岡鹿之助

没年月日:1978/04/28
分野:, (洋)

 春陽会会員、日本芸術院会員で文化勲章受章者であった洋画家の岡鹿之助は、4月28日午前11時、心筋硬ソクによる心不全のため、東京大田区の中央病院で死去した。享年79であった。岡鹿之助は、明治31年(1898)、劇評家として知られていた岡鬼太郎の長男として生れた。岡家はもと佐賀鍋島藩の出で、鹿之助というのは祖父の名からとられている。明治45年、中学2年のころから岡田三郎助についてデッサンを学び、大正8~13年、東京美術学校西洋画科の岡田三郎助教室に学んだ。大正13年(1924)に渡仏し、翌年2月からパリに住み、藤田嗣治の指導をうけながらサロン・ドートンヌ、サロン・デ・ザンデパンダンに出品した。大正14年、最初のサロン・ドートンヌ出品の際に自分の作品のマチエールの貧弱なのに驚き、以後、顔料や画布について研究をはじめ、また、スーラ、ルドンなどの作品にひかれた。昭和14年(1939)12月の帰国まで、約15年間フランスに滞在し、その間、藤田のほか斎藤豊作、ボナール、ラプラード、アスラン、ザッキン、マルケなどと交友した。帰国後は、春陽会に会員として迎えられ、その第18回展から参加、以後、没するまで春陽会展を中心に作品を発表、戦後は日本国際美術展、現代日本美術展、国際形象展などでも活躍した。昭和28年に渡仏、同34年、同44年にも再度渡欧し、34年(1959)のときには満2年間滞在した。昭和27年には第5回美術団体連合展出品の「遊蝶花」で芸能選奨文部大臣賞、昭和31年第2回現代日本美術展では「雪の発電所」で最優秀賞、昭和39年日本芸術院賞をうけ、昭和44年日本芸術院会員となる。同47年近代フランス古典主義の示唆を受け、新たな日本的風情を持つ秩序とリズム感のある画風を樹立して、日本の現代洋画の流れを変える一石を投じた業績によって文化勲章をうけた。著書に『フランスの画家たち』(中央公論社、昭和24年)、『ルソー』(原色版美術ライブラリー・みすず書房、昭和31年)、『スーラ』(同、昭和33年)、『ジョルジュ・スーラ』(ファブリ世界名画全集・平凡社、昭和44年)などがある。

明治31年 7月2日劇評家岡鬼太郎(本名嘉太郎)の長男として、東京市麻布区に生れる。母・みね。
明治38年 東京、麻布尋常小学校入学。
明治44年 麻布尋常小学校卒業。四月、麻布中学に入学。
明治45年 麻布中学校2年生のときから、父の知人であり、父がその人となりを尊敬していた岡田三郎助に素描を学ぶことになった。
大正8年 前年、麻布区西町から浅草区今戸町の隅田川畔の住居に一家をあげて移転、。東京美術学校西洋画科に入学、敷地内にアトリエを建てる。東京美術学校では、第3学年より岡田三郎助の教室に学んだが、青と黄で裸体を描き、美術学校のアカデミックな画風に反発して、あまり登校せず、アトリエにこもるようになる。しかし、反発の理由を理解し、かばってくれていた師岡田三郎助の恩情を後年まで忘れ得なかった。
大正12年 9月、関東大震災に遇い、浅草今戸町の家は焼失、麻布区広尾町に仮寓する。
大正13年 3月、東京美術学校西洋画科卒業。12月、美術学校5年在学中の南城一夫とともに、3カ年の予定で日本郵船筥崎丸で渡仏する。
大正14年 サロン・ドートンヌに「風景」入選する。
2月、パリ着、5 Rue Delamlre のガレージを改装したアトリエを紹介されて借りるが、しばらくして師岡田三郎助と小山内薫からの紹介状をもって藤田嗣治を訪れると、そのアトリエは、藤田が数日前まで住んでいた部屋であることが判った。絵について、パリでの生活について、また、フランス画壇の現状について、藤田から学ぶところが多かった。7月、ブルターニュの田舎でひと夏を過し、その間の制作の中で、ようやく、これ迄の学校で学んだアカデミックな表現から完全に脱することが出来た。秋、7、80点の制作の中から、藤谷すすめられてサロン・ドートンヌに風景2点を初めて出品、「風景」が1点入選する。
大正15年 サロン・ドートンヌに「信号台(1)」「信号台(2)」「水門」「村の一隅」「マディック氏別荘」出品。
昭和2年 サロン・デ・ザンデパンダンに「城と花。」ウォルベルグ画廊(スイス)に「セーヌ湖畔」。ポエッシー画廊に「ひとつの島」「古港」。サロン・ドートンヌに「ピレネー山麓」「堀割」「滞船」。日本人会・日本人画家展に「礼拝堂」。マントン画廊に「麓」。モンパルナス画廊に「ピレネー風景」出品。その他、「海浜天気予報台」「水門」「青衣の女」などを制作。夏、奇蹟の聖地として知られるルルドのカテドラルを訪ね、のちピレネーの山岳地帯を旅行する。この頃、描法がスーラに似ていると言われたが、スーラは、フランスでもまだ注目されていなかった。当時ルクサンブールにあった美術館を訪ね、そこにひっそり掛っていた「シルク」を観て初めてスーラを知ったが、スーラの科学的色彩の処理よりも、むしろその造形的秩序をもった画面構成に啓発される。また、オザンファン、ジャッヌレ共著の“La Peniture Moderne”からも大いに学ぶところがあった。
昭和3年 サロン・ドートンヌに「雪」「滞船」出品。その他「街道」「町役場」「海」「海洋信号所」などを制作。4月、12 Rue Mouton-Duvernet に移る。パリに来てから数年後、斎藤豊作と出会い、その他、この先輩画家の知遇をうけ、サルト県リュッシュ・プランジュ村のベンベルの古城と呼ばれる斎藤家のシャトーに度々招かれ、制作に時を過す。また、パリ滞在中は、ボナアル、ラプラード、ザッキン、マルケ、ピエル・ロワなどと交わり、ことに同年輩のシャルル・ヴァルシュとは親しかった。
昭和4年 ベルギー、ブラッセルにおける日本人画家展に“Port” “Sous la neige” 出品。サロン・デ・チュイルリイに「燈台」出品。その他、「海辺風景」「波止場」「入り江」などを制作。この頃から、過労がもとで心臓を悪くする。心臓病の権威フィッシンガー博士の診察をうけたところ、心身の休養のためにしばらく制作をやすめて、ボート漕ぎとか釣りとか、軽い運動をすすめられ、釣りを選ぶ。
昭和5年 サロン・ドートンヌに「雪」「窓」出品。サロン・デ・チュイルリイに「燈台」「雪の信号台」出品。その他、「村役場」「波止場」「滞船」など。前年の暮から三月迄、南仏のヴァンスに滞在。
昭和6年 「信号台」「燈台」「城」「風景」制作。7月、ブルターニュ、トレブールに7、8の2カ月滞在制作する。
昭和7年 コレット・ヴェイユ画廊に「小学校」出品。
昭和8年 サロン・ドーロンヌに「街の一隅」出品。その他、「セーヌ河畔」など。
昭和9年 モンパルナス画廊に「橋」出品。
昭和10年 サロン・デ・ザンデパンダンに「花屋にて」。サロン・ドートンヌに「積雪」出品。ブルターニュの北、トレガステルの海辺に1カ月滞在、制作に没頭。
昭和11年 ル・ニヴォ画廊に「魚貝の図」「静物(花)」出品。
昭和12年 サロン・ドートンヌに「寺院」その他出品。シャルパンティエ画廊に「礼拝堂」出品。その他「窓」など制作。
昭和13年 ベルネム・ジュン画廊における日本人展覧会に「聖堂」「南方街道」出品。
昭和14年 シャルパンティエ画廊の第11回在パリ日本美術家協会展に「花」「魚」出品。その他「廃墟」など制作。9月、第2次世界大戦勃発のため、海外日本人引揚船となった日本郵船鹿島丸になかば強制的に乗船させられ、菊池一雄高田力蔵、田近憲三、中村光夫、宮本三郎角浩など、多くの在仏作家とともに、英国、米国を経由、3カ月を要して帰国した。帰国の船中、9月23日、師岡田三郎助の訃報に接す。12月、帰国。東京都大田区田園調布の両親の家に落着く。
昭和15年 4月、春陽会に会員として招かれ、18回展に「堀割(サン・ドニ)」「町役場(モレエ)」「波止場(ブルターニュ)」「村役場(ノルマンディ)」「礼拝堂(モンタルジス)」「聖堂(ラオン)」「南方街道(バイヨン)」「廃墟(ミディ)」「魚」「花」の滞欧作12点を発表した。
昭和16年 4月、春陽会19回展に「庭」「富士山麓水源地」「寺院(パリ郊外)」「パリ郊外」。11月、春陽会第1回秋期展に「風景」(滞仏作)出品。大田区田園調布にアトリエを新築する。
昭和17年 4月、春陽会20回展に「花籠(1)」「花籠(2)」「城」出品。帰国後は日本の風景をモチーフを求め、日本庭園、農家、城などを描いたが、やがて信号台、燈台、発電所といった特殊の建築構造や、そこに漂うそれとなき生活環境の造形表現に興味を惹かれるようになった。
昭和18年 4月、春陽会21回展に「村荘」「積雪」「街道」10月、第6回文展に「農家」出品。この頃、春陽会は文展に参加していたため、中川一政らと文展審査員として同展に参加出品した(官展出品は、この年のみ)。10月29日、父嘉太郎逝去。
昭和19年 4月、春陽会22回展に「三色菫」出品。この頃から好んで三色菫(遊蝶花)を描きはじめる。
昭和20年 戦況激化し、各展覧会はほとんど中止となる。友人の好意で信州伊那に疎開の場を用意してくれたが東京にとどまり周辺に落下する焼夷弾からアトリエを守ることに成功した。
昭和21年 5月、春陽会23回展に「遊蝶花(1)」「遊蝶花(2)」「花籠」出品。
昭和22年 2月、春陽会24回展に「風景」。5月、東京都美術館開館20周年現代美術展に「花籠」6月、第1回美術団体連合展に「河岸」出品。
昭和23年 3月、春陽会25回展に「橋」「窓」。5月、第2回美術団体連合展に「水源地」出品。
昭和24年 4月、春陽会26回展に「船」「窓」。5月、第3回美術団体連合展に「礼拝堂」出品。9月、著書『フランスの画家たち』(中央公論社)。フランス滞在中の親しかった人々、励ましてくれたり、学ぶべきことの多かった画家たちについて「みづゑ」誌上に掲載した原稿をまとめたもの。12月24日、母みね逝去。
昭和25年 1月、読売新聞社主催、現代美術自選代表作15人展に11点出品。3月、第1回選抜秀作美術展に「礼拝堂」(前年の美術団体連合展出品作)出品。9月、著述「新印象主義並びにジョルジュ・スーラの絵画理論」(世界美術全集第24巻)(平凡社)
昭和26年 4月、春陽会28回展に「燈台」「帆船」「観測所」。5月、第5回美術団体連合展に「遊蝶花」出品。
昭和27年 1月、第3回選抜秀作美術展に「遊蝶花」出品。(前年の美術団体連合展出品作)4月、春陽会29回展に「水門」。5月、第1回日本国際美術展に「海辺の遊蝶花」出品。パリのサロン・ド・メエ外国部に出品招待を受け「工場」「廃墟」を出品。3月、前年第5回美術団体連合展出品の「遊蝶花」、その他に対し、芸能選奨文部大臣賞をうける。
昭和28年 4月、春陽会30回展「燈台」。5月、第2回日本国際美術展に、「礼拝堂」出品。2月28日、木下正男と渡仏。引揚船で帰国以来13年振りでパリの土を踏む。パリでは、戦後はじめてフジタに再会、互に無事を喜ぶ。音楽会を楽しむ他、ピアフなどの新しいシャンソン、ローラン・プティの斬新なバレー“狼”の演出をみて、その独自性に目をみはる。また、ポール・クローデルの詩によるオネゲルの曲「火刑台場のジャンヌ」がオラトリオ形式で上演されたのを初めて観てとくに深い感銘をうけた。4月、オランダに旅行、アムステルダムの美術館でレムブラントなどを見るが、フェルメールの数点はとくに深く心を惹かれた。ハーグのゴッホ展などを見てパリに戻り、ロワールの一群の古城を訪れ、南仏でしばらく制作する。次で、アンチーブのピカソの美術館に行く。古城の内部を近代風に造り変え、明るく清潔な室内に置かれた作品は、アンチーブ時代のピカソの、楽しい生活を思う存分さらけ出したものばかりで観る眼にも快かった。4月28日、帰国。10月、著書『油絵のマティエール』(美術出版社)出版。数年にわたって「美術手帖」に連載した原稿をまとめたもの。
昭和29年 1月、第5回選抜秀作美術展に「燈台」(前年春陽会展出品作)出品。3月、銀座兜屋画廊で最初の個展「岡鹿之助滞欧作展」を開き、前年(28年)の渡仏による作品、並びに第1回渡仏中の作品で未発表の小品を品する。「壊されなかった礼拝堂」「三色スミレ(A)」「三色スミレ(B)」「とんねる」「寺院」「礼拝堂」「工場」「廃墟の丘」「貯水池」「聖堂」「燈台」他出品。1月、留学時代から興味をもって調べていたアンリ・ルッソーについての覚え書きをまとめ「みづゑ」(1月号)の特集号として発表する(序説・滝口修造)。2月、美術出版社から画集『S・OKA』(岡鹿之助論・滝口修造)<日本現代画家選2>出版。
昭和30年 1月、第6回選抜秀作美術展に「壊されなかった礼拝堂」(前年バラ会出品作)4月、春陽会32回展に「祝いの花籠」。5月、第3回日本国際美術展に「捧げるもの」出品。7月、リトグラフ「梟」多色摺・私家版。8月、「観測所」多色摺・明治書房出版。
昭和31年 1月、第7回選抜秀作美術展に「捧げるもの」(前年日本国際美術展出品作)4月、春陽会第33回展に「並木」。4―5月、神奈川県立近代美術館主催、「高畠達四郎岡鹿之助2人展」に60点出品。5月、第2回現代日本美術展に「雪の発電所」出品。最優秀賞をうける。7月、リトグラフ「蛾」単色摺・春陽会出版。長い間昵懇の病院長米山弥平博士に勧められて、ともに、雪の志賀高原裏山にジープを雇って発電所を見に行ったところ、山を背景とした発電所の現実の風景が、すでに自分の構想の中にあった発電所のコンポジションとあまりにも似ているのに驚き、この雪の発電所の制作となった。3月、著書『ルソー』(原色版美術ライブラリー)みすず書房出版。
昭和32年 1月、第8回選抜秀作美術展に「雪の発電所」(前年現代日本美術展出品作)4月、春陽会34回展に「山麓」。5月、第4回日本国際美術展に「村荘」出品。7月、リトグラフ「雨やどりする鳥」単色摺・美術出版社版画友の会出版。1月、第2回現代日本美術展出品の「雪の発電所」により毎日美術賞をうける。盛岡地方及び発電所の多い信州上田附近に旅行し、そこで得たモティーフから「山麓」を制作する。7月、画集『岡鹿之助』(日本百選画集)美術書院出版。
昭和33年 1月、第9回選抜秀作美術展に「雪の牧場」(前年雨晴会出品作)4月、春陽会35回展に「花」。5月、第3回現代日本美術展に「丘陵」、また同展に、毎日グランプリ作家展として旧作6点出品。5月、著書『スーラ』<原色版美術ライブラリー>みすず書房出版。
昭和35年 1月、第10回選抜秀作美術展に「献花」(前年春陽会展出品作)出品。2月28日、山本丘人とともに渡仏、山本丘人の希望で神戸から海路により、4月6日パリ着。しばらく共にパリでの生活を送るが、丘人がイタリアへ発った後、かねてより招かれていた斎藤豊作遺族のソードルヴィルの古城に落着く。5月16日からポワチエ地方へ旅行、中世の寺々を訪ね、中でもタヴァンの壁画に興味をそそられる。しかし、この間にみるべき作品は殆ど出来ず、心身の疲労も著しい。ロワールの古城やシャルトルを訪ね、パリに戻る。10月、パリ来訪中の今泉篤男に、気分転換のためにと、イタリア旅行に誘われ、22日から11月4日まで旅行する。イタリアでは、ローマ、フィレンツェ、ミラノ、ラヴェンナ、パドヴァ、その他を訪れ、アレッツオのピエロ・デルラ・フランチェスカの壁画、ラヴェンナのサン・ヴィターレのモザイクに惹かれ、また、チマブエなどの作品に深い感銘をうけた。アッシジのジョットの壁画を再見して、パリに戻る。
昭和35年 帰国迄の3カ年をパリ郊外に居住。4月上旬、山岳地帯マシッフ・サントラルを通ってカマルグ地方に旅行する。霞ヶ浦を幾十倍かしたような荒漠とした大湿地帯で、渡り鳥の生息地として有名な所である。この荒涼とした、風景の中で半月ほど過し、心身の休養をとる。8月、友人の村山密(春陽会会員)とブルターニュの僻村コーレルで、カトリックの司祭ギヨオム・ル・カン氏の家の1室を借りうけて宗教的雰囲気の中で静かなひと夏を過す。11月、ブルゴーニュ地方に旅行。ヴェズレーのサン・ヴェルナール寺を訪ね、数世紀の風雨に晒された石造りの寺の石の魅力に、茫然とする。
昭和36年 6月、グレゴリオ聖歌が今日最も正しい形で残っているといわれる、ソーレムのサン・ピエール修道院を訪ねる。大勢の剃髪した修道士たちの合唱するグレゴリオ聖歌を聞き、深い感動をうけ、数日間滞在してミサを聞きに通った。11月パリより帰国。
昭和37年 4月、春陽会39回展に「望楼」「群落(雪)」「粉ひき場」。5月、第5回現代日本美術展に「群落(B)」「群落(A)」(東京国立近代美術館買上)10月、第1回国際形象展に同人として参加「群落」「ファサード」出品。
昭和38年 1月、第14回選抜秀作美術展に「群落(雪)」(前年春陽会出品作)。4月、春陽会40回展に「林」出品。4月末―5月、日本経済新聞社主催「岡鹿之助展」(於日本橋白木屋)開催。約50点出品。5月、第7回日本国際美術展に「たき火」。7月、朝日新聞社・日中文化交流協会主催の、北京、上海における日本油絵展に「ファサード」出品。
昭和39年 4月、春陽会41回展に「無線中継所」。5月、第6回現代日本美術展に「献花」出品。昨年の日本経済新聞社主催「岡鹿之助展」の作品並びに多年に亘る業績に対し、日本芸術院賞をうける。8月、リトグラフ「魚」、「巣」単色摺・画集9月30日、渡仏。12月26日、パウル・クレーの作品をみるためにスイスへ旅行、バーゼル及びベルンの美術館をたずねる。
昭和40年 10月、第4回国際形象展に「群落(廃墟のある)」「砦」出品。前年末よりスイスに滞在、正月1日は美術館が休みなので雪の山と湖を見物。
昭和41年 4月、春陽会43回展に「僧院」。5月、第7回現代日本美術展に「花と廃墟」。10月、第5回国際形象展に「献花」「城」出品。
昭和42年 4月、春陽会44回展に「燈台」。5月、第9回日本国際美術展に「雪の無線中継所」。11月、第6回国際形象展に「運河」「城」出品。毎日新聞社主催「岡鹿之助展」(渋谷東急本店)に近作を含めた97点展観。
昭和43年 3月、毎日新聞社主催、「岡鹿之助展」(大阪大丸店)4月、春陽会45回展に「水辺の城」。10月、第7回国際形象展に「献花」出品。東京渋谷、吹田貿易株式会社ロビーの大理石モザイク壁画、銀座資生堂のタピスリーの下絵制作。
昭和44年 1月、日本芸術院会員となる。4月、春陽会46回展に「雪」出品。5月、渡仏。6月に春陽会の山崎貴夫とラヴァルのペリーヌを訪れ、芝生と花で囲まれたアンリ・ルソオの墓に詣でる。7月、ソーレムのサン・ピエール修道院を訪ね、再び、グレゴリオ聖歌をきく。9月、心臓強化のため医者にかかったが、服用していた薬の副作用で紫斑病にかかり、フォッシュ病院に数日入院する。10月、帰国。著書『ジョルジュ・スーラ』(ファブリ世界名画全集)平凡社出版。
昭和45年 4月、春陽会47回展に「朝の城」。10月、第9回国際形象展に「礼拝堂」「古城」出品。
昭和46年 4月、春陽会48回展に「献花」。9月、第10回国際形象展に「古い城」「ラヴァルの城」出品。著書『ルソー』(ファブリ世界名画全集)平凡社出版。
昭和47年 4月、春陽会49回展に「村の発電所」出品。京都、吹田貿易株式会社ロビーのモザイク壁画の下絵制作。11月、文化勲章を受ける。
昭和48年 4月、春陽会50回展に「森の館」。9月、第12回国際形象展に「燈台」出品。9月、講談社より画集『岡鹿之助』(日本の名画)出版。
昭和49年 4月、春陽会51回展に「館」出品。5月、東京毎日新聞社主催、「岡鹿之助展」(東京渋谷、東急百貨店本店)6月、大阪毎日新聞社主催、「岡鹿之助展」(大阪梅田、阪急百貨店)東京展とは別個に同じような企画で開催された。いずれも、初期から近年までの作品、90余点を展観。5月、リトグラフ「粉挽場」多色摺・『岡鹿之助作品集』(美術出版社)特製本収録。6月14日、今泉篤男と渡仏。同氏のすすめでリトグラフ7点(葡萄1、西洋梨、フレマチス、鳥の巣、梟、葡萄2、三色菫)をアトリエ Guillard Gourdon et Cie で制作する。心不全の発作によってしばらく休養ののち、7月11日帰国する。
昭和50年 4月、春陽会53回展に「城跡」。10月、第13回国際形象展に「岬」出品。
昭和51年 4月、春陽会53回展に「城」出品。
昭和51年 4月、春陽会54回展に「雪の庁舎」出品。
昭和53年 4月、春陽会55回展に「段丘」を出品。同月28日午前11時、心筋硬ソクによる心不全のため、東京都大田区田園調布中央病院分室で死去した。告別式は5月7日、東京・青山斎場において春陽会葬として行われた。
(本年譜は、『岡鹿之助画集』<美術出版社昭和53年刊>収録の岡畏三郎編年譜より再録、一部追記したもので
ある)

出 典:『日本美術年鑑』昭和54年版(291-296頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
『日本美術年鑑』に収録されている以下の記事にも「岡鹿之助」が含まれます。
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