山口文象

没年月日:1978/05/19
分野:, (建)

RIA建築綜合研究所相談役の建築家、山口文象は、5月19日午後3時15分、東京・大田区の指田直行宅で歓談中に心不全のために急逝した。享年76。山口文象は、本名を瀧蔵、明治35年(1902)1月10日、東京都浅草田町に生れた。父山口勝平は清水組大工棟梁であった。大正4年東京高等工芸学校附属職工徒弟学校木工科に入学し、大正7年卒業、清水組に入る。大正8年名古屋百五銀行現場雇員となり清水組を退職、この頃中条精一郎の訪ね指導をうけた。大正9年逓信省経理局営繕課製図工となり、岩本祿に兄事した。大正10年頃から茶室建築の実測撮影を行い、翌年洋画家の岡田三郎助にデッサンの指導をうけ、このとき猪熊弦一郎らと知りあった。大正12年分離派建築会会員となり、創年社建築会結成創年社第1回展に劇場試作を発表し、本格的な建築活動を開始した。大正13年内務省帝都復興局橋梁課嘱託技師となり大震災後の東京復興にたづさわり、清洲橋、浜離宮正門橋、数寄屋橋、八重洲橋、日本電力庄川ダムなどの建設に関係し、同年分離派第4会展に参加、以後昭和2年第6回展まで参加出品した。大正14年には東大で伊東忠太の講義を聴講し、翌年竹中工務店設計技師となり、また同年、前衛芸術のグループ単位三科の結成に参加した。昭和2年名本喜久治建築事務所主任技師となり、山叶商会、菊池邸などを設計、またこの頃から「新建築における唯物史観」「合理主義反省の要望」など文筆活動を行った。昭和5年(1930)末シベリヤ経由でヨーロッパへ渡り、同7年まで滞在、その間、ベルリンでグロピウスのアトリエのメンバーとなりベルリン工科大学で学び、フランス、イタリア、イギリスなどを歴訪した。帰国後は藤川勇造、アトリエ、仲田菊代アトリエ、小泉八雲記念館、林扶美子邸などを設計、昭和9年山口蚊象建築事務所を設立した。その後、戦前には安井曾太郎アトリエ、青雲荘アパート、荏原製作所病院及び羽田工場、黒部川第2発電所ダム、築地小劇場改装などを設計した。戦後の作品としては、昭和25年久ヶ原教会、明大大学院校舎計画、同28年大日本製糖堺工場、同29年神奈川大学綜合計画、同30年神大3号館、同31年緑成会整育園病院、近鉄建売住宅、同32年日本インターナショナル整流工場、同33年原町市民体育館、同35年美術家会館、同39年新宿副都心計画、同42年新大阪センイシティ、同47年町田市郷土資料館、同50年平安教会、同52年渋川市民会館などがある。また昭和25年には新制作協会建築部会員となり、同28年RIA建築綜合研究所を設立、同35年には前年の作品、朝鮮大学で建築年鑑賞の受賞、同44年には神奈川県建築コンクール賞、大阪府建築コンクール賞をうけた。昭和52年には株式会社RIA建築綜合研究所取締役相談役に就任、同53年5月19日午後3時15分、心筋硬塞のため急逝した。5月21日久ヶ原教会で告別式、6月1日青山葬儀所において葬儀がとりおこなわれた。

出 典:『日本美術年鑑』昭和54年版(314頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「山口文象」『日本美術年鑑』昭和54年版(314頁)
例)「山口文象 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9550.html(閲覧日 2024-03-29)

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