小林巣居人

没年月日:1978/09/25
分野:, (日)

 日本画家小林巣居人は、9月25日肝臓ガンのため茨城県新治郡の筑波大学付属病院で死去した。享年81。本名善。明治30年3月29日茨城県稲敷郡に生まれ、農業補修学校に学んだ。その後画家を志し、小川芋銭に学んだ。大正7年春、芋銭の紹介により平福百穂に師事した。昭和3年日本美術院試作展に「遅稲田」が初入選し、同年秋の日本美術院展に「竹林」が初入選した。昭和6年院友となったが、在籍8年にして昭和12年9月同志と新興日本美術院を結成し、その創立会員となった。同展は第二次大戦により中絶するが、昭和25年社団法人新興美術院を再興し、翌年6月第1回再興新興美術院展を開催した。以後同展並びに個展をもって制作活動をつづけた。代表作に「遊魚」(昭9)「岩」(昭15)「土機光象画巻」(昭18)「山なし画巻」(昭16)「よだかの星」(二曲一双)(昭12)「新色樹葉」(二曲一双)(昭13)等があり、新しい日本画創造のため力を傾け、近代日本画のアウトサイダーとして活躍した。なお昭和23年には武蔵野美術大学(旧帝国美術学校)教授となり、後進の育成にもつとめた。
略年譜
明治30年(1897) 3月29日、茨城県稲敷郡、農業小林菊次郎、なをの第五子三男として生まれた。本名善。
明治36年(1903) 長戸尋常小学校。(現竜ヶ崎市立長門小学校)に入学。
明治44年(1911) 長戸農業補修学校修了。
大正6年(1917) 画家を志し、牛久城中に住む小川芋銭を訪ね、持参のスケッチを見てもらう。芋銭は、この年の春に日本美術院の同人となっていたが、弟子はとらず、上京を勧める。
大正7年(1918) 春、上京し、芋銭の紹介で、芋銭と同じ珊瑚会の同人平福百穂に師事する。のち書生として住込む。
大正8年(1919) 8月、世田谷三宿に、百穂の画塾白田舎が新築され、そこに移る。この頃、百穂より巣居の号を、芋銭より枝上人の号をもらう。
大正10年(1921) 2回中央美術展(竹の台陳列館)に「初秋の朝」(中央美術賞)「唐黍」初入選。
大正11年(1922) 平和記念東京博覧会「仔兎」。3回中央美術展(三越)「白鷺」。
大正12年(1923) 1回茨城美術展「兎」
大正13年(1924) この年、白田舎を出て、世田谷区玉川瀬田の農家の離れを借り、自炊生活に入る。
大正14年(1925) 3月10日、同門の白田舎熟成満村観音子と結婚、府下荏原郡駒沢に居を構える。2回茨城美術展「樫の新芽」(県賞)。
大正15年(1926) 長男玄一生まれる。
昭和2年(1927) 3回茨城美術展「粟」(県賞)。次男登生まれる。
昭和3年(1928) 13回日本美術院試作展「遅稲田」初入選。15回日本美術院展「竹林」初入選。11月24日、長男玄一死去。
昭和4年(1929) 4回茨城美術展に「もろこし」(県賞)。10月、帝国美術学校(現武蔵野美術大学)開校し、日本画科長の百穂を援け、助手として勤める。学校勤務の関係から、住居を豊多摩郡に移す。
昭和5年(1930) 2回聖徳太子奉賛美術展「森の朝」。8月、長女なつみ出生。17回院展「唐黍」「谿間早春」。
昭和6年(1931) 5回茨城美術展「宿鴉」(県賞、無鑑査推薦)。18回院展「渚」院友推薦となる。
昭和7年(1932) 三男恒吉生まれる。19回院展「麥の丘」。
昭和8年(1933) 6回美術展「游魚」(無鑑査出品)。20回院展「入日」10月30日、師平福百穂没す。
昭和9年(1934) 18回院試作展「雪の林」。21回院展「游魚図」。
昭和10年(1935) 茨城会館会館記念茨城美術展「牛」(無鑑査出品)。この年、春から夏にかけ、千葉県銚子の海鹿島にある、篠目家の別荘潮光庵に住む小川芋銭と起居を共にし、芋銭の制作の手伝いをする。
昭和11年(1936) 7月、母なを死去。23回院展「こぶし」。
昭和12年(1937) 院展院友展(松坂屋)「鴨」。9月17日、茨木衫風、保尊良朔、吉田澄舟、田中案山子内田青薫、小林三季、鬼原素俊、芝垣興生、森山春笑、鈴木三朝、菊池公明、そして巣居の日本美術院院友12名は、同院を脱退し、『自由拘束なき新興清新なる芸術を揚達する』目的を以て、新興美術院を結成する。
昭和13年(1938) 1回新興美術院展「苗木の春」「朝霧」「夕霞」。12月17日、小川芋銭没。この年、秋、府下北多摩郡武蔵野町吉祥寺に家とアトリエを新築する。
昭和14年(1939) 2回新興展「青嵐」、新興同人小品展「柿」「秋菜」。
昭和15年(1940) 3回新興展「岩」、新興院同人小品展「川鳥」。
昭和16年(1941) 2月、新興美術院の井ノ頭研究所成り、研究部員となる。4回新興展「やまなし」(宮沢賢治の童話に取材)、岩三部作「暖(春)」「霧(夏)」「雪(冬)」。6月、新興大阪展終了後、芋銭の理解者であり、姻戚にあたる兵庫県丹波の西山邸を訪ね、暫時滞在し、芋銭作品を研究する。
昭和17年(1942) 5回新興展「潮光国土(其一、其二、其三、其四)」「火(高熱炎)」「水(溪水底)」
昭和18年(1943) 6回新興展に「土機光象巻(上下)」茨木衫風、田山案山子とともに新興美術院を脱退宣言する。しかし、会の運営そのものも、戦時下の混乱のもとで、翌7回展をもって中断する。
昭和19年(1944) 9月、銚子海鹿島潮光庵で独居生活に入る。
昭和21年(1946) 栃木県那須郡馬頭に住む金子正一郎方で終戦を迎える。この年夏、茨城県新治郡高浜町に移住する。
昭和23年(1948) 武蔵野美術大学(元帝国美術学校)の教授に就任する。
昭和24年(1949) 3月~10月、再度、海鹿島潮光庵にて独居生活をする。
昭和25年(1950) 10月、茨木、田中、鬼原、芝垣、保尊と巣居人(戦後、巣居から改める。)の旧新興美術院同人六人(三季は日本美術院に復帰し、森山、内田、吉田は既に他界)に、横田仙草、岡田魚降森が加わり、新興美術院を再興する。
昭和26年(1951) 1回再興新興美術院「よだかの星(宮沢賢治文より)」、秋季展「岩上雲」。この年、武蔵野美術大学教授を依願退職する。
昭和27年(1952) 2回再興新興展「新色樹葉(一)」「新色樹葉(二)」「新色樹葉(三)」、再興新興秋季小品展「鬼蓮」。7回茨城県展の審査員となる。以後、審査委員、運営委員を歴任、出品を続ける。
昭和28年81953) 3回再興新興展「海」。秋季新興展「残雪
昭和29年(1954) 4回再興新興展「水辺(画巻)」。秋季新興展「小径」。
昭和30年(1955) 5回再興新興展「夜の樹」「落葉」。秋季新興展「初夏」「流陰」。12月、新興美術院が社団法人となり、常任理事に就任する。
昭和31年(1956) 6回再興新興展「海辺浅春」「海辺晩春」。12月、世田谷区玉川瀬田町434に移る。
昭和32年(1957) 7回再興新興展「溪氷」。
昭和33年(1958) 1月、1回小林巣居人日本画展(日本橋三越、以下三越個展と略す)「水郷の雪」「雪解ける」「早春の山」ほか。8回新興展「海鵜」。
昭和34年(1959) 10回秀作美術展「海鵜」(招待出品)。2回三越個展「浅春」「雪後」「樫若葉」ほか。美術家会館建設展(日本橋高島屋)「游魚」。9回新興展「径」秋季新興展「柳」
昭和35年(1960) 3回三越個展「水郷十題」。水郷高浜を描いた「春の雨」「杜」「二本の木」「朝」「夕」ほか。10回新興展「水辺夏」「水辺冬」。15回記念茨木美術展覧会「秋の水」(審査員出品)。
昭和36年(1961) 11回新興展「寒さえる」。4回三越個展「白鷺」「三日月」「水辺」ほか。10回五都展「鵜」。
昭和37年(1962) 12回新興展「湖」。5回三越個展、水郷の四季の推移を描いた12作「浅春」「冬の水」「水路」「雨止む」「水葵」ほか。
昭和38年(1963) 7回二本国際美術展「雲」13回新興展「水郷六月」6回三越個展水郷の水をテーマとした、「朝」「夕」「明るい夜」ほか。
昭和39年(1964) 6回現代日本美術展「三月の雲」14回新興展に「水辺の木」7回三越個展に「秋立つ」「冬」「月冱」ほか。
昭和40年(1965) 15回新興展「冬の干拓」8回三越個展「静かな日」「風の日」「しぐれる日」ほか。11月9日~18日、20回茨城県美術展に審査員として「晩夏」を出品、20回を記念し、功労者の一人として感謝状をうける。
昭和41年(1966) 16回新興展「風なぐ夕」秋季新興展(銀座ヤマト画廊)「冬の日」1回茨城県芸術祭美術展覧会「冬田」
昭和42年(1967) 17回新興展「水辺夕」「水辺暁」(文部省買上)9回三越個展「水辺画巻」「うす日」ほか出品。秋季新興展(銀座画廊)「みづうみ」
昭和43年(1968) 18回新興展「水辺の若草」秋季新興展(二本美術協会)「ゆき」
昭和44年(1969) 1回茨城新興展「水辺画巻」19回新興展「水辺の雨」秋季新興展「潮だまり」10回三越個展「水辺」「雲かげ」「雪後」ほか出品。
昭和45年(1970) 20回新興展「春泥(1)」「春泥(2)」10月25日~31日、秋季新興展に「秋出水」を出品する。
昭和46年(1971) 21回新興展「氷とける」「雲流れる」9月、茨城県の美術新興に尽した功績により、第8回いばらぎ賞(茨城新聞社)受賞。10月11日~17日、秋季新興展に「明るい夜」を出品する。
昭和47年(1972) 22回新興展「雨ふる」(東京都美術館買上)12月1日~7日、秋季新興展(上野の森美術館)に「風にとぶカラス」を出品する。
昭和48年(1973) 23回新興展「きりはれる」秋季新興展「みぞれ」
昭和49年(1974) 24回新興展「樫若葉」秋季新興展「アシと雲」
昭和50年(1975) 25回新興展「明るい夜と潮だまり」秋季新興展「なぐ」12月、石岡市高浜町795に転居。
昭和51年(1976) 26回新興展「水辺揺」秋季新興展「春雪」
昭和53年(1978) 28回新興展「水辺晨月」この作品は病のため完成にいたらず、空の部分は三男恒吉(新興美術院常任理事)が仕上げて出品。9月25日、肝臓ガンのため、入院加療中の筑波大学病院にて死去、同日付で、芸術文化に対する功績により勲四等瑞宝章を受ける。
昭和54年(1979) 29回新興展「みぞれ」(昭和48年秋季新興展出品)が遺作出品される。
昭和55年(1980) 9月、小林巣居人遺作展が茨城県立美術博物館にて開催され、作品64点、資料として、遺品、スケッチブック等が展観される。
(本年譜は茨城県立博物館開催「小林巣居人遺作展」図録収載の年譜を再録させて頂いた。)

出 典:『日本美術年鑑』昭和54年版(318-321頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
『日本美術年鑑』に収録されている以下の記事にも「小林巣居人」が含まれます。
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