坂本繁二郎

没年月日:1969/07/14
分野:, (洋)

洋画家坂本繁二郎は、7月14日午後6時37分、福岡県八女市の自宅で老衰のため死去した。享年87才であった。政府は18日の閣議で、従三位、銀盃一組を贈ることを決定した。葬儀は、18日八女市無量寿院で密葬、21日八女市葬として同市立福島中学校において行われた。坂本繁二郎は、明治15年に福岡県久留米市に生まれ、小学校の同級に青木繁がおり、10才のころ、洋画家森三美について手ほどきをうけた。青木繁との交遊は、青木の死まで、相互に刺激し合いながらすすめられた。明治35年上京して小山正太郎の不同舎、つづいて太平洋画会研究所に学び、青木繁、森田恒友、正宗得三郎らと交わり、明治37年の太平洋画会展に初めて作品を発表した。坂本は、当時の洋画界の旧派に属する堅実な写実派の太平洋画会から出発し、しだいに明るい印象主義的作風へと変化し、大正3年二科会創立に参加して以後、牛を題材とした作品を中心としてようやく個性的な画風を形成してきた。大正10年~13年のヨーロッパ留学も、坂本の芸術には本質的な動揺はなく、帰国後は、郷里久留米近郊の放牧馬に取材した題材の作品を多く発表、昭和6年には、九州、八女市に住居を移し、以降その地にあって、寡作ながら馬、果物、野菜などを題材にした作品を発表してきた。戦後は、美術団体に属さず、芸術院会員推挙を辞退し、静かな創作生活を過してきたが、昭和25年眼を悪くして手術、左眼はほとんど視力を失う不幸にみまわれたが、制作は続けられ、昭和29年、毎日美術賞をうけ、同年八女市名誉市民となり、同31年には文化勲章を受章した。
 年譜
明治15年(1882) 3月2日、旧筑後久留米有馬藩士坂本金三郎の二男として、久留米市に生まれる。母歌子。坂本家は、代々馬廻役として知行百五十石をうけていたといわれ、父金三郎は、江戸詰めのとき勝海舟に造船術を学んでいた。
明治19年 3月21日、父金三郎痘瘡に罹り、39才で死去。
明治21年 両替尋常小学校に入学。
明治24年 両替尋常小学校を卒業。
明治25年 久留米高等小学校に入学、同級生に青木繁がいる。久留米市日吉町の森三美をたずね洋画を学ぶ。
明治28年 久留米小学校を卒業。以後、明治33年まで自宅で浪人生活をおくる。
明治30年 「立石谷」(絹本墨画)を描く。
明治31年 「刈入れ」(水彩)を描く。
明治32年 「秋の朝日」(油彩)を描く。
明治33年 3月15日、三高在学中の兄麟太郎死去する。森三美の尽力により、久留米高等小学校図画代用教員となる。
明治35年 徴兵検査を受け乙種となり、このとき帰郷していた青木繁と再会し、その刺激をうけて上京を決意し、8月、青木繁とともに上京、小山正太郎の不同舎に入舎し、石膏、モデルのデッサンなど本格的な洋画の勉強にはいる。11月、青木、丸野豊と信州に写生旅行し、島崎藤村、丸山晩霞をしる。
昭和37年 太平洋画会研究所に通う。本郷曙町、神明町に青木繁と同宿する。7月、青木、福田たね、森田恒友と千葉県布良に写生旅行する。第3回太平洋画会展に、「町うら」(油)、「入日」「月夜」「くもり日」「秋陽」「雨後」(以上水彩)を出品する。
明治38年 4月、第4回太平洋画会展に「早春」(油)、「景色」(水彩)を出品する。
明治39年 夏、森田恒友と伊豆大島に写生旅行する。
明治40年 3月、東京府勧業博覧会に前年の旅行時に取材した「大島の一部」を出品し、三等賞をうける。10月に開かれた第1回文展に「北茂安村の一部」を出品する。雑誌『方寸』創刊され、寄稿する。
明治41年 北沢楽天の東京パック社に入社し、人生批評的な漫画をかく、同僚に川端滝子、石井鶴三山本鼎などがいた。
明治43年 1月4日、郷里においていとこにあたる権藤薫と結婚。母とともに護国寺亀原台に居住。10月、第4回文展に薫夫人をモデルにした「張り物」を出品、3等賞をうける。
明治44年 東京パック社を退社。
10月、第5回文展に「海岸」を出品、3等賞。
明治45年 千葉県御宿地方に旅行。
10月、第6回文展に「うすれ日」を出品、夏目漱石が朝日新聞紙上で批評する。
大正2年 雑司ヶ谷鬼子母神わきに転居、4月24日長女栞生まれる。
10月、第7回文展に「魚を持ってきてくれた海女」を出品。このころ、詩人グループ青芝会と接触し、前田夕暮、窪田空穂、河井酔茗。三木露風らと交友する。とくに、三木露風の影響をうける。
大正3年 10月、二科会創立に参加し、鑑査員となり、第1回展に「海岸の牛」を出品する。同月、国民美術協会第2回展に「人参畑」を出品する。
大正4年 池袋に転居。10月、2回二科展に「牧場」「砂村の家」「暑中休暇の校庭」を出品。
大正5年 10月、3回二科展に「国道筋」「柿の若木」「母子」(コンテ)を出品。
大正6年 9月、4回二科展に「髪を洗う」「緑」を出品。
大正7年 9月、5回二科展に「苗木畑」「栴壇樹」「静物」「那古海岸」を出品。
大正8年 11月21日、次女幽子生まれる。二科展に不出品。
大正9年 9月、二科展に「牛」を出品、日本風景版画集の「筑紫の部」を制作する。
大正10年 中島重太郎の協力により半切の日本画を頒布。東京湾汽船社長渡選偟の援助をもうけて、7月31日、クライスト丸にて渡欧する。9月17日マルセイユに上陸、パリの14区エルネスト・クレッソン通18番のアパートに入る。10月10日アカデミー・コラロッシに通う。
大正11年 7月21日バルビゾンに遊ぶ。8月17日里見勝蔵とマダム・ピサロをエラニー・バサンクールに訪ねる。
大正12年 1月16日、斎藤豊作正宗得三郎とオーベル・シュール・オワーズのガッセ訪問。
3月4日ブルターニュ・キャンペレに赴く。
3月11日キャンペレ再遊。
3月19日~4月10日クロアジック滞在。
6月6日~7月8日ヴァンヌ滞在。「眠れる少女」「帽子を持てる女」をサロン・ドートンヌに出品。
大正13年 7月2日パリを出発して帰国の途につく。7月13日~19日オルナンに滞在。
7月27日マルセイユを香取丸にて出帆。8月31日門司港 9月10日神戸に上陸。久留米市に仮寓する。
大正14年 秋の第12回二科展に滞欧作品に帰国後の作品2点を加え、「老婆」「馬」「家政婦」ほか14点を出品、特別陳列する。
大正15年 友人たちによる東京、奈良などへのさそいをしりぞけ、筑後に住みつき、久留米近郊、阿蘇などをめぐり、馬を描く。
5月 聖徳太子奉讃展に「松」を出品。
昭和2年 第14回二科展に「家政婦」「郊外」「塾稲」「馬」を出品。
12月25日母歌子死去する。
昭和3年 第15回二科展に「桃」「春郊」を出品。
昭和6年 福岡県八女郡の町営住宅に転居し、同郡にアトリエをたてる。
昭和7年 第19回二科展「放牧三馬」を出品。
昭和8年 清光会に「馬」を出品。
昭和9年 第21回二科展に「繋馬」出品。
昭和10年 帝国美術院展参与に推されたが、これを拒否し、第22回二科展に「二仔馬」出品。
昭和11年 第23回二科展に「放牧二馬」を出品。
昭和12年 第24回二科展に「水より上る馬」を出品。
昭和13年 第25回二科展に「松間馬」を出品。
昭和14年 身辺所産の柿、栗、馬鈴薯などの静物を描きはじめる。
昭和16年 1月、草人社により大阪で初めての個展を開催する。
3月、屏風制作のため南紀地方を旅行する。第28回二科展に「甘藍」を出品。
昭和17年 還暦記念として第29会二科展で特別陳列、東京展21点、大阪展30点。
11月 福岡日日新聞文化賞をうける。
昭和18年 第30回二科展に「壁画下図その1」を出品。二科展解散し、以後団体に所属せず。
昭和20年 壁画を完成する。
昭和21年 秋、日本芸術院会員に推れたが、辞退する。能面を描きはじめる。
昭和22年 1月福岡市玉屋百貨店において回顧展を開く。9月大阪・阪急百貨店において梅原龍三郎安井曽太郎との三巨匠展開催される。
昭和23年 1月草人社により福田平八郎との二人展大阪大丸において開催される。
昭和24年 九州タイムズ文化賞をうける。
昭和25年 2月、眼疾共同性内斜視を手術。
6月から東京、大阪、福岡、熊本において自選回顧展開催される。
昭和27年 3月草人社により福田平八郎徳岡神泉との三人展に「馬」の大作を発表する。
日本国際美術展に「猩々面」を出品。
昭和28年 第2回日本国際美術展に「水より上る馬」を出品。
昭和29年 1月、毎日美術賞をうける。
4月、八女市名誉市民となる。
5月、27回ヴェニス・ビエンナーレ展に岡本太郎とともに出品する。
昭和31年 8月久留米石橋美術館において青木繁との二人展開催される。
9月「坂本繁二郎文集」(中央公論社)出版される。
11月 文化勲章をうける。
昭和32年 11月眼疾のため熊本の病院に入院する。
昭和33年 1月~3月東京、岡山、福岡、熊本において「馬の素描」展開かれる。
昭和35年 5月「坂本繁二郎夜話」出版。
昭和36年 11月八女市西公園に銅像建立される。
昭和37年 11月東京白木屋において自選回顧展開催される。「坂本繁二郎画集」「坂本繁二郎画談」出版される。
昭和38年 1月朝日賞をうける。
昭和39年 「月」の制作はじまる。
昭和42年 4月~11月西日本新聞に「坂本繁二郎の道」連載される。
10月身体の変調をうったえ、前立腺肥大症と診断される。
昭和44年 5月~6月日本経済新聞に「私の履歴書」を寄稿。
7月14日死去。
10月「私の絵私のこころ」出版される。
昭和45年 1月~4月 福岡、大阪、名古屋、札幌、東京において追悼展開催される。

出 典:『日本美術年鑑』昭和45年版(76-78頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「坂本繁二郎」『日本美術年鑑』昭和45年版(76-78頁)
例)「坂本繁二郎 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9209.html(閲覧日 2024-04-19)

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