喜多武四郎

没年月日:1970/11/28
分野:, (彫)

 彫刻家、日本画府彫塑部会員、元日本美術院同人の喜多武四郎は、11月28日午前6時5分、東京都文京区の東大病院分院でせき髄竹状硬化症のため死去した。享年73歳。号・寒泉、茸々子(じようじようし)。明治30年12月12日、武英三男として東京・本所に生まれた。東京府立第三中学を修業、もともと病弱のため美術家になることを母が止めたが、家出して川端画学校に寄宿した。大正7年偶然の機会に戸張孤雁を知って師事、以後彫刻を志して日本美術院研究所研究員となり、同9年には院展に初入選し、翌年には院友に推された。その頃先輩に中原悌二郎、石井鶴三があり、同輩に木村五郎橋本平八らがあつて、得難い師友に恵まれながら切磋琢磨を続けた。昭和2年には日本美術院同人に推挙されたが、この年師の戸張孤雁を病気で失なった。震災と其後の不況のため生家衰え、父母相次いで逝去。住居を練馬に移した。昭和3年には会津八一を紹介され、その人格に親炙したが、31年病没後には「会津八一氏肖像」をつくるまでに恩顧を蒙った。昭和34年には院展で文部大臣賞を、同37年には紺綬褒章を受けた。
 長年、院展でのよき後輩として終始喜多の仕事を高く評価しつづけた石井鶴三先輩は、昭和29年7月の丸ビル二階・中央公論社画廊での彫刻個展の案内状に、「喜多武四郎君は現代に於て稀に見る彫刻家で、喜多君の仕事を見て小生は純粋彫刻と云ったことがあります。何の景物も添えられていない純粋に近い彫刻活動によって作品が成されているからであります。それだけ一般には理解され難いところがありましょう。喜多君は長年にわたり彫刻を追究し其真摯な態度はもつと認められて然るべきところと思います。」と寄せている。昭和36年2月日本美術院彫塑部解散後は数年間無所属で過ごしたが、昭和43年からは日本画府彫塑部会員に迎えられ、同年第15回日府展から晩年の2、3年を孤高で地味に作人発表を続けた。

出 典:『日本美術年鑑』昭和46年版(110頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
『日本美術年鑑』に収録されている以下の記事にも「喜多武四郎」が含まれます。
to page top