中村正義

没年月日:1977/04/16
分野:, (日)

日本画家中村正義は、4月16日呼吸不全のため、川崎市高津区の聖マリアナ医大付属病院で死去した。享年52。大正13(1924)年豊橋市に生れ、昭和16(1941)年豊橋市立商業学校を病気療養のため中退した。療養のかたわら日本画家夏目太果に就いたが、昭和21(1946)年には中村岳陵門下となった。この年10月の第2回日展に「斜陽」が初入選となり、昭和25年第6回日展では「谿泉」が特選となった。以後も日展で好成績をおさめ、昭和35(1960)年には日展審査員となった。しかし翌年には日展を脱退し、以後は無所属として、自由で幅広い制作活動を展開する。また病のため屡々入院して絵筆に遠ざかったが、快瘉後は再び制作をつづけ独自の画風を創造して多くの作品を発表した。代表作に「源平合戦絵巻」があり、東洲斎写楽の研究をすすめ著書に「写楽」がある。そのほか昭和50年の東京展では事務局長として活躍している。
略年譜
昭和21年(1946) 中村岳陵門下となる。「斜陽」第2回日展(10月)
昭和22年(1947) 「爽凉」日本美術院展
昭和23年(1948) 「少女」第4回日展。
昭和24年(1949) 「夕陽」第5回日展。
昭和25年(1950) 「谿泉」(特選)第6回日展。一采社同人となる。
昭和26年(1951) 「空華」第7回日展無鑑査出品。
昭和27年(1952) 「女人」(特選・白寿賞政府買上)第8回日展。朝倉賞受賞。豊橋文化賞受賞。
昭和28年(1953) この年より昭和31年まで病気のため、制作中断する。
昭和32年(1957) 「女」第13回日展依嘱出品。
昭和33年(1958) 「舞妓」(出品依嘱)第1回新日展。
昭和34年(1959) 「舞子」(出品依嘱)第2回新日展。中部日本文化賞受ける。
昭和35年(1960) 日展審査員。「太郎と花子」第3回新日展。個展-風景と人物-(高島屋)
昭和36年(1961) 日展を脱退し、岳陵門よりも去り、以後無所属となる。「太郎と花子」朝日秀作美術展出品。ヨーロッパに旅行。
昭和38年(1963) 個展-男と女-(上野、松坂屋)名古屋、御園座の緞帳制作。個展(ロンドン・キャセー画廊)
昭和39年(1964) 石原愼太郎作「一の谷物語」(日生劇場)の美術を担当。映画「怪談」のための「源平海戦絵巻」展(日本橋白木屋)(國立近代美術館買上)。名古屋國際ホテル会議場緞帳制作。
昭和40年(1965) 個展(東京、大阪、名古屋)
昭和41年(1966) 朝日秀作美術展、現代日本美術展などに出品。個展-顔の自伝-(東京日本画廊)。(名古屋・丸栄)。名古屋中日劇場緞帳制作。ヨーロッパ、アメリカ旅行。
昭和42年(1967) 病気入院。個展(新宿、紀伊国屋画廊、赤坂・ガラスの城画廊)
昭和43年(1968) 個展(名古屋・丸栄)日本國際美術展出品。
昭和44年(1969) 現代日本美術展出品。個展-太陽と月のシリーズ-(銀座・三越)(山種美術館買上げ。)
昭和45年(1970) 『写楽』(ノーベル書房)出版。個展(名古屋・丸栄)
昭和46年(1971) 「美人画の系譜」展(京王百貨店)「戦後美術の展開」展(東京國立近代美術館)等に出品。個展-佛-(大阪・松坂屋、京都・祇園画廊)
昭和48年(1973) 現代日本美術展に出品
昭和49年(1974) 「人人」展(日本橋・三越)出品。個展-顔の自伝(ギャラリー・ヤエス)
昭和50年(1975) 個展-象徴の顔-(紀伊國屋画廊)東京展事務局長となる。
昭和51年(1976) 「中村正義展」(横沢市民ギャラリー)「人人」展、「東京展」出品。
昭和52年(1977) 「人人」展出品、「中村正義」展(飯田市商工会議所)

出 典:『日本美術年鑑』昭和53年版(261頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「中村正義」『日本美術年鑑』昭和53年版(261頁)
例)「中村正義 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9609.html(閲覧日 2024-04-18)

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