有島生馬

没年月日:1974/09/15
分野:, (洋)

 文化功労者、日本芸術院会員、一水会会員の洋画家、有島生馬は、9月15日、老衰のため鎌倉市の額田病院で死去した。享年91歳であった。有島生馬は本名を壬生馬また十月亭の別号がある。小説家としても知られ、兄の武郎、弟の里見弴と共に文芸家兄弟として著名であったが、生馬は、初めイタリア文学研究を志し、絵画勉強に転じて藤島武二に師事、イタリア、フランスに留学し、帰国後は雑誌『白樺』同人として西洋美術の紹介につとめ、特にセザンヌの紹介者として大きな影響を画壇に与え、また、二科会創立に際しても活躍した。その後、官展に移り、一水会創立、日展審査員・理事なども歴任し、また日本ペンクラブ創設されたときには、外国語に堪能であったこともかわれて会長島崎藤村のもとで副会長をつとめている。広い知識と洗練された紳士的態度、活動的な性格から各方面で活躍したと同時に、確かな鑑賞眼と経済的に恵まれていたことから、才能に恵まれながらも不遇な例えば関根正二、長谷川利行などの後進に対して陰に陽に援助し指導した。著書も多く、「有島生馬全集」三巻(改造社)がある。

略年譜
明治15年(1882) 11月26日、横浜市で生まれる。父、有島武は鹿児島の出身で、当時、横浜税関長の職にあった。
明治21年 横浜師範学校附属老松小学校に入学
明治24年 父、武が国債局長となり東京に移転、麹町小学校に転校
明治26年 5月、父退官、鎌倉に転居
明治27年 11月、東京に転居。
明治28年 1月、学習院に転入学し、9月中学科に進す。
明治30年 この頃から文学書に親しみ、徳富蘇峰、徳富蘆花の著作、島崎藤村の詩などを愛読する。学友10人位と『睦友会雑誌』と題する廻覧雑誌をつくる。その時の同人に志賀直哉がいた。
明治33年 3月肋膜炎にかかり、5月鎌倉に転地、さらに父の郷里鹿児島に転地療養する。鹿児島であるカソリックの僧と会いイタリア語に興味をいだく。
明治34年 東京外国語学校伊太利語科に入学する。
明治36年 友人らと妙義山から小諸に旅行し、島崎藤村を訪ねる。
明治37年 東京外国語学校を卒業。卒業試験が終ると直に藤島武二を訪問して入門、藤島家に寄寓する。
明治38年 5月13日、ドイツ船ゲネラル・ローン号に乗船して横浜を出帆しイタリアへむかう。ナポリに上陸し、ローマへでてアカデミー・ド・フランスに入学、カロリュス・デュランの指導をうける。11月、国立ローマ美術学校に移る。
明治39年 イタリア各地を旅行、9月アメリカ留学中の長兄武郎をナポリで迎え、イタリアからドイツ、オランダ、ベルギーを旅行し、パリへ入る。
明治40年 2月イギリスへ旅行、武郎と別れ再びパリへ帰る。グラン・ショミエールに通い、ラファエル・コラン、プリネーなどの指導をうける。この年のサロン・ドートンヌで催されたセザンヌ回顧展をみて感動をうけ、学校での指導に嫌悪を感じ、自分のアトリエで研究、制作することになり、作風も印象派的な明るい色調のものへと変る。
明治41年 アンジャベンについて半年ほど彫刻を学ぶ。
明治42年 1月南フランスに旅行。帝室林野局技師秋山護蔵とイタリア旅行。パリでは藤島武二、湯浅一郎、荻原守衛、高村光太郎山下新太郎斎藤豊作白滝幾之助南薫造、梅原良三郎らと交友する。
明治43年 マルセイユを発して帰国、麹町に住む。4月、雑誌『白樺』創刊され同人として参加し、同誌第1巻第2号、第3号(5月、6月号)に「画家ポール・セザンヌ」を執筆発表する。セザンヌに関するくわしい最初の紹介であった。7月、上野竹之台において白樺社主催有島壬生馬・南薫造二人展が開催され、滞欧作品70点を出陳する。この展覧会は当時の若い画家たちに大きな刺戟を与えた。11月、原田信子と結婚。この年、「ケーベル博士像」を制作。
明治44年 8月。長女暁子生まれる。北海道に旅行し、「宿屋の裏庭」を文展に出品、入選。
明治45年 夏、箱根に赴く。秋、白樺社主催により文展で落選した作品による落選展覧会を赤坂三会堂において開催する。
大正2年 2月、洛陽社より最初の小説集『蝙蝠の如く』を出版する、この時から筆名を、生馬とする。渡仏する島崎藤村を神戸に送り、京阪地方を旅行、夏には甲州に滞在。秋、文展洋画部に二科開設の議を同志と文部省に建言。
大正3年 4月、東京美術学校で「セザンヌの建設」と題して講演。夏、甲州滞在。10月、上野竹之台で第1回二科会展が開かれ、会員として「富士山」「むきみやの肖像」「女の顔」「風景」「鬼」を出品。
大正4年 6月、『獣人』出版。9月、夏目漱石の推薦と鈴木三重吉の勧めで小説「死ぬほど」を『新小説』に発表、『白樺』以外の雑誌に小説を発表した最初のものである。朝鮮、満州、天津、北京を旅行して10月に帰京。第二回二科展「去来の裸婦習作」「今年の裸体習作」出品。
大正5年 5月信子夫人の里方からの提議で離婚問題おこり、10月に落着。6月、第二の短篇小説集『南欧の日』が出版(新潮社)されたが、風俗壤乱のかどで発売禁止となり、部分的に、改変して改版出版、夏、軽井沢に滞在して長兄武郎の肖像制作。第3回二科展「ある詩人の肖像」「切通坂」「朝の山(スケッチ)」を出品。12月4日。父武死去。
大正6年 1月、熱海で「山極医学博士像」を描く。6月、小説「父の死」(新潮)。第4回二科展「蚊帳」「釣」「カナリヤ」「金魚」出品。第三短篇集『暴君へ』(新潮社)出版。
大正7年 1月から多く鎌倉に滞在。第四『短篇集』出版。
大正9年 エミール・ベルナール著、有島訳『回想のセザンヌ』(叢文閣)出版される。
昭和3年 夫人、令嬢を伴いフランスに約1年間滞在する。
昭和10年 松田文相の帝国美術院改組にともない、安井曽太郎山下新太郎石井柏亭らと二科会を脱退し、帝国美術院会員に挙げられる。日本ペンクラブ創設され、副会長に就任する。
昭和11年 12月、前年二科会を脱会した安井、石井らと、硲伊之助小山敬三木下孝則らを加えて一水会を結成する。
昭和12年 6月、帝国芸術院官制制定され、芸術院会員となる。12月、一水会第1回展を開催する。この年、国際ペンクラブ大会出席のため会長島崎藤村とアルゼンチンに旅行。
昭和20年 長野県に疎開。
昭和31年 1月神奈川県立近代美術館において回顧展開催される。3月、ブリヂストン・ギャラリーにおいて回顧展開催される。
昭和33年 社団法人日展創立され常任理事。
昭和39年 夏、ローマの日本文化会館長、呉茂一の招きで渡欧する。文化功労者に選ばれる。
昭和40年 勲三等旭日中綬賞をうける。
昭和49年 9月15日、死去。9月24日、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、一水会、二科会の合同葬として葬儀が行われる(葬儀委員長・小山敬三

出 典:『日本美術年鑑』昭和49・50年版(256-257頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
『日本美術年鑑』に収録されている以下の記事にも「有島生馬」が含まれます。
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