品。
昭和2年 第14回二科展に「黒衣の少女」「窓辺」「あみもの」「コンポジション」を出品。
昭和3年 雪のシベリア経由で日本に帰る。第15回二科展に「少女と猫」「花を持った姉妹」「珈琲(コーヒーを飲む女)」「ピエロ」「ドミノ」「サルタンバンク」「ノスタルジー」「少女」「ルーレットの女」「ラケット」「タンボリン」「庭」「裸体」「母と子」「静物」「Kiki」「黒い靴下(ベット)」「樹下休息」「青いエシャルプ」「手風琴とマンドリン(村の祭風)」「風景A」「風景B」「海岸」など滞欧作品23点を特別陳列し、第1回昭和美術奨励賞を受ける。
昭和4年 1月、東郷青児阿部金剛油絵小品展を東京新宿・紀伊国屋画廊で開く。第16回二科展に「ギター(ポ
ーズ・サンチマンタル)」「窓」「Declation(超現実派風の散歩)」「少女」を出品。
昭和5年 二科会会員となる。第17回二科展に「手術室」「Broken heart(超現実派の散歩No.2)」を出品。
昭和6年 第18回二科展に「海辺」「アリサ」「超現実派の散歩No.3」を出品。
昭和7年 第19回二科展に「セレナード」「N夫人と飛行機」「月夜」「超現実派の散歩No.4」を出品。
昭和8年 第20回二科展に「散歩」「海」「部屋」を出品。第20回記念の回顧陳列に「パントマイム(第7回展)」を出品。
昭和9年 第21回二科展に「テニスコート」「扇」「少女」を出品。
昭和10年 第22回二科展に「手袋」「テラス」「月光」を出品。
昭和11年 第23回二科展に「バルコン」「野辺」「小鳥」を出品。京都丸物百貨店大食堂に、壁画「朝」を描く。
昭和12年 第24回二科展に「微風」「プロフィール」「青い手袋」を出品。
昭和13年 第25回二科展に「織女」「舞」「婦人像」「ベール」を出品。12月、二科展の第9室出陳者を中心として、常に前衛的な意識の下に活動を続けてきた作家達によって「九室会」が結成され、藤田嗣治と共に顧問に推される。
昭和14年 6月、東郷青児洋画展(日本橋三越)に油絵28点を出品。5月、第1回九室会展(日本橋白木屋)に「少女」を、第26回二科展に「水汲み」「紫」を出品。
昭和15年 3月、第2回九室会展(銀座三越)に「漁夫」を、第27回二科展に「白い道」「花叢」を出品。紀元二千六百年奉祝展の委員に任命され、同展に「笛」を出品。
昭和16年 第28回二科展に「扇」「紺と紫」を出品。
昭和17年 第29回二科展に「少女」「夜」「夏」を出品。
昭和18年 第30回二科展に「髪」「花の香」を出品。10月二科会が情報局の指令で解散を命じられる。第6回文展の展覧会委員および審査員をつとめる。「香妃」を出品。
昭和20年 終戦まもなく長野県下の疎開先から上京、戦時中に解散した二科会の再建に挺身する。
昭和21年 再建第1回(創立31回)の二科展を開催、同展に「テラス」「少女1」「少女2」を出品。
昭和22年 第32回二科展に「郷愁」「月光」を出品。
昭和23年 新装なった東京歌舞伎座の緞帳「女の四季」を完成。第33回二科展に「南風」「牧歌」「朝」を出品。
昭和24年 第34回二科展に「樹下小憩」「バイオレット」を出品。
昭和25年 二科35周年記念展に際し功労賞を受ける。二科展に「浜辺の歌」「ミスX」を出品。
昭和26年 第36回二科展に「旅人」「白と黒」を出品。
昭和27年 7月、京都朝日会館の大壁画「平和と団結」(28mX23m)完成。第37回二科展に「哀愁」「バイオレット」を出品。第1回国際美術展に「二人の女」を出品。
昭和28年 第38回二科展に「赤いベルト」「ソワレー」「母と子(渇)」を出品。第2回日本国際美術展に「バレリーナ」を出品。
昭和29年 第1回現代日本美術展に「午後」を出品。第39回二科展に「風」「漁村」「日本髪」を出品。
昭和30年 第3回日本国際美術展に「日曜日の朝」を出品。第40回二科展に「逃げてゆく男」「四重奏」「京風」を出品。
昭和31年 熊本大洋デパート壁画「創生の歌」(30mX4m)完成。第41回二科展に「草の丘」「黒髪」「白い花」を出品。第3回国際美術展に「洗濯物」を出品。
昭和32年 壁画「創生の歌」に対し昭和31年度日本芸術院賞を授与される。第42回二科展に「浜辺」「白と黒」「牧歌」を出品。第4回日本国際美術展に「バレリーナ」を出品、大衆賞となる。
昭和33年 第43回二科展に「花籠」「月夜」「舟」を出品。第3回現代日本美術展に「妖精」を出品。
昭和34年 第5回日本国際美術展に「望郷」を出品、再び大衆賞を受ける。朝日新聞社主催の東郷青児素描展(スケッチ展シリーズ第23輯)開催。3月1日からパリ近代美術館サロン・ド・コンパレーゾンにおいて二科展を開催、「脱衣」「妖精」を出品。オードウル・ド・ラ・クルトワジー・フランセーズ勲章を授与される。第44回二科展に「野辺の花」「黒い鳥」「花籠」を出品。第2回日展に「冬」を招待出品。
昭和35年 3月、日本芸術院会員に任命される。第45回二科展に「子供」「暮愁」を出品。第4回現代日本美術展に「パリの女学生」を出品。第3回日展に「部落の子」を招待出品。
昭和36年 二科会会長に就任する。第46回二科展に「プロバンスの丘」出品。12月メキシコ市オーデトリオ・ナショナルにおいて二科展を開催、「部落の子」を出品。第6回日本国際美術展に「小鳥」を出品。第4回日展に「遥かなる山」を招待出品。
昭和37年 3月、パリ近代美術館サロン・ド・コンパレーゾンにおいて二科展開催、「野辺の花」を出品。パリ市から文化交流の功績により、文化功労賞としてラ・メダイュ・ダルジャンを授与された。またサロン・ドートンヌ名誉会員に推薦された。第47回二科展に「樹下小憩」「魚籃」「牧歌」を出品。第5回現代日本美術展に「青い花」を出品。青山学院講堂に壁画「天使の休日」(2.82mX5.23m)完成。
昭和38年 フランス、カーニュ、ビエンナーレ展に「プロバンスの丘」を出品。第48回二科展に「空の街」「部落の子供(貧しき子)」「サントロッペのマリア」を出品。
昭和39年 4月~5月、フランス、イタリアを旅行、「ベニスの空」を制作。「裏町にて」「遠い山」と共に第49回二科展に出品。
昭和40年 二科会50周年記念回顧展に「サルタンバンク」「ピエロ」を出品、二科会より記念大賞を受けた。二科展に「花炎」「サントロッペの女」「鳥」を出品。
昭和41年 第51回二科展に「干拓地」「旧い町」を出品。
昭和42年 1月、毎日新聞社主催の東郷青児画業50年記念展を銀座松屋で開催、18歳から50年間にわたる代表作87点を陳列した。パリ、グランパレーで開催のサロン・ドートンヌに二科会作品50点を陳列、「干拓地」を出品。5月からモロッコ地方を旅行、「5人目の花嫁」および「モロッコの女」「赤い砂」を制作、第52回二科展に出品した。
昭和43年 明治100年記念二科展として、第1回から現在に至る二科出身関係画家(物故作家も含む)の作品100数点をもって大展覧会を新宿ステーションビルにおいて開催、「ピエロ」「村の祭」を出品した。第53回二科展に「レダ」「イスラエルの女」を出品。11月、多年にわたる日仏文化交流への貢献、およびサロン・ドートンヌに出品した「干拓地」に対してオフィシェ・ド・オルドル・デ・ザール・エ・レットル(芸術文化勲章)を授与するという、フランス政府から通告があった。
昭和44年 2月、フランス大使館において勲章の授与式。3月、デンマーク文化省主催のコペンハーゲン、クンストフォールニンゲンハウスにおける展覧会に「牧歌」を出品。4月、アルジェリアからサハラのホッガー地方を旅行、ガルダイアとタマンラセットで制作、「サハラの妻」「エルゴレアの少女」を完成、「静かなるノラ」と共に第54回二科展に出品。
昭和45年 3月からアテネおよびエーゲ海の諸島を回り、ギリシャ古代美術を研究、「アクロポリス」を制作、「ナザレの女」「ベニスの夜」と共に、第55回二科展に出品。10月、再び渡仏、パリ、サロン・ドートンヌに「ノラ」を出品。グランパレーの二科展にフランス文部大臣、駐仏日本大使を迎えて交歓した。この年外遊不在中に勲三等旭日中綬章授与の発令があった。
昭和46年 5月、ポルトガル政府主催、リスボンのホオズ宮殿における二科展に「ベニスの空」を出品、そのレセプションに出席、引き続きチュニジア、ネフタ、サハラ地方を旅行、ベルベル族とテント生活を共にし、スケッチ多数を得た。「夜の砂紋」を制作、「鳥と少女」と共に第56回二科展に出品、「ベニスの空」は10月28日からレバノン政府主催によるベイルート二科展に引き続き出品。11月、「ネフタの兄弟」制作。12月、毎日新聞社から『画集東郷青児』出版。
昭和47年 カーニュ、国際ビエンナーレの審査員に任命され、その審査に出席、日本作家は優秀賞を獲後した。チェッコのプラハよりオーストリアのウィーン、ハンガリーのブタペスト、オストラバを訪問、この方面の文化交流の端緒を開く折衝を行った。この年結成された日伯美術協会の会長に任命された。第57回二科展に「女体礼讃」「蒼ざめた夜」を出品。同じく彫塑「マリアンヌ」「男と女」を初出品する。成田新空港シティ・エア・ターミナルに壁画「季節」(1mX5.3m3面)完成。
昭和48年 日伯美術交流の功績を認め、ブラジル政府より、グラン・オフィシェ勲章が授与された。第58回二科展に「王家の谷」「ケナの少女」彫塑「渚にて」を出品。
昭和49年 第59回二科展に「タッシリ」「カルナツクの女」、彫塑「風」を出品。日本赤十字社に「従軍看護婦」を献納、金色有功章を授与された。
昭和50年 1月、エジプト、カイロ国立ファイン・アート・ギャルリーにおいて二科展を開催「王家の谷」「モロッコの女」を出品。4月、ブラジルのサンパウロその他で日伯美術展開催、ブラジルアカデミーの名誉会員に推挙された。第60回二科展に「砂漠の花」「砂の村」、彫塑「遠くに行きたい」を出品。彫刻部会員に推挙される。
昭和51年 1月、アルジェリアの国立カトル・コロン美術館において二科展開催のため出張。4月、宮中において勲二等旭日重光章を授与される。6月、東京新宿西口の安田火災海上新本社ビルの42階に東郷青児美術館が開設されパリ留学時代の作品から今日までの代表的作品約80点を陳列。この年、フランス政府は、ディプローム・ド・メダィユ・ドール・グラン・ドォフィシェ勲章(文化勲章)を永年にわたる東郷の日仏文化交流の功績により授与した。第61回二科展に「ラムセスの寵妃」「山の湖」、彫塑「日蝕」を出品。
昭和52年 第62回二科展に「リオ・デ・ジャネイロ」「日蝕」、彫塑「砂の影」を出品。5月、日伯美術展に出席のためブラジルへ行く。「望郷」を出品。9月、東郷青児美術館会館一周年記念展を開く。日本赤十字社に壁画「ソルフェリーノの休日」(1.8mX2.9m)完成。
昭和53年 4月、銀座二科展を開催「きりのない話」を出品。4月25日、旅先の熊本(熊本県立美術館での第62回二科展に出席のため熊本入り)で急性心不全のため死去。没後、文化功労者として顕彰された。6月、ブラジル移民70周年を記念して竣工のため1年がかりで制作した大壁画が完成設置され、東郷たまみが亡父に代って記念式典に出席、披露された。
(本年譜は、東郷青児美術館における「回顧、東郷青児」目録収載年譜を再録させていただきました。)

出 典:『日本美術年鑑』昭和54年版(287-291頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
『日本美術年鑑』に収録されている以下の記事にも「東郷青児」が含まれます。
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