川島理一郎

没年月日:1971/10/06
分野:, (洋)

 日本芸術院会員、日展顧問、新世紀美術協会名誉会員の洋画家、川島理一郎は、10月6日午前6時10分、脳出血のため、東京・品川区の昭和医大病院で死去した。享年85才。川島理一郎は栃木県足利市の機屋の家に生まれ、19才のとき渡米、ついでフランスに渡り、藤田嗣治らとフォーヴィスム、キュービスム以後の美術運動の渦中で学び、同地で第一次大戦を経験して帰国、その後も数回にわたり渡欧、作風は初期にはキュービスムの影響をうけたが、フォーヴィスムを基調として幾度か変転した展開をみせた。一時期は、蘭を好んで題材し、戦後には抽象的傾向となった。随筆をよくし『緑の時代』『旅人の眼』『美術の都パリ』などの著書がある。
略年譜
明治19年(1886) 3月9日、足利市に生まれる。
明治23年(1890) 祖父母と東京に居住する。
明治38年(1905) アメリカへ渡り、ワシントン、コーコラン美術学校に学ぶ。
明治39年(1906) ニューヨークのナショナル・アカデミー・オブ・デザインに特待生として学び、褒状をえる。
明治44年(1911) フランスへわたる。パリのアカデミー・ジュリアン、ついでアカデミー・コラロッシュに学ぶ。
大正元年(1912) サロン・ドートンヌに入選する。フォーヴィスム、キュービスムなどの新運動の刺戟をうけ、ピカソ、レジェ、ザッキン、藤田嗣治などと交友、原始洞窟絵画、古代エジプト、ギリシャ、ローマの遺跡をたずねる。
大正4年(1915) 第一次大戦下、藤田、ザッキンらと赤十字に参加したが、病をえてスペインのマラガに静養する。
大正8年(1919) アフリカ、モロッコを旅行、アメリカを経由して帰国。個展を開催。
大正9年(1920) 再渡仏し、コルシカ島へ旅行、サロン・ドートンヌに入選。2年間滞在する。
大正11年(1922) 滞欧作200点をたずさえて帰国したが、関東大震災のため焼失。
大正13年(1924) 三度目渡欧、フランス、イタリア、スペインを旅行。
大正15年(1926) 梅原龍三郎とともに国画創作協会第二部(のち、国画会)を創設。
昭和4年(1929) 4回国展に「森の朝」「ニースの祭日」「魚」他、パステル、デッサンを出品。
昭和6年(1931) 6回国展に「裸婦スパニッシュ」(1~3)、「ニースの家」「ニースの海浜」「窓・エトルタ」「ルクサンブルグの朝」(1~2)他1点を出品。
昭和7年(1932) 「池上早春」「ボスケ、デュロナード」他2点を国展に出品。
昭和8年(1933) 「相思樹」「台湾歌妓」(1~5)を国展に発表。
昭和9年(1934) 「巨木」「林間」「巨人踊の夕」(国展)
昭和10年(1935) 「花」「森」(国展)、この年国画会を脱会する。
昭和11年(1936) 女子美術学校の教授となる。
昭和12年(1937) 文展審査員を依嘱される。
昭和13年(1938) 陸軍嘱託となり従軍画家として北支に派遣される。2回文展に「九竜壁(北京)」を出品、文展審査員。
昭和14年(1939) 再度北支へ派遣される。
昭和16年(1941) 泰・仏印(タイ国、ヴェトナム)派遣される。
昭和17年(1942) 泰国首相へ贈呈画使節として派遣される。
昭和18年(1943) 8回文展に「南方の蘭花」を出品。陸軍省より記録画製作のためフィリッピンへ派遣される。
昭和23年(1948) 日本芸術院会員に推挙される。
昭和24年(1949) 5回日展「多摩川」
昭和26年(1951) 7回日展「香港」
昭和30年(1955) 新世紀美術協会の創立に参加し、名誉会員となる。「巴里現代美術館の浮彫」(11回日展)
昭和31年(1956) 「中禅寺湖」(12回日展)、「らん花」(1回新世紀展)
昭和34年(1959) 「蘭花」「巴里」「蘭花」「ポン・ヌフ」「嵐山にて」「窓」「マチスのアトリエ」(4回新世紀展特別陳列)、「鎌倉山風景」(2回日展)
昭和36年(1961) 「鎌倉山」(日展)、「牡丹」(6回新世紀展)
昭和39年(1964) 「浮世絵の誘惑」(7回日展)
昭和41年(1966) 「雨と風の詩」(9回日展)、「太陽にうたう」(11回新世紀展)
昭和44年(1969) 「浮世絵の誘惑(その二)」(改組1回日展)、「ルナ幻想」(14回新世紀展)

出 典:『日本美術年鑑』昭和47年版(89頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
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