内藤春治

没年月日:1979/05/23
分野:, (鋳金)

東京芸術大学名誉教授の鋳金家内藤春治は、5月23日心不全のため東京都北区の自宅で死去した。享年84。1895(明28)年4月1日、岩手県盛岡市に生まれる。1910年釜師有坂安太郎に入門、16年南部鋳金研究所に入って松橋宗明に学んだのち、19年に上京し香取秀真に師事する。この間、20年東京美術学校に入学、25年鋳造科を卒業、研究科へ進み、28年終了後同校の助手となる。26年、高村周豊らと「旡型」を結成し、津田信夫らの昭和初期における新工芸運動に参加する。27年、第8回帝展に美術工芸部が新設され「壁画への時計」を出品し入選、29年第10回帝展出品作「花挿のある照明装置」で特選を受け翌年から無鑑査となる。35年、旡型同人を中心に実在工芸美術会を結成、翌年文展鑑査展に招待出品し、以後新文展、日展に出品を続ける。44年東京美術学校教授、(49年東京芸術大学教授)となる。戦後も日展に出品し、52年日展参事、58年日展評議員、60年日展参与となる。また、全日本工芸美術協会、日本鋳金家協会などの団体に所属した。55年、昭和29年度日本芸術院賞を受ける。62年度東京芸術大学を退官し名誉教授となり、同年5月完成した皇居新二重橋の照明飾台、橋ゲタなどの装飾デザインを担当する。また、正倉院御物の鏡の研究と仏像修理でも知られ、奈良薬師寺の薬師三尊、鎌倉大仏の修理委員などを歴任する。日展出品作の他に、伊勢神宮御神宝の鏡、東京千鳥ヶ淵の戦没者墓苑に安置されている恩賜の骨壺などの製作がある。
年譜
1895 4月1日、現在の岩手県盛岡市愛宕町20(当時岩手郡米内村三ツ割五番戸)において、内藤運吉・サトの二男として出生。
1902 4月、盛岡仁王小学校に入学。小学校時代は学校が終わると神社の祠に鞄をかくしておいて、野山を駆け廻るわんぱくであった。
1906 3月、盛岡仁王小学校を卒業
4月、盛岡市立高等小学校に入学
1910 3月、盛岡市立高等小学校卒業
この頃、向学心旺盛となり講義録を懐中にしていることが多かった。釜師・有坂安太郎に南部鋳金技術の手ほどきを受ける。
1914 4月、盛岡市立商業学校入学
1916 3月、盛岡市立商業学校2年終了
南部鋳金研究所入所、松橋宗明に師事
南部鋳金研究所において、来訪の香取秀真をはじめ、美校関係者を知る。
1919 4月、南部鋳金研究所退所
上京、香取秀真に内弟子として師事
9月、東京市立工芸学校夜間部に入学
1920 9月、東京市立工芸学校夜間部2年中退
9月、東京美術学校鋳造選科入学
1922 大矢春と結婚
1923 農商務省展(第10回)に出品、2等賞となる3月、長男淳一郎誕生
1924 農商務省展(第11回)に出品、3等賞を受け同省買上げとなる。
9月、長女・澄子誕生。
1925 3月、東京美術学校鋳造科卒業、引き続いて研究科に在籍する。香取家を出て本郷区駒込神明町20に住む。
松崎福三郎、三島億三郎、今井千尋ら同僚学生とともに工芸団体「方壺会」を結成。商工省・農商務省展改称(第12回)に出品、三等賞を受け、宮内省買上げとなる。パリ万国装飾美術博覧会に出品、銅牌を受領する。
1926 6月、工芸団体「旡型」結成に同人として参加
11月、二男・恒道誕生。商工省展(第13回)に花瓶を出品
1927 帝展第四部(工芸)設置
壁面への時計(帝展8回)
1928 4月、東京美術学校助手となる工芸化学教室勤務
「方壺会」を「凸凹」と改称する
あかりのある噴水塔(帝展9回)
1929 7月、東北帝国大学金属材料研究所に研究のため出張
花挿のある照明装置(帝展10回)特選
1930 富山県高岡に研究のため出張、帝展無鑑査。
照明装置(帝展11回)
1931 6月、鋳造科兼務となる
球を持つ噴水(帝展12回)
1932 6月、東京美術学校講師となる、鋳造科鋳造実習授業担当
7月、東北大学金属材料研究所に研究のため出張この年「凸凹」解散
1933 3月、東京美術学校助教授となる 鋳金実習授業担当
4月、「旡型」解散
6月、工芸化学教室勤務
7月、東北大学金属材料研究所に研究のため出張
鋳銅方形花挿(帝展14回)
1934 7月、東北大学金属材料研究所に研究のため出張
この頃北区田端114に製作アトリエを持つ
喫煙具(帝展15回)文鎮“梅”
1935 3月、一家北区田端114に移る
6月1日、「凸凹」のメンバー「聚工会」を結成客員となる
7月、学術研究のため東北大学へ出張
10月、「実在工芸美術会」結成に参加
1936 青銅花瓶(文展鑑査展)
電気スタンド(実在工芸展)
1939 7月・8月、学徒勤労報国団引卒教官として美校学生と共に満州愛渾地方に行く
鋳銅金魚花挿(文展3回)無鑑査
金魚花瓶(実在工芸展4回)
1940 実在工芸美術会、美術会統制の中に活動中止
暁鶏置物(紀元二千六百年奉祝美術展)
1941 文展審査員となる。
翼のある花瓶(文展4回)
1942 静かなる緊張(文展5回)無鑑査
1943 花瓶(文展6回)
1944 6月、東京美術学校教授となる。
守護神陸海空(戦時特別展)
1945 5月、妻はる死亡
5月、空襲により被災家屋全焼、親戚に仮寓
秋、美術学校倶楽部2階に子女と共に仮住まいする
1946 日本学術振興会第98委員会委員となる
11月、鈴木つゆ子と結婚
狐置物(日美展2回)長女・澄子結婚
1947 日美展審査員となる
鼠香炉(日美展3回)
1948 兵庫県・隆国寺梵鐘
1949 6月、東京芸術大学美術学部教授となる
烏伏香炉(日美展5回)依嘱
1950 鋳銅水瓶(日美展6回)依嘱
正倉院金工品の調査(昭和27年まで)
1951 東京都美術館参与となる(昭和36年まで)
日美展審査員となる
鳬(花瓶)(日美展7回)
1952 北区に移る
花器(日美展8回)参与 長男・淳一郎結婚
日美展参与となる。この年から昭和29年まで伊勢神宮御神宝鏡制作
1953 二男・恒道結婚
1954 日美展審査員、伊勢神宮御神宝鏡、東京亀有・見性寺梵鐘、兵庫県・長楽寺梵鐘
青銅花瓶(日美展10回)
1955 芸術院賞受賞(対象作品・昭和29年日美展「青銅花瓶」)
薬師寺・国宝薬師三尊修理委員会委員となる(昭和32年まで)
青銅花瓶(日美展11回)
1956 工業技術院名古屋工業技術試験所顧問となる(昭和36年まで)
鋳金家協会副会長となる(昭和46年まで)
青銅、鳥(日美展12回)
1957 日美展審査員となる
青銅、花挿(日美展13回)
1958 日展評議員となる。鳥花器(日展1回)
1959 美術工芸(特に金銅仏)調査研究のため、ビルマ・タイ・フィリピンに出張
国宝鎌倉大仏修理委員会委員となる
千鳥ヶ渕無名戦士墓范御下賜納骨壺
室内装飾、鴉(日展2回)
1960 日展審査員となる
群塊(ホールへの花挿)(日展3回)
1961 花挿、魚(日展4回)
1962 3月、東京芸術大学を停年により退職する
10月、東京芸術大学名誉教授となる
皇居二重橋の主桁飾り高櫚その他の意匠設計及び原型
青銅花瓶(日展5回)
1963 方形花器(日展6回)
1964 魚花挿(日展7回)
1965 西洋美術研究のため、エジプト及びイタリア・ギリシャなど欧州諸国を視察
若獅子の塔原型
1966 チンパンジー(日展9回)
1967 日展審査員となる。赤とんぼ(日展10回)
1968 臥牛(日展11回)
1969 11月、勲三等瑞宝章を授ける
改組日展参与となる
1970 虎(改組日展2回)
1976 7月、くも膜下出血の疑いで入院、9月、退院
10月、妻・つゆ子死去。虎(未完成)
1979 5月23日、心不全のため自室で死去
正五位に叙せられる
東京亀有・見性寺鐘楼前の墓に葬る
戒名・宝鏡院春覚龍雲大居士
6月15日、従四位に叙せられる
〔本年譜は「内藤春治作品展」(1981年、東京芸術大学芸術資料館)図録所載の年譜を転載したものである。〕

出 典:『日本美術年鑑』昭和55年版(279-281頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「内藤春治」『日本美術年鑑』昭和55年版(279-281頁)
例)「内藤春治 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9528.html(閲覧日 2024-04-19)

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