宮本三郎

没年月日:1974/10/13
分野:, (洋)

日本芸術院会員、二紀会理事長の洋画家宮本三郎は、10月13日午前10時26分、腸閉そくのため東京本郷の東大病院で死去した。享年69歳であった。宮本三郎は、明治38年(1905)、石川県に生まれ、川端画学校で藤島武二の指導をうけ、のち安井曾太郎に師事し、二科会展に出品した。太平洋戦争中には陸軍報道班員として従軍し、「セレベスの落下傘部隊の激戦図」、「山下・パーシバル両司令官会見図」などの戦争画に卓抜した描写力を示し、戦後は二科会の役割は終わったとして同会を離れ、同志と二紀会を結成、その中心的存在となって会の運営にあたった。昭和33年には社団法人日本美術家連盟の初代理事長に就任、会館建設に尽力し、美術家の社会的権利の擁護のためにも活躍した。晩年には的確な写実のうえに華麗な色彩をもった舞妓、裸婦の連作を制作して注目された。すぐれた素描力をかわれて新聞小説の挿画でも早くから活躍し、獅子文六作『南の風』(朝日新聞連載)、石川達三作『風そよぐ葦』(毎日新聞連載)などの挿画を担当、広く読者に親しまれた。

年譜
明治38年(1905) 5月23日、石川県能美郡(現小松市)に父宮本市松、母みさの三男として生まれる。村は戸数23戸の小寒村であった。
大正7年 3月能美郡御幸村日末尋常小学校卒業。
学業成績抜群につき校長、担任のすすめがあり中学校を受験する。
4月8日、石川県立小松中学校に入学。
日露戦争中に生まれ、一族中の軍人の影響による軍人志望と、画家志望の二途に迷う。
大正9年 陸軍地方幼年学校を受験したが体格検査で失格する。
4月21日、小松中学校を中退し画家志望のため上京する。
川端画学校洋画部に籍をおく。石膏部を嫌ってはじめから人体部に学ぶ。
在学中藤島武二の指導も受ける。
大正12年 4月光風会展入選。
6月中央美術展入選。1929まで出品。
9月関東大震災のため京都に移る。
関西美術院で黒田重太郎の指導を受ける。
大正13年 友人、橋本徹郎小松均とともに東山美術研究所を設立する。
大正15年 再び上京、川端画学校へ復帰し、前田寛治の指導する湯島写実研究所へも一時通う。
昭和2年 9月第14回二科展入選。1944年第30回二科展の解散まで出品。
昭和3年 3月、遠藤昇の三女文枝と結婚、目黒区に新居をかまえる。
昭和4年 3月4日 長女美音子出生。
7月、父市松死去。
雑誌「実業之日本」「日本少年」等にカット、表紙デザインの仕事をはじめる。
昭和5年 母みさ死去
昭和6年 第3回鉦人社展より参加、1936年第8回新美術家協会展(鉦人社改称)まで出品。
昭和7年 第19回二科展で二科会会友に推挙される。
昭和9年 秋、銀座画廊で素描油絵による初の個展をひらく。
朝日新聞紙上で菊池寛の小説「三家庭」の挿画を担当する。
昭和10年 7月、現在地世田谷区にアトリエを新築移転する。
第22回二科展で推薦賞を受ける。
新聞、雑誌の仕事がふえ多忙になる。
昭和11年 第23回二科展で二科会会員に推挙される。
新美術家協会会員を辞す。
日本美術学校、洋画部講師となる。
昭和12年 友人、栗原信田村孝之介の三人で朱玄会を結成、第1回を日本橋三越本店でひらく。第5回朱玄会展まで参加する。
昭和13年 過労のため健康を害す。
仕事から離れる目的もあって10月に渡仏し、パリでアカデミー・ランソンに籍をおく。
昭和14年 1月より3月まで。ルーヴル美術館で模写をする。
4月にイタリア、6月にスペイン、8月にはロンドンをおとずれる。
9月、第二次ヨーロッパ大戦が始まる。
10月、避難船鹿島丸に乗船し英国、米国経由で12月に帰国する。
昭和15年 9月、軍の命令で北支方面に従軍し3カ月滞在する。
昭和16年 第2回聖戦美術展に献納画「南苑攻撃」を出品。
昭和17年 4月、軍の命令で南方戦線に従軍し、陸軍より「香港ニコルソン附近の激戦、海軍よりセレベスの落下傘部隊の激戦図」を命ぜられていた。
しかし、シンガポールに待機中同方面軍司令部から、「山下・パーシバル両司令官会見図」の制作を新たに命ぜられた。
10月、「香港ニコルソン附近の激戦」と「山下・パーシバル両司令官会見図」完成、第1回大東亜戦争美術展に出品。
昭和18年 朝日新聞社より「大本営御親臨の大元帥陛下」の献上画を依嘱され、諸将軍の取材、宮中「一の間」の写生に没頭する。
5月に前年発表の「山下・パーシバル両司令官会見図」に対して昭和17年度第2回帝国芸術院賞を授与される。
7月、陸軍よりフィリピン方面に従軍を命ぜられる。
また前年海軍より命ぜられた「海軍落下傘部隊メナド奇襲」制作のためセレベス方面に従軍。
第2回大東亜戦争美術展に「大本営御親臨の大元帥陛下」および「海軍落下傘部隊メナド奇襲」を発表。
昭和19年 「海軍落下傘部隊メナド奇襲」に昭和18年度第15回朝日文化賞を授与される。
8月、郷里小松市の疎開。
盛厚王殿下と成子内親王殿下との御結婚を記念し、砲兵学校から献上の盛厚王殿下の御肖像を制作。
12月、戦時特別文展に「シンガポール英軍降服使節」出品。
昭和20年 聖戦美術展に献納画「レイテ沖海戦」を出品。8月、「大東亜会議図」未完成のうちに終戦となる
昭和21年 金沢市に市立美術工芸専門学校(後の金沢美術工芸大学)が設立され、油画科講師となる。アメリカ駐留軍隊長カール氏より依嘱され、宿舎白雲楼の食堂壁画「日本の四季」を完成する。
昭和22年 宮本三郎熊谷守一栗原信黒田重太郎田村孝之介中川紀元鍋井克之正宗得三郎、横井礼市の九名で二紀会を創立、以後リーダーとして1974年第28回二紀展まで活躍、会の発展のために尽力する。
10月、第1回二紀展を都美術館でひらく。
昭和23年 第1回金沢文化賞を授与される。
2月、金沢美術工芸大学教授となる。
昭和24年 この年より新聞社主催などの展覧会への招待出品が多くなる。
昭和27年 5月、渡欧、スペイン、イタリア、ギリシャを巡遊し、パリ滞在中近郊写生に専念する。
昭和28年 3月、ヨーロッパより帰国、滞欧作を第7回二紀展及び個展で発表。
東京都美術館参与。
大蔵省外国映画優秀作品選考委員。
多摩美術大学教授となる。(昭40.3まで)
昭和29年 エジプト国際展に出品、褒章を受ける。
長女、美音子結婚。
昭和30年 東京教育大学教育学部芸術科非常勤講師となる。
(昭39.3まで)
昭和38年 ユネスコ日本国内委員会委員に就任する。
昭和39年 国立競技場にモザイク壁画装飾を完成。
昭和41年 1月、日本芸術院会員となる。
昭和42年 4月、二紀会が社団法人となり、初代理事長になる。(逝去まで)
昭和43年 郵政審議会専門委員となる。
昭和45年 東京都美術館運営審議会委員となる。(任期昭和49まで)
国立西洋美術館評議会評議委員となる。
昭和46年 財団法人ユネスコ・アジア文化センター評議員となる。
金沢市立美術工芸大学名誉教授となる。
昭和47年 文化庁優秀映画制作奨励金交付候補作品選考委員となる。
東京都上野美術館の改築にあたり、東京都新美術館建設委員となる。
昭和48年 文化庁芸術文化専門調査会(万博美術館利用問題調査)委員となる。
安井賞審査員(評議員兼任)となる。
12月19日、文京区の日立病院へ入院、手術をうける。
昭和49年 1月29日、日立病院を退院。
8月23日、文京区の東京大学医学部附属病院へ入院、再度手術を受ける。
10月13日、東京大学医学部附属病院第一外科にて「腸閉塞による心臓衰弱」のため逝去、享年69歳。
同日付けにて天皇陛下より祭粢料を賜わり、従四位に叙せられ勲二等瑞宝章を賜った。10月15日、近親者にて密葬をいとなみ桐ケ谷で荼毘にふす。
10月21日、青山葬儀所において二紀会葬が行なわれる。
11月30日、七七日忌の法要を世田谷の九品仏浄真寺にてとりおこなう。
昭和50年 1月、故人の遺志により、東京国立近代美術館へ作品寄贈。
宮本三郎遺作展委員会、朝日新聞社主催、文化庁後援、二紀会協賛で5月13日より25日まで日本橋三越本店七階、6月3日より8日まで大阪三越七階、6月13日より22日まで金沢MROホールで遺作展が開催される。出品点数75点。
(西嶋俊親・編)
(本年譜は、宮本三郎遺作展目録より転載しました

出 典:『日本美術年鑑』昭和49・50年版(285-286頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「宮本三郎」『日本美術年鑑』昭和49・50年版(285-286頁)
例)「宮本三郎 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9363.html(閲覧日 2024-04-20)

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