中川紀元

没年月日:1972/02/09
分野:, (洋)

 二紀会名誉会員の洋画家中川紀元は、心筋こうそくのため、2月9日午前10時、東京田無市の田無病院で死去した。享年79才であった。中川紀元は、明治25年(1892)2月11日、長野県上伊那郡に漢学塾を開いていた有賀家の次男に生まれ(結婚して中川の姓となる)、本名を紀元次。諏訪中学校を卒業して東京美術学校彫刻科に入学したが、病のため2ヶ月で中退し、帰郷して小学校教師となった。再度上京して大正2~3年(1913~4)ころには代々木山谷に住む。本郷洋画研究所、太平洋画研究所などに学び、また島村抱月の芸術座の舞台装置に小林徳三郎の手伝いなどをしている。特に石井柏亭正宗得三郎に師事し、大正4年(1915)第2回二科展に出品して初入選となり、大正8年(1919)渡欧しアンリ・マティスの指導を受け、同10年(1921)帰国したが、その間にも二科展に出品し、大正9年第7回展で「ロダンの家」他4点を出品、樗牛賞をうけ、大正10年8回展では「立てる女」他7点を出品、二科賞を受賞した。この滞欧の成果は日本における第二次フォーヴィスムの移植として歴史的な意味をもったが、大正11年(1922)には神原泰矢部友衛、古賀春江らと二科会内での前衛的なメンバーによってグループ・アクションを結成し、新しい美術運動を推進した。大正12年(1923)には二科会会員に推挙された。昭和8年(1933)二科会員を辞して無所属となったが昭和10年、再度二科会に復帰した。昭和13年には従軍画家として中国の戦線におもむいており、また大正11年からは文化学院美術科で実技指導にもあたった。戦後、昭和22年(1947)旧二科会の有志とともに二紀会を結成し、作風はしだいに油彩による野趣にとんだ南画的なものとなっていった。昭和39年(1964)、長い期間にわたる美術界への貢献によって日本芸術院恩賜賞を受賞した。
作品年譜(旧二科会展、二紀展出品作)
二科会展:大正5年(1916)3回展「青五氏の肖像」、同6年4回展「煙草を吸う女」、同7年5回展「自画像」「女」、同9年7回展「ロダンの家」「読書の女」「人形を抱く女」「女の顔」「坐像」、同10年8回展「水彩エチュード1」「水彩エチュード2」「デッサン1」「デッサン2」「散歩」「立てる女」「アラベスク」「猫と女」、同11年9回展「腰かけた女」「裸婦」「化粧」、同12年10回展「野菜(水彩)」「入浴」「裸体(水彩)」、同14年12回展「花」「裸女佇立」「J氏像」、同15年13回展「母子」「ラヂオを聴く」、昭和2年14年回展「ヨネ野口氏肖像」「O氏像」「採蓮」、同3年15回展「夏庭」「花」「映画撮影」「S氏像」、同4年16回展「空中の感情と物理」「K夫人の顔」、同5年17回展 「毛扇」「緑衣」「川田芳子像」、同6年18回展「熱叢」、同7年19回展「野と子供」、同8年20回展「清水先生の像」、同10年22回展「無題」、同11年23回展「青い団扇」「驟雨来」「静物」「少女」、同12年24回展「白衣少年」「徒然」「猫静物」「月夜の山」、同13年25回展「子供と猫」、同14年26回展「人物」「風景」、同15年27回展「こども」「御嶽晴天」「青嵐」、同16年28回展「菩薩像(一)」「菩薩像(二)」
二紀展:昭和22年(1947)第1回展「村の風景」「夏の朝の伊那の谷」「夏の駒ヶ岳」、同23年2回展「夏の山」「静物」「初秋の谷」、同24年3回展「静物」「コンポジション」、同25年4回展「村の秋」「伊那の谷」、同26年5回展「青い風景」「黄色い風景」、同27年6回展「友の像」、同28年7回展「花の子供ら」「山村風景」「夕陽の山」、同29年8回展「朝の山」「人物」、同33年12回展「郊外風景1」「郊外風景2」、同34年13回展「月と富士のある風景」「人物」、同35年14回展「子供」「赤い富士」、同37年16回展「樹間小景」「白い街」、同38年17回展「人物」「風景」、同39年18回展「風景」「人物」、同41年20回展「子らの窓」、同42年21回展「郊外風景」「隅田川」、同43年22回展「ボサツ傾」「窓辺の消閑」、同44年23回「高原雲煙(霧ヶ峰)」「煙霞レジャーの娘たち」、同45年24回展「山の遊び」、同46年25回展「ホトケ坐像」、同47年26回展遺作「坐せる女」「裸婦」「読書の秋」「栗色の帽子」「キャフェ」「白い衿の婦人」「立てる女」「街」「化粧する女」「隅田川」「中国美人」「ホトケの坐」「窓辺消閑」

出 典:『日本美術年鑑』昭和48年版(60頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
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