太田三郎

没年月日:1969/05/01
分野:, (洋)

 洋画家太田三郎は、5月1日、心不全に因り、東京都武蔵野市の自宅で死去した。享年84歳、勲5等に叙せられ、雙光旭日章を授けられた。生誕は、明治17年(1884年)12月24日、愛知県西春日井に於て、枇杷嶋は名古屋向け青物の市場の地、三郎の生家も其の問屋の一つであったが、父が富裕にまかせて風雅に流れ、僊艸の雅号で絵(日本画)をかいたりして、産を破った。文雅と貧窮とを相続して、三郎は、17才で東京に奔り、画業を苦学した。黒田清輝に西洋画を学び、白馬会洋画研究所に通ったが、他方、日本画をも寺崎広業に習った。洋画家として地歩を占めた後も、折々日本画をものし、また洋画に日本画の気味・手法を交へることが有った所以である。日本画には、三郎をもじった「沙夢楼」の号を用いたこともある。洋画は、大正2年(1913)、第7回文部省美術展覧会に『カフェの女』を出品して賞を受け、夙にヨーロッパ留学を企てていたが、世界大戦(第一次)に妨げられて遅れたのを遺憾とした。大正9年(1920)に至り同11年(1922)まで滞欧の念願を遂げ、フォービズムとキュビズムとの影響を受けて帰朝、作風の変化を見せ、爾後、裸婦を主とした作品を官展に発表し、昭和8年(1933)、帝展審査員を命ぜられた。属した美術団体としては光風会を挙ぐべく、又、同郷の和洋画家・彫刻家・工芸家等と共に愛知社を組織したことは愛知県の美術振興に大いに寄与したものである。三郎は、大形作品のほかに、雑誌・新聞等の挿絵に軽妙の筆を揮い、川端康成『浅草紅団』・矢田挿雲『太閤記』のそれなどが代表作である。なお、挿絵類執筆には仮名「君島柳三」を使ったことも有る;之を別人と思う人がままいるのは誤解である。挿絵と共に注目するべきは、明治末・大正初の絵はがき流行の頃、『ハガキ文学』に関係して、スケッチ趣味を世に広めたことである。第二次世界大戦後は、思う所あって中央画壇を去り、郷里に帰住し、地方文化の向上を念として、知事桑原幹根の知遇のもとに、愛知県文化会館の設立に参画し、昭和30年(1955)、同館美術館創設と共に美術館長に任ぜられた。長老として展覧会の割当て等をよく裁いたけれども、同35年(1960)、病いを得て辞任した。むかしスケッチブックを手にして好んで散策した武蔵野のおもかげを僅かに残す玉川上水のほとりに戻り来って閑居、余生十年を得たが、小康の春日、写生に出たのが禍いし、病いを重くして死に至った。故人は、また文筆を善くし、著述が少くない。或いは抒情甘美・或いは叙事優雅なる画文兼作の書-『鐘情夜話』・『武蔵野の草と人』の類-は、之を悦ぶ人が少くなかった。
作画
榻に凭る 大正14年 第6回帝展
裸婦 大正15年 第7回帝展
コムポジション 昭和2年 第8回帝展
群像 昭和3年 第9回帝展
三嬌図 昭和4年 第10回帝展
ぐるうぷ 昭和5年 第11回帝展
蒼穹佼人図 昭和6年 第12回帝展
アラベスク 昭和7年 第13回帝展
モデルたち 昭和8年 第14回帝展
屋上 昭和9年 第15回帝展
房州の娘たち 昭和10年 二部展
素衣 昭和11年 第11回文展
水辺 昭和12年 第2回文展
磯 昭和13年 第3回文展
鳴弦 昭和15年 紀元2600年奉祝展
多産鑽仰 昭和18年 第28回光風会展
著述
蛇の殻 明治44年 精美堂
草花絵物語 明治44年 精美堂
ひこばえ 明治44年 精美堂
朝霧(妻はま子と共著) 明治45年 精美堂
鐘情夜話 大正7年 文陽堂
武蔵野の草と人 大正9年 金星堂
金髪の影を追うて 大正12年 朝香屋書店
世界裸体美術全集 昭和6年 平凡社
裸体の習俗とその芸術 昭和9年 平凡社
美と善の歓喜 昭和17年 祟文堂
爪哇の古代美術 昭和18年 祟文堂
東奥紀聞 昭和23年 新紀元社
性崇拝 昭和31年 黎明書房
風俗おんな往来 昭和35年 新紀元社

出 典:『日本美術年鑑』昭和45年版(70-71頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
『日本美術年鑑』に収録されている以下の記事にも「太田三郎」が含まれます。
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