中山巍

没年月日:1978/05/19
分野:, (洋)

 独立美術協会会員の洋画家、中山巍は、5月19日午前5時55分、老衰のため東京都武蔵野市の自宅で死去した。享年84。中山巍は明治26年(1893)に岡山市長中山寛の4男として生まれ、中学時代から水彩画に親しみ、大下藤次郎の水彩画講習会に通い、大阪、ついで東京に出て葵橋洋画研究所に入り、大正3~9年東京美術学校西洋画科に学び、藤島武二に師事した。大正11年(1922)東京美術学校研究科を修了してフランスに留学、昭和3年(1928)まで滞欧した。その間、里見勝蔵の紹介でヴラマンクを知り師事、里見、前田寛治、宮坂勝小島善太郎、佐伯祐三、中野和高高畠達四郎福沢一郎、音楽家の林竜作らと盛んに交遊した。大正13年(1924)にはシャガール、ザッキン、昭和3年(1928)には福島繁太郎の紹介で詩人のアンドレ・サルモンや画商のズボロフスキーらと知り合い交友、エコール・ド・パリ時代後期のパリ画壇で過し、1928年ズボロフスキ画廊で開いた個展をアンドレ・サルモンは高く評価した。昭和3年(1928)帰国後は有島生馬のすすめで第9回二科展に滞欧作を特別陳列、またパリ時代の友人達による1930年協会展にも参加したがk昭和5年(1930)独立美術協会創立に参加し、以後、同会の中心的会員のひとりとして活躍した。戦後、昭和33年、脳出血のために倒れ、以後左半身不随となり療養につとめながらも製作をつづけ、昭和44年からは第三文明展にも出品、同47年には大石寺正本堂の壁画を製作した。没後、創価文化功労賞をうけ、勲四等旭日章を叙勲した。

◆年譜
明治26年(1893) 8月、岡山市に父中山寛(第8代岡山市長)母健の4男として生まれる。
明治33年(1900) 4月、岡山県師範学校附属小学校に入学。3・4年生の頃中堀愛作に啓発され水彩画を描く。
明治39年(1906) 3月、岡山県師範学校附属小学校卒業。4月岡山県立津山中学校に入学。同級生に金田廉、矢野峯人(英文学者)、片岡鉄兵(文芸家)がいた。この頃水彩画を描く一方油絵具をはじめて購入し習作する。同校にて寄宿生活に入る。
明治40年(1907) 8月、大下藤次郎の水彩画夏期講習会が奈良で開かれ、当時最年少で参加。
明治41年(1908) 8月、大下藤次郎の水彩画夏期講習会が鎌倉で開かれ参加。この頃、画家志望の意志を固める。津山中学の寄宿生活と画作意欲が合わず、9月関西中学校に転校。
明治44年(1911) 3月、関西中学校を卒業。卒業日に上京。池袋に下宿し、葵橋洋画研究所に入り、黒田清輝に師事する。まもなく脚気をわずらい帰郷。
大正1年(1912) 3月、上京し再び研究所に通う。同学に鈴木千久馬鈴木亜夫長谷川潔らがいた。
大正3年(1914) 4月、東京美術学校洋画科に入学。同期に里見勝蔵、大内清波、武井武雄、須永力、宮坂勝らがいた。藤島武二に師事。この頃、児島虎次郎(画家)に会い親交する。* 制作=「秋の校庭」
大正6年(1917) 肋膜炎をおこし半年間休学する。茅ヶ崎の療養所(南光院)にて療養。この時、坂口安吾の兄健吉(新潟新聞記者)と知り合う。美術学校を留年する。鈴木千久馬中村研一らと同期となる。
大正7年(1918) 8月、大島に渡り取材する。10月、第1回定点に「樵夫」を出品し坂本繁二郎に激賞される。* 制作=「樵夫」
大正9年(1920) 3月、東京美術学校を卒業する。同校研究科(現・大学院)に進む。* 制作=「自画像」「机によれる婦人」
大正11年(1922) 3月、東京美術学校研究科を卒業。フランスに留学する。渡仏後ベルギーに旅行。前年に渡仏していた里見勝蔵にヴラマンクを紹介され師事する。小島善太郎、前田寛治、宮坂勝、林龍作(音楽家)ら渡仏。里見勝蔵も含めて中山のアトリエで盛んに会合する。児島虎次郎とも会う。* 制作=「パリ記念」「フランス寺院」「ポートレート」「パリ淡雪」
大正12年(1923) 南仏に旅行し(4カ月間)画策する。パリ・ロルヌ街のアトリエに移る。この年渡仏した佐伯祐三、中野和高らを含めて盛んに会合する。この頃、新しい美術家協会を作ることを話合う。* 制作=「裸婦」
大正13年(1924) 5月、この年渡仏した高畠達四郎福沢一郎とパリで会い親交を深める。シャガールに会い傾倒する。ザッキンと親交する。* 制作=「家婦」
大正14年(1925) 10月、第6回帝展に「婦人座像」を藤島武二のすすめでパリから出品。* 制作=「花」「婦人座像」「少年座像」「郵便夫」
昭和1年(1926) サロン・アンデパンタン展に風景画を出品し好評を博す。この年、先に帰国した木下孝則小島善太郎、佐伯祐三、里見勝蔵らが1930年協会を設立。* 制作=「赤いショールの女」「エトルタ風景」「室内座婦」「窓」「パレットを持つ男」「家族」「赤レンガの風景」「オーブ風景」「サボの椅子」「若き画家像」「花」
昭和2年(1927) 画作に熱中する。* 制作=「黒衣座婦」「子供像」「モーラン風景」「老人像」「スープを吸ふ老人」「時計」「青背座婦」「老職工」「マンシュ風景」「ヴイオロニスト」「赤ジレ座婦」「フォートイュ」「ノルマンディー風景」「母子のいる室内」「室内家婦」「巴里」「窓辺の女」「黒衣婦人像」「縞のエプロン」「家族」「パンのある静物」
昭和3年(1928) 福島繁太郎の紹介でアンドレ・サルモン(詩人・美術評論家)、ズボロウスキー(画商)を知り、ズボロウスキーの画廊(リュー・ド・セーヌ)で個展を開く。アンドレ・サルモンに激賞され(カタログ序文を書く)好評を博した。イタリアを旅行する。6月、帰国。池袋に住む。9月、第15回二科展に滞欧作20点を特別陳列。二科賞を受賞する。* 制作=「フィレンチェの街」「老職工」
昭和4年(1929) 1月、1930年協会第4回展に佐伯祐三遺作とともに滞欧作40点を特別陳列。会員となる。2月、1930年協会大阪展にて美術講演会を開き講演する。6月、道展開催のため里見勝蔵小島善太郎らと札幌に行き講演する。道展に滞欧作を展示。9月、第16回二科展に「窓辺肖像」他3点を出品。二科会友となる。* 制作=「窓辺肖像」「画室」「座婦」「室内」「窓」
昭和5年(1930) 1月、1930年協会展「窓」他5点出品。4月、第2回聖徳太子奉讃展に出品。5月、一井茂子と結婚。大森馬込臼田坂に居を移す。9月、第17回二科展に「有閑女人図」他4点出品。11月、中山宅にて独立美術協会発足の話合いを重ねる。里見勝蔵清水登之児島善三郎、三岸好太郎、林武ら同志12名とともに独立美術協会を創立。創立会員となる。独立美術協会宣言、趣旨を発表。12月、外山卯三郎編「中山巍画集」を出版。* 制作=「有閑女人図(婦人の休日)」「窓」「窓」「工房」「顔」「画室」「文書く人」「笛吹き」
昭和6年(1931) 1月、第1回独立展に「笛吹き」他2点を出品。朝日新聞講堂にて講演。この時の出品作「顔」が盗難にあう。3月、独立美術協会活動の一環として池袋に芸術研究所、新洋画研究所を起し実技指導の中心となる。6月、杉並町田端に独立美術研究所を開いてその中心となる。8月、独立美術協会夏期講習会(於、紀伊国屋書店講堂)を開き講師となる。9月、独立秋季展に出品。* 制作=「顔(自画像)」「顔(夫人茂子)」「婦人座像」
昭和7年(1932) 2月、長女玲子誕生。3月、第2回独立展に「娘と椿」他2点を出品。4月、読売新聞講堂にて講演会を開く。8月、独立美術協会夏期講習会を開き実技指導にあたる。10月、岡山市で個展を開く。80点出品。独立秋季展に出品。* 制作=「娘と椿」「画家とモデル」「日曜画家と静物」「砂丘」「K氏像」
昭和8年(1933) 3月、第3回独立展に「大根と小娘」他2点を出品。独立美術協会講演会を国民新聞講堂にて開催。9月、独立協会素描展に出品。10月、独立秋季展に出品。大阪で小品個展を開く。* 制作=「大根と小娘」「窓辺静物」「二重肖像」「柘榴」「顔」「柘榴」
昭和9年(1934) 3月、第4回独立展に「花鳥」他2点を出品。朝日新聞講堂にて独立美術協会講演会を開く。独立会員素描油彩小品展に出品。6月、独立会員小品展に出品。8月、機関誌「独立美術・中山巍特集号」発行。この頃、会員間の主張の違いで協会が分裂状態となり収拾に奔走。坂崎坦(朝日新聞学芸部長)の協力をえて結束させる。11月、独立秋季展に出品。* 制作=「花鳥」「花と遊ぶ」「花鳥」「パレット」
昭和10年(1935) 3月、第5回独立展に「砂丘」他2点出品。東京府美術館開館十周年記念現代綜合美術展覧会に出品。4月、鳥取市で個展を開く。10月、独立秋季展に出品。* 制作=「砂丘」「花」「蔬菜」「婦人像」「花と女」「内海の風景」
昭和11年(1936) 4月、第6回独立展に「夏所見」他1点を出品。10月、独立会員小品展に出品。同秋季展にも出品する。* 制作=「砂丘」「夏所見」「鏡の前の女」
昭和12年(1937) 3月、第7回独立展に「ギリシャの追想」他1点を出品。会員小品展にも出品。4月、在野5団体懇話会の成立に参加する。10月、会員小品展に出品。11月、明治・大正・昭和名作美術展に「笛吹き」が出品される。独立秋季展に出品。この頃満州渡る。* 制作=「美しき室内」「ギリシャの追想」「画家とモデル」「満州記念」
昭和13年(1938) 3月、第8回独立展に「王道楽土」他1点を出品。この頃朝鮮、台湾に渡る。* 制作=「王道楽土(A)」「王道楽土(B)」「満州記念」「建設」
昭和14年(1939) 3月、第9回独立展に「門」他1点を出品。会員小品展に出品。10月、独立秋季展に出品。* 制作=「門(朝鮮記念)」「街の群集(朝鮮記念)」
昭和15年(1940) 3月、第10回独立展に「父と子」他2点出品。会員小品展に出品。10月、紀元2600年奉祝美術展に「田園に育つ」を出品。独立秋季展に出品。この頃、中国大陸に渡る。* 制作=「父と子(その1)」「父と子(その2)」「静物と母子」「丘麓の花」「田園に育つ」
昭和16年(1941) 3月、第11回独立展に「遺跡」を出品。12月、藤田嗣治伊原宇三郎小磯良平らとともに従軍画家としてシンガポールへ渡る。* 制作=「遺跡」
昭和17年(1942) 3月、第12回独立展に「南方の女」他1点を出品。東南アジアで従軍を続ける。風土病で高熱を発しボルネオ陸軍病院に入院。その後、ジャワ、バリ島など歴訪ののち帰国。10月、独立秋季展に出品。* 制作=「南方の女」「南方の子」
昭和18年(1943) 3月、第13回独立展に「女人群」他1点を出品。* 制作=「女人群(バリ島)」「座婦(ジャワ島)」「鉄路建設」
昭和19年(1944) 2月、第14回独立展に「洗濯」ほか2点を出品。この年、戦火をさけ吉祥寺本田南に転居する。* 制作=「洗濯」「南方の人人」「南方の女」
昭和20年(1945) 敗戦のため独立展は開かず、この年、吉祥寺北町に転居する。* 制作=「アトリエ」
昭和21年(1946) 4月、坂崎坦(当時、女子美術大学教授)のさそいで女子美術大学洋画科主任教授となる。6月、独立会員小品展に出品。11月、独立自由出品展に「婦人像」を出品。* 制作=「婦人像」「緑陰」「スマトラ」
昭和22年(1947) 4月、第15回独立展に「鏡」他2点を出品。12月、独立自由出品展に出品。* 制作=「鏡」「三彩皿」「少女」「少女」「Y氏肖像」
昭和23年(1948) 4月、第2回毎日新聞主催美術団体連合展に「少年」を出品。10月、第16回独立展に「猫を抱く少女」他2点出品。* 制作=「猫を抱く少女」「二人」「少年」
昭和24年(1949) 4月、第3回美術団体連合展に「女の肖像」を出品。10月、第17回独立展に「画家とモデル」他1点を出品。* 制作=「画家とモデル」「或る日の画家像」「女の肖像」「パレットを持つ画家像」
昭和25年(1950) 3月、第1回朝日新聞社主催秀作美術展に「女の肖像」を出品。4月、第4回美術団体連合展に「静物」を出品。10月、第18回独立展に「アトリエの一隅」他1点を出品。この年、岡山市で個展を開催し50点出品する。12月、名古屋丸栄ホテルの大壁画を完成。* 制作=「アトリエの一隅」「緑の首飾」「夏景色」「やしま」「金魚鉢のある静物」「遼三彩鉢のある静物」「女の肖像」「静物」
昭和26年(1951) 1月、第2回朝日新聞社主催秀作美術展に「静物」を出品。独立春季会員展に出品。4月、第5回美術団体連合展に「マチス礼讃」を出品。10月、第19回独立展(20周年記念展)に「画家とモデル」を出品。6月、「マチス礼讃」により第8回日本芸術院賞を在野で初めて受賞する。* 制作=「静物」「画家とモデル」「少女と木葉」「椅子に寄りて立つ女」「マチス礼讃」この頃「父の像」
昭和27年(1952) 5月、第1回毎日新聞主催日本国際美術展に「女と鏡」他1点出品。6月、独立春季会員展に出品。10月、第20回独立展に「画室の一隅」他1点出品。* 制作=「月と静物」「画室の一隅」「鏡の前の娘(女と鏡)」「窓辺静物」
昭和28年(1953) 4月、独立春季会員展に出品。5月、第2回日本国際美術展に「月と静物」を出品。10月、第21回独立展に「二人の女」「他1点を出品。* 制作=「二人の女」「卓に寄る娘」「海岸風景」「伊豆」
昭和29年(1954) 5月、毎日新聞社主催第1回現代日本美術展に「ヴィオロン」を出品。独立会員展に出品。10月、第22回独立展に「卓上の花」他1点を出品。* 制作=「卓上の花」「花をくわえる女」「ヴィオロン」
昭和30年(1955) 4月、独立会員展に出品。5月、第3回日本国際美術展に「2つの顔」を出品。10月、第23回独立展に「出土器など」他1点を出品。* 制作=「出土器など」「愛好家」「桜島を望む」「絵ガラスと二人女像」「2つの顔」
昭和31年(1956) 5月、第2回現代日本美術展に「二重肖像」を出品。図版に自作評を書く。独立会員展に出品。10月、第24回独立展(25周年記念展)「夜の窓辺の花」他1点を出品。* 制作=「夜の窓辺の花」「木の葉を銜えた女」「二重肖像」
昭和32年(1957) 5月、第4回日本国際美術展に「花瓶を持てる女」を出品。10月、第25回独立展に「静物」他1点を出品。* =制作「静物」「海岸風景」「二人の女」「かぼちゃのある静物」「花瓶を持てる女」
昭和33年(1958) 5月、第3回現代日本美術展に「姉妹」「静物」を出品。図版に自作評を書く。8月、脳出血のため倒れる。このため左半身不随となり、療養生活に入る。病のため独立展不出品。女子美術大学洋画科主任教授を辞す。* 制作「姉妹」「風景」「静物」
昭和34年(1959) 10月、第27回独立展に「三彩鉢と桜実」他1点を出品。*制作=「三彩鉢と桜実」「或る肖像」「花」「林間の道」「もくせいの咲く頃」
昭和35年(1960) 5月、第4回現代日本美術展に「窓」他1点を出品。娘・玲子、沢田文彦(声楽家・現・二期会理事)と結婚。
10月、第28回独立展に「山鳩のいる卓上静物」他1点を出品。*制作=「窓」「卓上静物」「山鳩のいる卓上静物」「山鳩と少女」「バルコン」、この頃「窓辺の果物」
昭和36年(1961) 5月、第6回日本国際美術展に「山鳩を飼う女」を出品。10月、第29回独立展に「緑の窓」他1点を出品。* 制作=「山鳩を飼う女」「緑の窓」「山鳩と窓による人達」「山鳩を持つ人」
昭和37年(1962) 5月、第5回現代日本美術展に「赤い楽本のある静物」他1点を出品。10月、第30回独立展に「秋海棠のある静物」他1点を出品。朝日新聞社主催「現代画壇の20人展」に出品。* 制作=「赤い楽本のある静物」「白背婦人像」「蜜柑とガラス器のある窓辺静物」「赤い楽本のある静物」「秋海棠のある静物」
昭和38年(1963) 5月第7回日本国際美術展に「白いテーブル」を出品。10月第31回独立展に「室内」他1点を出品。* 制作=「白いテーブル」「室内」「ガラス器のある静物」「ガラス器の花」「Mozartのある室内」「鏡の前の女」「ぶどう」
昭和39年(1964) 1月岡山市において「郷土出身芸術院4人展」に平櫛田中小野竹喬池田遥邨らとともに14点の作品が展示される。5月第6回現代日本美術展に「鳥を飼う室内」を出品。10月第32回独立展に「九月風景」他1点を出品。11月日蓮正宗に帰依する。* 制作=「鳥を飼う室内」「九月風景」「古陶とマジョリカのつぼなど」
昭和40年(1965) 10月第33回独立展に「金魚鉢と顔」を出品。* 制作=「金魚鉢と顔」「大原三郎氏の像」「みのり」
昭和41年(1966) 10月第34回独立展に「洋文字のある静物」他1点を出品。雑誌「繪」に「ヴラマンク先生の思い出」を書く。* 制作=「洋文字のある静物」「白の中の群像」「リラの花」「桜春」「窓辺の果実」
昭和42年(1967) 10月第35回独立展に「白の二人座婦」他1点を出品。* 制作=「白の二人座婦」「窓辺」「白山吹と古陶とピカソ」「柿と水さし」
昭和43年(1968) 10月第36回独立展に「南苑のベランダ」を出品。* 制作=「南苑のベランダ」
昭和44年(1969) 1月岡山県総合文化センターに代表作点を寄贈し、その披露展を開催。10月第37回独立展に「白い光の中の彼岸花」を出品。第1回第三文明展に「清爽な朝」を出品。* 制作=「白い光の中の彼岸花」「清爽な朝」
昭和45年(1970) 10月、第38回独立展に「贈られた洋蘭」を出品。11月、第2回第三文明展に「卓」他1点を出品する。紺綬褒章を贈られる。創価学会池田大作第3代会長より日蓮正宗正本堂の壁画制作を依頼され着手。* 制作=「贈られた洋蘭」「卓」「窓辺のバラ」「瀬戸内の海」
昭和46年(1971) 壁画制作に没頭、生涯のライフワークとする。* 制作=「建設の譜(エスキース)」「桜」
昭和47年(1972) 9月、壁画「建設の譜」を完成、納入する。10月、大石寺へ正本堂建立記念式典参加のため参詣。* 制作=壁画「建設の譜」
昭和48年(1978) 1月、雑誌「アサヒギャラリー」に「中山巍誌上回顧展」掲載される。9月、「近代日本美術史におけるパリと日本」展(於東京国立近代美術館)に作品が出品される。10月、第41回独立展に「高原の窓」を出品。* 制作=「高原の窓」
昭和49年(1974) 10月、第42回独立展に「風景の中の花束」を出品。* 制作=「風景の中の花束」
昭和50年(1975) 10月、第43回独立展に「雲と花」を出品。* 制作=「雲と花」
昭和51年(1976) 10月第44回独立展に「曼珠沙華」を出品。* 制作=「曼珠沙華」
昭和52年(1977) 10月、第45回独立展に「高原の花」を出品。「風景の中の花束」に筆を進める。* 制作=「高原の花」
昭和53年(1978) 5月19日老衰の為死去。自宅にて密葬後、独立美術協会葬。10月独立展は中山巍追悼展を兼ねる。墓所は大石寺。創価文化功労賞を受賞。訓四等旭日章叙勲。* 制作=「花(絶筆)」
昭和54年(1979) 9月、富士美術館にて「中山巍回顧展」が開催される。なお、本年譜は、富士美術館における「中山巍回顧展」所収の高倉達夫編年譜から収録させていただきました。

出 典:『日本美術年鑑』昭和54年版(309-313頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
『日本美術年鑑』に収録されている以下の記事にも「中山巍」が含まれます。
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