奥村博史

没年月日:1964/02/18
分野:, , , (洋,工)

もと国画会洋画会員で金工家でもある奥村博史は、2月18日東京都世田谷区関東中央病院で急性骨髄白血病のため死去した。享年72歳。神奈川県に生れ、17歳のとき画家を志したが、父に許されず、19歳の春家出して日本橋浜町の奇寓から水道橋の日本水彩画会研究所に徒歩通学して絵を学んだのち日本各地、中国を旅行しながら描く。はじめ二科会に出品、うち国画会にうつり、国画会同人、日本水彩画員会となる。晩年は無所属。夫人明子は、筆名平塚らいてうで、自伝「めぐりあい」がある。
略年譜
明治22年 10月4日藤沢に、奥村市太郎の長男として生れる。藤沢小学校、逗子開成中学校卒業。
明治42年 上京。大下藤次郎主宰の日本水彩画研究所に入学、水彩画を学。大下藤次郎逝去後油絵に転向。
明治45年 巽画会に初めて油絵「青いリンゴ」を出品、受賞。
大正3年 日比谷美術館で第一回油絵個展開催。第1回二科展に油絵「灰色の海」出品入選、続いて「畑」「植物園?」など初期の二科展に連続出品、入選。中途で、孤独を守るようになり、以後個展以外にはあまり発表しない。
大正14年 日本水彩画会会員に推薦される。成城学園の画の教師となる。
昭和5年 この頃、自宅アトリエで、デッサンの勉強会を毎週開く、武者小路実篤他、新しき村美術部のメンバー等集る。
昭和7年 油絵個展を交詢社4階で開催。
昭和8年 冨本憲吉氏に勸められ自作の銀指環を国展に出品、受賞。国画会会員に推薦される、以来画業とともに指環の制作は晩年まで続く。
昭和9年 大阪天賞堂画廊で油絵小品と指環の個展開催。
昭和11年 日本水彩画研究所時代からの旧友赤城泰舒氏と中国へ写生旅行。上海滞在中制作した臨終の魯迅像(油)は現在上海魯迅記念館蔵。
昭和12年 大阪の中村ギャラリーで第2回指環個展開催。この頃から戦争に入るまでの間に、新交響楽団のバッヂ、文化学院の卒業記念のクラスリング等も制作。どの団体に所属することも好まなかったが、戦後新しき村美術部の会員となり、稀に村の展覧会に油絵デッサンを出品。
昭和28年 晩年の10年の裸婦デッサンが千枚ほどに達したので、整理して二・三冊のデッサン集を作る企画中発病入院。
昭和39年 2月18日死去
11月、「奥村博史素描集」出版、(奥村博史遺作集刊行会編、平凡社発行)
昭和40年 10月「奥村博史わたくしの指環」出版。(奥村博史遺作集刊行編、中央公論美術出版刊行)

出 典:『日本美術年鑑』昭和40年版(125頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「奥村博史」『日本美術年鑑』昭和40年版(125頁)
例)「奥村博史 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9216.html(閲覧日 2024-04-20)

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