山脇敏男

没年月日:1974/09/19
分野:, (彫)

 彫刻家、日展会員の山脇敏男は、9月19日午後4時10分、心筋こうそくのため東京都杉並区の河北病院で死去した。享年82歳。明治25年4月20日新潟県村上市で堂宮の建築を業としていた山脇三作の次男として生まれた。本名二太郎。村上中学2年生のとき父に死なれて中退、4年後の明治44年春上京して加納鉄哉の門をたたいた。師に才能を認められ東京美術学校彫刻専科に入学したが、苦学の仕事のため中退した。大正13年第5回帝展に農婦の木彫「田のもの畑のもの」が初入選し、以後順調に第15回帝展(昭和9年)まで毎年入選を重ねた。大正14年木彫界の大先輩内藤伸の知遇を得て師事、その主宰する木生会に加えられ奮起するところがあった。昭和11年文部省招待展には招待出品をなし、翌12年の新文展からは無鑑査出品となった。
 昭和20年東京大空襲のためアトリエを焼失罹災して村上市に帰り、帰郷中には仏像製作に専念した。その代表的なものに、光背台座共の高さ18尺に及ぶ「開運観音」、同じく12尺の「聖観音」「揚柳観音」(三体とも新潟県南魚沼郡大和町大崎の竜谷寺に安置)や「釈迦牟尼仏」(大宮市興徳寺本尊)などがある。戦後29年には漸く現住所にアトリエを建てて上京した。昭和31年「母子像」を日展に出品してより再び東京での発表活動を行った。40年第8回日展から委嘱出品となり、第10回日展出品「動」は菊花賞を受け、翌年第11回日展では審査員をつとめ、翌44年改組第1回日展から会員となって木彫一筋に励んできた晩年を飾った。昭和49年9月勲四等瑞宝章を受けた。

出 典:『日本美術年鑑』昭和49・50年版(287頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
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