長谷川昇

没年月日:1973/08/26
分野:, (洋)

日本芸術院会員の洋画家、長谷川昇、8月26日午前11時、心不全のため東京・新宿の社会保険中央総合病院で死去した。享年87歳。長谷川昇は明治19年(1886)5月11日、長谷川直義の長男として福島県会津若松市に生まれ、両親と死別して北海道小樽市の祖父母に養育され、明治36年(1903)札幌中学校を卒業、医師を志望して上京、第一高等学校受験に失敗して、明治38年東京美術学校西洋画科に入学、同43年同校を卒業した。同級に藤田嗣治山脇信徳田辺至などがいた。在学中の明治41年第2回文展に「海辺」が初入選となり、同43年第4回文展に「白粉」入選、褒状を受けた。明治44年(1911)ヨーロッパに行きパリに居住して、イタリア、スペイン、イギリスなどに旅行、セザンヌ、ルノアールの作品にひかれ、ヴァン・ドンゲンらと交友、大正4年(1915)帰国した。小杉放庵の勧誘で日本美術院洋画部同人となり、大正4年再興院展洋画部に「オランヂユ持つ女」「オペラの踊子」を出品した。大正10年(1921)、再度フランスに遊学、スイス、ベルギー、オランダを歴遊して翌大正11年帰国、旧院展洋画部同人を中心とする春陽会の創立に同人として参加した。ヴァン・ドンゲン風の色調をもった裸婦像、人物像を発表、大正14年春陽会第3回展「髪あむ少女」「安息」「裸女」、同15年第4回展「べに」「髪」「つめ」「書見」などを出品、大正15年聖徳太子奉讃展に出品した「母性」は当時の摂政官の買上げとなり、また、同年明治神宮絵画館に「大婚二十五年祝典」を制作した。昭和2年(1927)、第3回外遊、パリの画廊ベルネイム・ジュンヌで日本の題材による紙カンパスに描いた作品で個展を開催、さらに翌年同画廊で滞欧中の作品による個展を開催し、「裸婦」がフランス政府の購入するところとなった。昭和3年帰国、翌4年第7回春陽会展に「裸体」「若き女」「小憩」「レクチュール」「オペラに於けるブルガ嬢」「髪むすぶ女」「ブランシュ・エ・ノアール」「プティ・ラ」などの滞欧作品を出品した。
 昭和6年第9回春陽会展「ロバと少女」「髪」「レヴューの女」「鴨遊ぶ池」「女優恵美子」出品、この年第4回目の外遊。
 昭和7年、帰国。第10回春陽会展に「熱帯梅林」「S嬢」「伊豆風景」出品。
 昭和8年、第11回春陽会展「桃の節句」「オリーヴの樹」「アフガニスタンの女」「ゴードの小村」「ピアニスト」「裸体」「立てるアフガニスタンの女」「パリジェンヌと愛女」「ゴード風景」を出品。
 昭和9年・第12回春陽会展「少女と子猫」「緑蔭」「裸体」「Y夫人」出品。
 昭和10年、第13回春陽会展「モデル」出品。
 昭和13年、春陽会を脱会し、昭和16年の文展に審査員として参加、以後、文展、日展に出品し、昭和18年第6回文展出品作品「おをぎ」が文部省買上げとなった。日展では参事となり、昭和32年(1957)日本芸術院会員に選ばれた。昭和30年の第11回日展に「戸浪に扮する福助」を出品、以後、歌舞伎役者絵の制作に情熱を傾け、昭和38年には連作歌舞伎役者絵101点による個展を日本橋三越で開催、さらに同39年には文楽人形絵を開催した。昭和41年、勲三等旭日中綬章を受章。昭和42年1月、日本経済新聞社主催による回顧展が日本橋三越において開催された。

出 典:『日本美術年鑑』昭和49・50年版(244-245頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「長谷川昇」『日本美術年鑑』昭和49・50年版(244-245頁)
例)「長谷川昇 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9381.html(閲覧日 2024-04-20)

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