山田申吾

没年月日:1977/07/07
分野:, (日)

日本画家山田申吾は、7月7日ジン不全のため、東京都板橋区の日大板橋病院で死去した。享年68。本名申吾。明治41年12月5日、当時著名な日本画家山田敬中の次男として東京田端に生れた。大正15年東京美術学校日本画科に入学し、昭和6年同校を卒業した。
美校在学中の昭和5年第11回帝展に「水辺初夏」を出品し、初入選した。その後も帝展
新文展等に出品をつづけ、戦後は日展を舞台に発表し、役員としても活躍した。官展のほか、戦前には大日美術院、国士会等に参加し、戦後は美校同期生により結成された六窓会、一采社等にも出品した。
また昭和19年から10年間、東京麻布中学校(現麻布学園)に教鞭をとった。戦後は、一時病に倒れたが再起して、印度、ネパール、台湾等へ旅行し画なうをこやした。その作品は、穏健な写実にもとずく近代的画面を示した。
略年譜
昭和6年 東京美術学校日本画科を卒業。
昭和9年 「冬日」第15回帝展。
昭和11年 「霜晨」新文展(鑑査展)。
豊島区要町に移転。
昭和12年 「断崖」(大毎東日賞)第1回大日美術展。
昭和13年 「海」第2回大日美術展。大日美術院々僚となる。
昭和14年 「海」第3回文展。「緑のかげ」」第3回大日美術展。
昭和16年 「夏野」第4回文展。
昭和17年 「朝和」第5回文展。「麦秋」第5回大日美術展。大日美術院離脱。
昭和18年 「地底敢闘」第6回文展。12月、研究グループ国士会結成。
昭和20年 3月、海軍に召集され、8月解除となる。
昭和22年 「干潟」第3回日展。
昭和23年 「良夜」第4回日展。美術学校同期有志による“六窓会”結成。
昭和24年 「夏山」第5回日展
昭和25年 「馬」(特選)第6回日展。一采社参加。12月国土会解散。「丘」「秋」第1回芝英会(高島屋主催)
昭和26年 「森」第7回日展。
昭和28年 「山」第9回日展(特選、白寿賞、朝倉賞)
昭和29年 「武蔵野風景」(出品依嘱)
昭和30年 「雲」第11回日展。日展審査員。
昭和31年 「雨後」(出品依嘱)第12回日展。
昭和32年 「道」(出品依嘱)第13回日展。
昭和33年 「田園譜」第1回新日展。日展会員。新作個展(兼素洞)
昭和34年 「麓」第2回新日展。審査員。
昭和35年 「牧馬」(文部大臣賞)。第3回新日展。
昭和36年 「礁」第4回新日展。審査員。政府買上。
昭和37年 「嶺」(日本芸術院賞)第5回新日展。日展評議員。
昭和38年 前年度日展出品作「嶺」日本芸術院賞受賞。「群馬」第6回新日展。
昭和39年 2月脳出栓で倒れ一時半身不随となったが、半年後に回復する。
昭和41年 「蒼原」第9回新日展。
昭和42年 「皎」第10回新日展。12月印度、ネパールへ写生旅行。
昭和43年 「塔」第11回新日展。日展審査員。個展(三越)。12月ネパール、印度、タイ、カンボジヤへ旅行。
昭和44年 「シェルパの歌」改組第1回日展。日展理事。
昭和45年 「水を運ぶ娘(ネパール)」改組第2回日展。日展審査員。印度、ネパール方面に写生旅行。
昭和46年 「尼蓮禅河」改組第3回日展。2月台湾旅行。
昭和47年 「遠いヒマラヤ」改組第4回日展。
昭和48年 「宙」改組第5回日展。役員改選により理事就任。新作個展(銀座弥生画廊)
昭和51年 「靜かな朝」改組第8回日展。12月虎の門病院入院。
昭和52年 「麓」改組第9回日展。3月退院。「山の辺」(緑映会)絶筆。7月逝去。

出 典:『日本美術年鑑』昭和53年版(266頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「山田申吾」『日本美術年鑑』昭和53年版(266頁)
例)「山田申吾 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9608.html(閲覧日 2024-04-20)

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