三浦小平

没年月日:1972/09/08
分野:, (工,陶)

新潟県佐渡の小平窯で有名な陶芸家三浦小平は、9月8日午前3時28分、腸閉ソクのため佐渡郡相川町の相川病院で死去した。享年73歳。告別式は10日午前10時から同町玉泉寺で行なわれた。明治31年(1898)10月1日新潟県佐渡郡に三世常山(吉原清吉)の二男として生まれた。幼名、博。因みに生家は、祖父三浦常山(初代)が佐渡に開いた無名異焼(むみょういやき)の窯元であって、常山窯としては江戸末期から明治中期にかけての東京における陶芸の名家、三浦乾也に初代から三世まで指導・愛顧を蒙ったという。伯父良平(二世常山)の後を、父清吉が三世を継いでいた。博(のちの小平)は明治37年相川町立相川小学校に入学し、以来佐渡中学校に進学したが中退して、相川町の史家であり漢学者であった岩木拡(号枰陵)の私塾に通って漢学を学んだ。のちに上京して日本美術学校に入り、洋画を勉強した。更に葵橋洋画研究所に転じて3年間画技の修得に励んだ。当時の多感なこの画学生は、草土社の岸田劉生や中川一政、それに関根正二らのヒューマンな作品に傾倒し、また自分でも人物画をリアルに描こうと試みるなど、その影響を多分に受けた。しかし彼は、自分の画技に対する限界と、画家として立つ経済的困難性を考え、しかも父常山三世の懇請もあって、遂に画家志望を断念し、大正11年帰郷して父のもとで薫陶をうけながら家業に従事することになった。昭和4年12月22日、父が脳溢血で急逝して、その跡目は常山二世(良平)の長男舜太郎が帰郷して常山四世となったので、彼は常山窯をはなれて独立し、翌5年1月、小平窯を創始した。以後、陶芸家としての活躍は、次の略年譜に詳しいが、青年時代に修めた洋画の素養は、後年の作陶に活き、殊にその絵付けにすぐれた特技を現わし、むしろ陶芸家というより陶画家としての本領を発揮し得たといえよう。
略年譜
明治31年 10月1日新潟県佐渡郡において、三世常山(吉原清吉)の二男として生る。
明治27年 相川町立相川小学校に入学し、以来佐渡中学校、日本美術学校と進学したが、生来の勝気と世相の変転とに影響され破乱の多い青年期を送った。
大正13年 父常山の陶業に従事し、立志家業を継いだ。
昭和3年 1月、三上イシと結婚する。
昭和4年 12月22日、父三世常山死亡する。
昭和5年 1月、家督相続について親戚協議を経て小平窯を創設する。
昭和23年 日展入選「いか文花瓶」。
昭和24年 8月20日、高松宮殿下御来訪。
昭和24年 10月黒田陶苑にて第1回個展を開催する。以後、昭和28年第5回個展まで同時期、同場所にて毎年個展を開催。
昭和29年 日本橋三越にて第6回個展を開催する。6月、朝日新聞社主催・現代日本陶芸展に招待出品、以来毎回出品する。
昭和33年 東京国立近代美術館主催・国際陶芸展に招待出品「渚のリズム大皿」。10月、新潟市小林百貨店において親子三人展を開催。
昭和36年 8月、三笠宮殿下御来訪。12月、相川病院に入院、胃かいようを手術す。
昭和43年 7月、現代茶陶百家集、現代陶芸図鑑に作品収穫される。
昭和44年 12月、現代の茶盌に収録される。
昭和45年 第四銀行賞受賞。
昭和47年 9月8日午前3時28分死去。勲六等単光旭日章を受ける。
昭和48年 10月19・20・21日 新潟県佐渡会館にて遺作展が開催される。

出 典:『日本美術年鑑』昭和48年版(84-85頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「三浦小平」『日本美術年鑑』昭和48年版(84-85頁)
例)「三浦小平 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9287.html(閲覧日 2024-03-29)

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