津田青楓

没年月日:1978/08/31
分野:, (洋)

 中途日本画に転じた洋画家津田青楓は、8月31日杉並区の自宅で老衰のため死去した。享年97。本名亀治郎。明治13年9月13日京都市中京区の西川源兵衛、みよの次男として生れた。のち母方の養子となり津田姓を嗣いだ。生家は代々生花「去風流」の家元で旁ら切花を商った。長男源治郎長じて一草亭と号し、挿花で一家をなした。画技は、はじめ四條派の升川友広に就き、のち歴史画家谷口香嶠の門に入った。明治30年京都市立染織学校に入り、同32年浅井忠の関西美術院に学んだ。明治33年兵役に服し、深草歩兵第三八聯隊に入営した。同36年除隊後、京都高島屋図案部に勤務する。翌37年日露戦のため戦時召集令により原隊に戻り、乃木軍の旅順攻撃に参加した。39年召集解除後は再び高島屋に勤務し、又関西学院に通った。明治40年山脇敏子と結婚、4月農商務省海外実業練習生としてフランスに留学、安井曾太郎も同行した。パリでアカデミー・ジュリアンに入り、ジャン-ポール-ローランスに学んだ。明治43年帰朝し、翌年夏目漱石と知り合った。大正2年漱石に油絵を指導し、翌3年には二科会の創立に参加した。会員となったこの頃また良寛遺墨に接し大いに感銘して、以後その研究に入る。大正半頃には二科展に出品する一方日本画を描き、また短歌誌の同人になる。大正12年河上肇と相識り合った。同4年には京都東山霊山に津田洋画塾を創立し、京都画壇の一勢力をなした。翌年山脇敏子と離婚し、鈴木はまと結婚した。その後、次第にプロレタリヤ運動に近づき思想的作品をかくようになった。昭和6年第18回二科展に「ブルジョワ議会と民衆の生活」を出品、官憲から注目された。翌7年潜行中の河上肇をかくまうことなどあり、8年検挙された河上肇につづいて、留置されたが翌月釈放された。転向後は二科会を退会し、専ら日本画研究をすすめ、また良寛研究に打込んだ。戦時中は茨城県小田村に疎開し、終戦後は、杉並区高井戸に土地を求め家を新築した。晩年は剛直な性格と、波乱多い半生を墨彩に托した作品は、新文人画ともいうべき自由な画風で、独特の情趣を示した。絵画のほか、書、詩、歌などの活動も幅広く、装幀も手がけた。代表作に「新議会」「漱石と十弟子」「出雲崎の女」「疾風怒濤」「富士女二景」「漱石先生読書図」「河上博士像」などがあり、主な著書に『画家の生活日記』(京都弘文堂大正13年)『書道と画道』(小山書店昭和8年)『漱石と十弟子』(世界文庫昭和20年)『老画家の一生』(上下二巻)(中央公論美術出版昭和38年)。主な装幀に森田草平著『十字街』、夏目漱石著『虞美人草』『道草』ほか。

出 典:『日本美術年鑑』昭和54年版(317頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2016年11月21日 (更新履歴)
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