石井彌一郎

没年月日:1972/09/01
分野:, (洋)

 太平洋美術会評議委員の石井弥一郎は、9月1日胃ガンのため死去した。享年74歳。明治31年5月6日山形県庄内の郵便局の家に生れた。少年の頃、その村で早くに亡くなった松田修造という洋画家の作品をみて、つよく洋画にひかれ、酒田市の商業学校を卒業すると実業への道を歩まずに、大正5年夢を抱いて上京、まず川端画学校で手ほどきを受け、続いて太平洋画会研究所に移って勉励した。その後、前田寛治の“写実”に共鳴してその研究所に学んだ。10余年に及ぶ長い洋画の基礎勉強にも漸く得心したのだろう、昭和5年の初頭から公募展への実力試しが堰を切るかのように始められた。第5回1930年展(1.17-31)第7回槐樹社展(2.26-3.14)、第2回第一美術協会展(5.18-6.5)に搬入、それぞれ入選して自信を強めた。昭和8年春陽会第12回展から同会に所属、第25回展(昭和21年)まで連続作品を発表した。その間、中川一政に知遇を得、師事した。昭和8年頃から数年、京都・大谷大学美術部に迎えられ講師をつとめ、その京都時代には、関西での有力な公募展に出品した。新興美術協会第3回展出品受賞(昭9・1月)・同第4回展出品大阪毎日新聞社賞・同第5回展(昭11)出品、京都市美術展第1回展出品受賞(昭10・5月、受賞作「黄檗山禅悦堂」は京都市美術館所蔵となる)、春陽会系-樹社展会員出品(昭10・11月、京都朝日会館)などの活躍がみられる。昭和11年にはフランス、イタリアへ美術研究に遊学、その帰朝後の収穫は、京都市社会教育課の後援で「仏伊スケッチ展」を京都大丸にて開催、翌12年には、「滞欧洋画展」(2月11日-19日、大阪・阪急百貨店)、「滞欧洋画小品展」(4月3日-9日、東京銀座・森永)で披露した。戦後は専ら個展発表に意欲をもやし、昭和21年に日本橋白木屋での個展開催以来、46年10月の日本橋丸善での開催に至るまで、なお戦中5回の個展を加えると、実に連年30余回の開催を重ねており、一方昭和25年太平洋画会評議委員に推され、この展覧会での毎年の出品も終始おこたらず、その旺盛な作画努力と発表意欲には特筆に価するところがあった。晩年の作風は、自分が気にいる日本特有の風景や風物を対象に、止むに止まれぬ衝動をぶっつけて、きれい事を回避した生動感みなぎる制作に深まりをみせ、心ある識者に注目されたいた。『石井弥一郎画集』(昭和47年9月30日、三彩社発行)に詳しい。

出 典:『日本美術年鑑』昭和48年版(82頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
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