村田徳次郎

没年月日:1973/12/17
分野:, (彫)

旧日本美術院彫塑部同人・粲々会会員の村田徳次郎は、12月17日午前8時、膵臓癌のため、東京都板橋区の日大病院で死去した。享年74歳。明治32年10月15日大阪市南区心斎橋筋の半エリ専門店「ゑ里徳」の長男として生れた。父村田徳松、母ハマ。はじめ家業をつぐため私立大倉商業学校に入学したが、大正3年3月、同校2年修了で中退、4月京都市立美術工芸学校、本科4年制の準備過程予科2年に編入され、翌年4月同校本科(図案科)へ進学、大正8年4月同校を卒業した。本科2年生になってから卒業まで特待生に選ばれたという。卒業の年、徴兵適齢に達し、同年12月一年志願兵として輜重第四大隊へ入営し、翌9年12月現役満期除隊した。同年末の12月30日父徳松が死去したので2年あまり家業に従事した。大正13年4月より家業を義兄にゆずり日本美術院に所属、専ら彫刻研究をはじめた。大正15年第13会院展に「小児像」が初入選してより毎回入選した。昭和2年東京府北豊島郡にアトリエを新築して住居を移し、12月5日から日本美術院研究会員となった。昭和5年5月には日本美術院院友に推挙された。同7年、第19回院展出品の「女座像」他2点で日本美術院賞を受け、同13年第25回院展に「肘つける少女」「女立像」「男半伽像」を出品、同人に推挙された。以後第二次大戦中をはさみ昭和36年2月、日本美術院彫塑部解散にいたるまで、その中堅作家として、とりわけ石井鶴三に尊敬私淑し、また同門の喜多武四郎、松原松造らと共に研鑽、終始きびしい製作態度をもって、対象の外形よりも内面性追究に重きをおいた作品を発表し続けた。戦後は、昭和23年2月末東京美術学校講師に任ぜられ、昭和40年3月31日、定年で東京芸大美術学部基礎実技≪工芸科・建築科≫塑造担当(昭和34年4月以来)を退官するまで後進の指導に尽力した。昭和34年5月には、同士相寄り粲々会(第1回展を日本橋三越で開催)を結成し、昭和47年10月の第12回展開催の晩年にいたるまで中心的存在として活躍した。殊に、かねて会員の分担によって読売ランドに仏教祖師像(村田は「親鸞聖人像」を担当)を建立するため製作中だったのが、いよいよ完成の運びとなり、昭和40年10月の第5回展(読売新聞社主催・新宿京王百貨店)をその成果披露の場となした。また昭和47年10月の第12回展「巨人軍を彫る」(読売新聞社主催・東京読売巨人軍後援)を渋谷東急百貨店で開催、「オーナー正力氏像」「長島選手」「渡辺投手」を出品して、いわば「彫刻と一般大衆との結びつき」を計るなど、会員相互の研究と共に一種の彫刻普及運動を積極的に行った。没後、昭和49年5月の第13回白呂会展(旧称粲々会・銀座ゆうきや画廊)には、「腰かけた女(絶作)」「足を組む」など6点が遺作として出品された。なお故人の全貌は、東京芸大講師時代の教え子たちが中心となった作品集編纂会による『村田徳次郎作品集』昭和50年7月15日発行に詳しいことを附記しておく。

出 典:『日本美術年鑑』昭和49・50年版(250頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「村田徳次郎」『日本美術年鑑』昭和49・50年版(250頁)
例)「村田徳次郎 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9299.html(閲覧日 2024-04-20)

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